このお話を毎年掲載するようになって、もう14年になります。
日本は侵略国だと言うおかしな日本人がいますが、日本と関わった東亜の諸国はその後ことごとく植民地支配を脱して独立国となり、いまでは世界の経済の中で欠くことのできない重要な地位を得るに至っています。
一方、チャイナと関わった国は、トルキスタンにせよ、チベット、内モンゴルにせよ、いずれも国民が悲惨な目に遭っています。
要するに、世界には、ためになる相手と、そうでな相手があるのです。

この両者の違いは、共生を重んずる相手なのか、自尊だけの相手なのかによる違いにあります。
日本は間違いなく、共生を重んずる国です。
そのために日本は、常に適合を心がけます。
西欧は制圧や征圧しますが、特亜国にはこれにうぬぼれが入ります。

小麦は、米、トウモロコシと並ぶ世界三大穀物のひとつです。
なかでも世界でいちばん生産量(=消費量)が大きいのが小麦です。

穀物は、どこの国も国が統括管理しています。
穀類は、国家の食糧自給のための最重要品目なのですから当然です。
食を奪われたら、国は外国のいいなりですから、そこに国民の自立はないし、自立がなければ国富が外国に奪われるのです。
まして国の政府なら、国民を飢えさせないのは、当然すぎるほど当然の最低限の仕事です。

パンやパスタが主食となる欧米では、小麦は国家の食糧自給のための最重要品目ですから、どこの国も小麦の生産を国が完全管理しています。
これは当然のことです。
国民あっての政府です。
国民を飢えさせないように、自国の食を最優先して確保するのは、当然の責務だからです。

ところが戦後の日本では、食料の自活はまったく議論されないどころか、「いざとなったら輸入すれば良い」という思考です。
それはいざとなったら、他国に依存する、つまり他国の言いなりになることを意味します。
つまり戦後の日本の政治体制(ステイト)は、日本の国家主権を否定しているのです。
国家主権が否定されているということは、国民の権利が否定されるということです。
それはもはや国民の政府ではありません。

ですから、世界中どの国においても国内で生産された穀物は、まず自国で消費備蓄する分を政府が優先して確保します。
余った分だけが輸出にまわるのです。

ひとつの証拠になる国があります。
中共です。
中共政府には、何かと非難がつきまといますが、それでも中共政府は、自国を世界最大の小麦生産国に育て、小麦の輸出をしていません。
国内生産のすべての小麦は国内消費に回り、さらに国内で備蓄さえも実現しています。
国民の生命や財産なんて、党幹部の金儲けの材料くらいにしか考えないといわれている中共政府は、実は、自国の自立のために小麦を、必死で確保しているのです。

そんな大事な備蓄をちゃんと考えようともしない。
食べられることがどれだけ幸せなことかを知らない。
そのような政府で、日本は本当に良いのでしょうか。

我が国では、戦前、全国どこにでもみられた麦畑は、いまではほとんど見かけません。
自給率が百パーセントあった小麦は、いまでは年間消費量約600万トンのうち、90パーセントが輸入です。
輸入先は1位米国、2位カナダ、3位オーストラリアです。
要するに我が国は大東亜戦争の戦勝国から「なぜか」小麦を「買って」います。

そして我が国が小麦を「買えて」いるのは、彼らの国に余剰生産高があるからです。
世界の気候は、常に変動しています。
万一、それら諸国が凶作になれば、我が国に回される小麦は激減することになります。

さらにおかしな現実があります。
戦後、我が国が輸入している小麦は、実は日本生まれの小麦なのです。

昭和20年、戦勝国として日本に乗り込んだGHQは、日本が開発し研究してた農作物の新種の種子を大量に収集して米本国に送りました。
それは「根こそぎ全部持って行く」というものでした。
この動きの中心となったのが米国人農学者のS・C・サーモンです。

彼はGHQの農業顧問として来日し、日本で開発された「農林10号」と名付けられた小麦を知りました。
彼は自ら岩手の国立農業試験場に出向き、収穫前の「農林10号」を視察しました。
そこで彼が見たものは、これまで世界の誰もが目にしたことのない新種の小麦でした。

当時、世界で生産されていた小麦は、背の高い小麦です。
収穫時の高さは120センチくらいになります。
「農林10号」は、背丈が60センチくらいです。
そのくせたわわに稔った実は、米国産の小麦の5倍の量がありました。

