イソップ物語に次のお話があります。

【キツネと酸っぱいブドウ】

ある日、キツネはみずみずしいブドウが高い木からぶら下がっているのを見つけました。
ブドウは本当に美味しそうでしたから、キツネは長いこと見つめていました。
ブドウが食べたくてたまらなかったのです。

キツネはとても高くとび上がりましたが、ブドウを取ることはできません。
何度とび上がっても、ブドウには手が届きませんでした。
キツネは疲れておなかも空いていました。
キツネは座り込んで、ブドウを見つめて言いました。

「私って本当に馬鹿みたい!
 何度とび上がってもブドウは取れない。
 おかげでとても疲れたし、
 おなかもペコペコだわ。」

ついにキツネは、ブドウに対して本当に腹を立てて叫びました。
「どうせあんなブドウはおいしくないわ。
 きっと酸っぱくてまずいわよ。
 もう食べなくていい!!」

キツネは「あのブドウは酸っぱい」と言いました。
でも本当は食べたくて仕方がなかったのです。
キツネは捨て台詞を吐いて立ち去りました。

 *

【ラクダと角(つの)】

ラクダは、角(つの)の自慢をする強そうな牛を見て羨ましくなって、自分も同じものを手に入れたいと思いました。
そこでゼウスの所へ出かけて、角を授けて欲しいとお願いしました。
するとゼウスは、大きな体と強い力に満足せず、余分なものまで欲しがるとはもってのほか、と立腹して、角をくっつけてやらなかったばかりか、耳の一部を取り去ってしまいましたとさ。

***

同じような話を二話ご紹介しました。
古い昔に読んだ記憶をお持ちの方も多いと思います。
この二つのお話は、いずれも「ないものねだり」の愚かしさの物語とされます。

しかし・・・
腹が減ったときにキツネがブドウを求めたのは合理的思考です。
体の大きなラクダが、さらに強くなろうと角(つの)を求めることも、合理的思考といえます。
さらに・・・
キツネはお腹が空いていたし、ラクダは牛より喧嘩に弱かったことを示しています。

実は「思想」も、これと同じです。
何かの思想があるということは、その思想が理想とする社会が、そこにないことを示します。

民主主義を理想とする社会は、実は少数の大金持ちによって民衆が支配され隷属させられている収奪型社会であって、実はそこに民主主義はないし、ないから人々が欲しがるのです。
あるいは自由主義を理想とする社会には、実は自由がない。
共産主義を理想とする社会には、実は共産も平等もコミュニティも存在しません。

要するに、ないから欲しい・・・つまりすべては「ないものねだり」の虚構でしかないのです。
昔の人は、それを称して「水中に火を求む」とか「木に縁(よ)りて魚(うお)を求む」と言いました。

四方を海に囲まれた日本では、海外の実情がわからないから、それらの主義を標榜している国に、本当に民主や自由があると思いこんでいます。
そして実際に海外に行くと、「ああ、やっぱり日本が良いな」と・・。

おもしろいもので、海外で生活していると、日本人女性が世界でいちばん美しい女声に思えてくるそうです。
なぜなら海外で接する日本人女性の情報は、週刊誌や動画など、きれいな女性ばかりだから。
同じことは、日本にいて外国人がかっこいいと思う心理にも似ているのかもしれません。

日本は、天皇を天子と仰ぐ国柄です。
そして、すべての人は天皇の「おほみたから」であるとする。
これが古来からある日本の形です。
君も宝、ボクも宝、彼も彼女も宝です。
だから人を尊重するのです。
日本人は、人と接するとき、どんな相手でも、まずは敬意を持って接します。
どんな相手も、「おほみたから」だからです。

これは思想ではありません。
主義でもありません。
古来から定まった「形」です。
日本人が「形」を大事にするのも、ここから出発しています。

お隣の半島の人は、やたらと「世界平和」を口にします。
世界平和自体は、もちろん良いことです。
しかしどうして「世界平和」なのかというと、彼らは腹の中を洗いざらいぶちまける、我慢しないのが正しいことだという文化を持ちます。
けれど、思いは人によってまちまちですから、それをすることによって常に周囲と衝突を繰り返すことになります。
そして上下関係が形成される。

