ポール・アンソニー・サミュエルソン(Paul Anthony Samuelson)といえば、世界的に有名な米国の経済学者です。
顕示選好の弱公理、ストルパー=サミュエルソンの定理、サミュエルソン=ヒックスの乗数・加速度モデル、バーグソン=サミュエルソン型社会厚生関数などを提唱し、ノーベル経済学賞を受賞した人物でもあります。

このサミュエルソンの書いた本が、有名な『経済学』で、経済学といえば、まずはこの本の名が出てくるほど、世界的にメジャーになっている書です。
大学時代に、この本で経済学の勉強をしたという方も多いのではないかと思います。
自分もそうでした。

そしてこの本の表紙裏に、有名な言葉があります。それが、

 個人にとっての美徳は  集団にとっての悪徳である

という言葉です。
一般にはこの言葉の意味は、個人が勤勉貯蓄を行うことは美徳だけれど、全国民がそのようになってしまったら経済は発展しない。むしろ個人が浪費(つまり悪徳)に走ることが、経済全体をうるおす。つまり経済全体の美徳になることを指していると言われています。

そして現在、世界の経済運営は、基本、この思想に依っています。
国家経済を伸ばすためには、むしろ個人が浪費してくれた方が良い。
もっというなら浪費を誘うことが、国家経済を成長させる、というわけです。
若い頃から、ずっとこの考え方を正しいと信じて来られた方も多いのではないかと思います。

ここにトラップがあります。

どういうことかというと、サミュエルソンの経済学というのは、米国の経済学です。
そして米国経済は、ごくひとにぎりの大金持ちがスポンサー(出資者)となり、そのスポンサーの持つ資金をいかに効率よく運営して、その出資金を増やしていくかが、実は経済運営そのものの考え方です。

たとえば大金持ちのスポンサーさんに、
「戦争をして多くの人の命を奪いたい。
 これをやれば大儲けできる。
 だから資金を出してくれ」
と依頼すれば、やはりスポンサーさんは、出資を拒否します。
まあ、なかにはソロスのような変わった人もいますけれど、彼はそもそも投資家です。
投資家というのはリスクを取って金儲けをするから投資家なのであって、純粋な意味での代々続く大金持ち家とは、すこし事情が異なります。

代々続く破格の大金持ち、巨富を持つ人というのは、どこの国にも必ず居ます。
我々は、1本100円のミネラルウォーターをコンビニで買いますが、それと同じ程度の感覚で一晩で一億円を飲み代に支払うことができるような大金持ちさんというのは、どこの国にもあるものです。
そしてその多くは、代々の大金持ちの家系ですから、基本、考え方が保守的です。
そのような人たちから、大金を出資してもらって、大儲けをする。
誰かが大儲けするということは、誰かが大損をするということですし、それが巨額の資金ならば、それだけより多くの庶民が損をすることになります。

それでも、出資をしてもらおうとするときに、そもそも「大金持ちさんの個人としての美徳は、集団にとって、つまり国家経済にとっては悪徳になるのですよ」というサミュエルソンの経済学は、実に説得力のある、有意な経済学となったわけです。

米国経済というのは、年間のGDPの約半分が上位数名の大金持ちのフトコロに入る仕組みです。
わずか数名の財布に吸い込まれるのです。
ですからGDPの成長は、そのまま上位数名の大金持ちのフトコロの伸び具合と連動します。
そして上位数名のフトコロを肥やすためには、米国民に浪費させよということを、理論的に正当化したのが、サミュエルソンの経済学です。

ちなみに米国GDPの残りの半分を全米3億の人々で分け合っていたのも、いまや昔の話です。
残りのGDPのうち、半分は、上位数名の大金持ちにぶら下がる数千名の人たちのフトコロに入ります。
結局、GDP全体の半分の半分(25%)を、全米3億の民衆で分け合うのです。

結果いま、米国で何が起きているのかというと、「奥さまは魔女」時代にあった米国の中流家庭の崩壊です。
中流家庭が、いまや下層民化し、貧困状態に置かれるようになりました。
つまり、全米の圧倒的多数の人々が下層民化したのです。
これを正当化したのが、サミュエルソンの経済学であったわけです。

日本もまた同じ構造になろうとしています。

日本では個人の所得の半分が税で持っていかれています。
そして日本政府は、ひたすら米国への貢ぐ君になっています。
これに協力するごく一部の人たちが、残りの富を奪い、1億の国民が、米国同様、貧民化しています。
同じことが起きているのです。

これがなぜ起きているのかといえば、戦後の日本が、日本国憲法の第一条に
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
と書かれているにも関わらず、学校教育において天皇のご存在の意義を教えず、またメディア等による社会人教育においても、それをしていない。

そのことがどうして経済の足を引っ張るかといえば、日本型経済モデルがもともとその形を根底においてきたという事実を、我々国民が忘れてしまっているからです。

どういうことかというと、この第一条の規定が、いわゆる「象徴天皇制」と呼ばれるものなのですが、天皇が我が国統治の象徴であったのは、はるか7世紀の昔から、ずっとそうなってきたのです。

天皇は国家最高権威であり、我が国の象徴であり日本国民統合の象徴です。
象徴ですから政治権力は持ちません。
政治権力は、天皇の下位機構である政府が担う。

つまり我が国の体制というのは、国家権力と国家の象徴を分けているという点に、その歴史的特徴があるのです。

天皇は、日本の象徴であり、日本国民統合の象徴です。
そしてその天皇により、日本国民は「天皇のおほみたから」と規程されます。
これにより、ひとりひとりの国民が、国家最高の「宝」となります。

ひとりひとりが「宝」なのですから、自分も宝、周囲の人々もみんな宝です。
そこに他人への思いやりの精神や、協同の精神が育まれます。
これにより、人と人との間に社会的地位の上下や富の大小があっても、すべての人が対等な存在という国柄が生まれます。

また政治は、人々を支配するためではなく、天皇のおほみたからである国民が豊かに安全に安心して暮らせる社会を担うことが責任となります。
責任ですから、政治は、実現できなければ責任を取らされることになります。
それが本来の日本の仕組みです。

これにより我が国では、たとえば昭和の頃には、社長さんの給料は、どんなに儲かっている会社であっても、新入社員の10倍までとされてきました。
これは西欧の体制とは異なります。
西欧では、社長さんの給料と平社員では、百万倍違います。

そして世の中で偉いのは、社会的地位のある人ではなくて、現場の第一線で汗を流している人という概念も生まれます。
なぜなら、その人達こそ、圧倒的多数の「おほみたから」だからです。

世の中を階層構造(ヒエラルキー)と捉え、その階層の頂点に立つ人の利益の極大化を図れば、サミュエルソンの経済学になります。
世の中を球体構造として捉え、誰もが主役であり、誰もが脇役であるといった視点に立つと、サミュエルソンの経済学は否定され、日本型経済モデルになります。

高度成長期の日本経済は、極端な言い方をすれば、「豚は太らせて食え戦略」に乗っかったものであったといえます。
いまは、その太らされた豚が、食われている状態です。
他国への依存をいつまでも続けていれば、当然、そのような形になります。

真の自立を果たし、日本が日本人による日本人のための政治を実現できるようにしていくこと。
日本には、それを実現するときが来ています。

※この記事は2022年11月のねずブロ記事のリニューアルです。

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サミュエルソン経済学と日本” に対して1件のコメントがあります。

  1. 土屋増美 より:

    共産主義は否定されましたが、資本主義も問われているということですね。

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