実はこのことは小麦の栽培にあたって、とても重要なことです。
背丈が半分ということは、地面から吸い取る栄養分が背の高い品種の8分の1で済むのです。
葉や茎に要する栄養分が少ないからです。

それまで米国で生産されていた小麦は、背が高く、大きくて、実が少なかったから、小麦の収量をあげるためには、とにかく密度を濃くして小麦を植えなければなりませんでした。
そのために、苗から苗までおよそ15センチ間隔で植えたというからすさまじいです。

稔る頃にはものすごい密度になります。
ところがこれをやると、農地の栄養分が吸い取られ、またたく間に土地が痩せてしまいます。
このため何年に一度は土地を休ませないといけない。
つまり広大な農地を遊休地にしなければならなかったのです。

ところが「農林10号」は、なんと50センチ間隔で植えることができる。
しかも背が低く茎と葉が小さいから、余計な栄養分を地面から吸い取らないし、風害にあっても茎が倒れない。
それでいて背の高い小麦より、はるかにたくさんの実を稔らせるのです。
つまり土地を枯らさず、単位面積あたりの小麦の収穫量は、当時の米国産小麦の5倍もあったのです。

農学者のサーモンは驚愕しました。
彼は「農林10号」の種子を残らず集めて東京に持ち帰り、米本国の農業学者たちにこの種子を「ノーリン・テン」の名前で送りました。

このとき種子を受け取ったひとりが、ワシントン州のO・A・フォーゲルです。
彼はサーモンから入手した「ノーリン・テン」を栽培し、量を増やし、新型小麦「ゲインズ」という名前で、全米の農家に売りに出しました。
この種子は全米で大当たりしました。
さらに全米で驚異的な出来高をあげ、小麦の収穫高を、一気に4倍に膨れ上がらせたのです。

噂を聞きつけたのが、メキシコで農業研究をしていた米国人農学博士ノーマン・ボーローグでした。
彼がどうしてメキシコで小麦の研究をしていたかというと、メキシコは高温多湿で地味が肥えていて、小麦の栽培に適していたからです。
ところがメキシコには小麦にサビ病という風土病がありました。
これが発生すると収穫が激減し、その都度メキシコは飢饉に見舞われていたのです。

ボーローグは自らメキシコに出向き、サビ病に強い小麦を研究していました。
そしてようやく病気につよい品種を完成していたのです。
彼が完成した小麦は「背が高くて」、病気に強く、稔りが多いという小麦でした。

これだけ聞くと完璧なようなのですが、稔りが多すぎて背が高いわけです。
穂先が重いから、麦が収穫前に倒れてしまうのです。
倒れた小麦は、育たず収穫できませんから、結果ボーローグの開発した新種の小麦は、肝心の収穫高がむしろ減ってしまうという結果を招いていました。
そんなわけでボーローグは困り果てていたのです。
そこに飛び込んできた情報が、背の低い「ゲインズ」の大成功だったのです。

ボーローグは、メキシコに「ゲインズ」を取り寄せると、さっそく自らが開発した品種と掛け合わせ、ついに稔りが多くて、背が低くて収穫期に倒れず、土地を痩せさせず、病気に強い理想の小麦を完成しました。
そしてこの功績でボーローグは国連農業機関員となりました。

彼は、国連の機関員として、発展途上国各地の農業を視察するとともに、各国から農業研究者をメキシコに呼び寄せて技術指導をし、指導を受けた者たちに、この新種の麦の種子を持ち帰ることを許可するという制度を開始しました。

制度を「新たに開始」したのです。
冒頭申し上げたように、小麦は大切な国内食材だから、メキシコでも、米国以外への種子の持ち出しは厳禁だったのです。
このことは逆にいえばS・C・サーモンが日本から種子を根こそぎ持って行ったということが、いかなる出来事であったかということでもあります。

 *

さて、ボーローグがメキシコの法まで改正して、ようやく世界にむけて新種の小麦の普及が図られ出した昭和40年のことです。
この年から翌年にかけて、インド、パキスタンで、冷害による大凶作が起こりました。
数千万人が飢えて死亡するという事態になったのです。

ボーローグは、インドに数万トン単位で、この新品種の種子を送り込みました。
そしてこの種子が稔ると、なんとインドの小麦の収量は、全土で2倍になり、パキスタンでも自給自足が可能なレベルにまで食が安定したのです。
この事件をきっかけにボーローグの小麦は「奇跡の小麦」と呼ばれるようになりました。
そして世界に普及し、世界の小麦収量を激増させました。