結果、上に立てばやたらと支配的になるし、下であれば常に上のわがままに無理やり付き合わされることになります。このため、心中には「いつかころしてやる・・」という恨みが常にある。
つまり個人間の付き合いでも、会社などの組織でも、国自体も、その心中は平和とは程遠い、恨みが常にはびこっているわけです。
だからやたらと「世界平和」とか、「世界が平和でありますように」という言葉が使われます。
ないものねだりなのです。

「日本を取り戻す」という言葉が広く認知されたのは、いまの日本に日本らしさが欠けていることの裏返しです。
要するに、社会用語というのは、多くの場合、「ないものねだり」である、ということです。

立憲主義を守ることを標榜する人たちがいます。
彼らは憲法を守ることが大事だと主張します。
けれども日本は法治国家であり、憲法が守られています。
にもかかわらず、憲法を守れと言っているということは、彼ら自身は憲法を守る気がまったくないということの裏返しであるということです。
つまり破壊主義者です。

あるいは「あらゆる差別に断固として闘う」と言っている人たちがいます。
つまりそれらの人たちは、差別をしていると(彼らが思う人)を差別したいわけです。
つまり実は彼らこそが差別主義者であるということです。

表面上言われていることと、実体の違い・・・
もっとわかりやすく言えば、「言ってること」と「やってること」の違いの根幹にあるものは、常に「ないものねだり」です。
「みんなで勉強して、本当のことを知ろう。
 そうすることで、みんなで日本を変えよう」というのは、
「ない」から「創(つく)ろう」という運動です。
本気で日本を変えようとするなら、それしか他に方法がないのです。

そのためには一時的には「やってること」は独裁的にならざるを得ない。
これは当然のことです。
「みんな」が育ってくれば、まさに「みんな」で「日本を変える」ことが可能になります。
これは「形」を作ろうという運動であって、主義主張とは異なります。

そうしたことが、既存の「政党=主義主張」という見方ではわからなくなります。

出典根拠を示せという人がいます。
「そんな話、どの本に書いてあるのか?」
というわけです。

馬鹿なことを言ってはいけません。
書いてないから、述べたり書いたりしているのです。

そもそも、歴史において、本に書かれている内容というのは、その本を書いた教授なり著者の「論」でしかありません。
「論」は「事実」ではありません。
「事実」をもとにした、その教授なり先生の「意見」です。
その「意見」をもとに自説を組み立てても、それは「屋上屋を架す」ことにしかなりません。
考えるまでもない、あたりまえのことです。

そうではなく、「事実」に基づいて考える。
そして時系列に連続する「事実」が、合理的かつ客観的に再現可能性が極大になるように、ストーリーを組み立てる。
歴史学というのは、本来、そういうものです。
だから百人の歴史家がいれば、そこには百通りの歴史があるのです。
年号や事件名や、誰かの「意見」を鵜呑みにするのが歴史学ではありません。

「そんな話、どの本に書いてあるのか根拠出典を示せ」というのは、言ってみれば、「だってぇ、ママがそう言ってたもん!」と言い張っている子供と同じです。
すくなくとも筆者にはそう見えます。
大人なら、自分の頭で考えろ!ということです。

したがって、筆者の述べる歴史のストーリーも、それは筆者の「論」にすぎません。
ですから、それを鵜呑みになんてしてもらいたくない。

そういうことではないのです。
そこでもし、知的刺激を受けられたのなら、今度はご自分の頭で考えていただきたいのです。
それは、自分の仕事のことでも、社会のことでも、政治のことでも、医療のことでも、みな、そうです。

情報化社会というのは、そういうものです。
あらゆる情報が氾濫しているのですから、それらを鵜呑みにするのではなく、どれが正しいか、どれが自分で納得できるか、自分の頭で考えることが必要な時代になっているのです。

特定個人を叩いても、何の益もありません。
叩くことと、自分の頭で考えることは違うからです。

日本をかっこよくする。
そのために必要なことは、ひとりひとりの日本人が、誰かの意見を鵜呑みにするのではなく、それぞれが自分の頭で考えるようになること。
そこにこそ、日本再生のための、わずか一本の蜘蛛の糸の希望があるのです。

※この記事は2020年11月の記事のリニューアルです。

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