いま世界全体で生産される小麦は年間6億トンです。
けれども、農地(作付)面積は1960年から変わっていません。
1960年の世界の小麦生産高は2億トンです。
つまりボーローグの「奇跡の小麦」は、世界の小麦収量を3倍に増やしたのです。
これが「緑の革命」です。

今から200年ほど前、英国の経済学者トマス・ロバート・マルサスは、
「世界の人口は
 まもなく食糧栽培能力を上回り、
 人口はそれ以上に増えることはない」
と論じました。
ところが「奇跡の小麦」は、世界の食糧事情を好転させ、おかげで世界の人口は、200年前の3倍に増えています。
小麦の収量が増えた分だけ世界の人口が増えたのです。

ボーローグは世界の食糧不足の改善に尽くしたとして1970年には、ノーベル平和賞を受賞しました。
けれども長い間、ボーローグの「奇跡の小麦」がなぜできあがったのかは謎に包まれたままでした。
それがある日、ボーローグの口から「奇跡の小麦」は、実は日本で生まれた「農林10号(ノーリン・テン)」が親の品種であると語られました。

いま世界の人類の生存を支えている小麦の品種は数百種類に及んでいます。
それらはことごとく日本で開発された「農林10号(ノーリン・テン)」の子供たちです。

「農林10号」を開発したのは、日本人農学者の稲塚権次郎博士です。
ちなみに稲塚権次郎博士は「農林1号」も開発しています。
「農林1号」は、コシヒカリ、ササニシキの親です。

いま小麦の生産高はチャイナが世界第一位です。
しかしチャイナはもともと世界第一位の生産国だったわけではありません。
戦時中に「農林10号」を開発した稲塚権次郎博士が、北京の華北産業科学研究所に農業指導のために招かれ、小麦の改良と指導を行った結果、そのようになったのです。

稲塚博士は、終戦後も国民党政府から「帰らないでくれ」と懇願され、終戦後2年もチャイナに留まっています。
本土に復員したのは昭和22年になってからです。
おかげでチャイナの小麦収量は3倍となり、当時5億だったチャイナの人口は、いまでは15億、つまり3倍になっています。

 *

さて、ここから先は、こうした経緯を振り返って感じたことです。
あくまでも感じたことなので、失礼があればお赦しください。

先の大戦で、日本が前半戦において、まさに破竹の快進撃をしたのはご存知の通りのことです。
当時の帝国陸海軍は、まさに神に近い強さを持っていました。
米英濠仏、いずれも日本軍に敵う軍隊はなかったのです。
フィリピンを守っていたマッカーサーも、強大な陸軍力を誇示しながら、我が陸軍の前にまるで歯がたちませんでした。

しかもその戦いを為す我が軍はハーグ陸戦条約を遵守(じゅんしゅ)し、あくまで戦地の民間人が退去するまで、その地への攻撃をしかけていません。
攻撃も敵の軍事施設のみでした。
それでいて勝利を連続させていました。
まさに日本軍は世界最強であり、神にも通じる皇軍だったのです。

ところがある日を境に、我が軍は敗退につぐ敗退となりました。
それはまるでツキが落ちたかのようで、打つ手打つ手が裏目にでました。

そこで思うのです。
もしかすると日本の八百万の神々は、未来を見据(みす)えていたのではないか。
もし日本があの戦争に勝つか、あるいは昭和18年の時点で米英と講和条約を結んでいたらどうなったか。
おそらく米英との政治的軍事的敵対関係は継続されています。
インドもパキスタンも、英国領のままです。

日本にはすでに「農林10号」はありましたが、三大穀物の種子は親善国以外輸出禁止です。
そうであれば、昭和40年に起こったインド、パキスタンの凶作時、英国領である同国に「農林10号」は行き渡ることはありません。
つまり同国では、おそらく億単位の餓死者を出したであろうことが容易に想像されるのです。

日本が戦争を終わらせ、GHQが日本で開発された「農林10号」を米本国に持ち帰ったことから、米国の小麦収量は劇的に上がり、メキシコで病気に強くなり、奇跡の小麦が誕生し、それが世界に普及し、世界の人口が4倍の80億となり、インド、パキスタンも、餓死者を最小に止めることができました。
今ではインドは小麦の輸出国になっています。

一方戦の序盤から中盤にかけて日本が勝利を連続させなければ、その後の東亜諸国の独立はなかったであろうし、世界の人種の平等も確立されてなかったことでしょう。

八百万の神々の御心は、我々凡人には計り知れません。
しかし、以上の事実を、もし未来を知ることができる八百万の神々なら、どう判断し、どう行動したであろうかと思うのです。
日本を最後まで勝たせて世界の飢餓を招くのでしょうか。
それとも日本を敗戦に導いてでも、世界の民衆の幸福を図ろうとするのでしょうか。

おそらく後者であろうと思うのです。
これは、あくまで筆者の想像です。
しかし日本で開発された小麦はたしかに世界を飢えから救ったし、世界の人口を4倍に増やしました。
そしてかつて日本が掲げた人種の平等、植民地支配の終焉という壮大な目的も、いつのまにか達成しました。

しかも焼け野原となったはずの日本は、終戦直後の世界の最貧国状態から、わずかな期間で世界有数の富める国にまで成長しています。
おかげで国を守るべき政治家までが「平和ボケ」するくらいの平和と繁栄を手に入れています。

人の人生には、順調なときとそうでないときがあります。
けれど後で振り返ってみると、その「順調でないとき」の苦心と努力が、後の成功に結びついているものです。
これまた想像ですが、おそらく人の「順調でないとき」というのは、神々が「そこで立ち止まって考えたり、方向転換をしなさい」というチャンスをくれているときなのではないかという気がします。

日本経済は、この30年間、ずっと横ばいです。
世界の諸国の経済が成長する中で、日本だけが横ばいです。
これにより日本の経済的地位は低下しましたし、日本はその分、相対的に貧しい国になりました。

それは決して良いことではありません。
けれどこの30年間で、日本は「エコノミックアニマル」とはまったく言われなくなりました。

その一方で、経済的に成長した諸国では、富裕層が極端に裕福になった一方で、中流家庭が崩壊し、下層化が目立つようになりました。
もちろん日本にもその影響はすくなからずありますが、世界の諸国と比較したら、日本の圧倒的多数の家庭では、世界と比較すれば、まだギリギリ中流が保たれているように見えます。

そしてどういうわけか、世界の人々が、日本の精神文化を求めるようになってきました。
高度成長の前くらいの時代では、日本では地方の観光地や、古くからの文化遺産などがとても大切にされ、そうしたところへの団体旅行などが盛んに行われていました。

けれど高度成長以降、日本国内の古くからの観光地や文化遺産はめっきり衰退していきました。
ところが昨今、そうした古くからの観光地や文化遺産には、外国人観光客がひしめいています。

わかりやすいところでは、たとえば大阪城見物などは、日本人なら修学旅行でもなければ、まず行かないし、そんな修学旅行さえも、近年では、生徒たちが勝手に街を散策することが優先された結果、修学旅行での大阪城見学をする学校自体が激減しています。
その学校の生徒数が、少子化によって減少しているのですから、ますます大阪城見学に行く日本人が減っているわけです。
日本人が京都に行けば、その行き先はグルメとショッピングです。

ところがそうした文化遺産に、昨今は外国人観光客が大量に訪れるようになりました。
彼らの目的は、もちろんグルメやショッピングもあるでしょうけれど、それ以上に、古くからの日本文化に直接触れたい、というものです。

先日、京都御所の見学に行きました。
日本人でいたのは、犬の散歩と、まれにデート客くらいです。
御所内まで入って見学している人たちの8割が、全部、外国人でした。

おもしろいことに、まれにいる日本人客は、勝手に御所内をまわるだけですが、外国人たちは観光ガイドに案内されたり、あるいはスマホで聞くことができる観光案内を熱心に聴きながら、御所内を巡っていました。
御所の建物の写真をいっぱい撮っているのも外国人。
2〜3人のグループで来ていて、誰かにカメラのシャッターを頼んでいるのも、みんな外国人でした。

渡月橋でも金閣寺でも、駐車場のおじさんが言うのは、いまどき観光バスを連ねてやってくるのは、外国人ばかり、日本人はめずらしいねえ。。。

熱心に日本文化を吸収しようとする外国人。
日本文化に無関心で、グルメとショッピングといった物欲にしか目がない日本人。
みなさんがもし神様なら、日本人にいまなにを求めるでしょうか。

※この記事は2010年6月のねずブロ記事のリニューアルです。

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