天国というのは、神や頭の上に輪のある天使などがいる清浄な天上の世界なのだそうです。
極楽浄土は、仏教の仏さまや菩薩が住む清浄な世界なのだそうです。

具体的にイメージしてみると、天国も極楽浄土も、美しい世界であり、どこにいても美しい音楽が流れ、良い香りがして、人々が優しくて食べ物が豊富な世界です。
街で人に会えば、誰もが丁寧にゆっくりした声で、
「こんにちは〜。きょうも良いお天気で〜〜」と声をかける。
かけられた方も、
「はあい。ほんにきょうは良いお天気で〜〜」と言葉を交わす。
なるほど素晴らしい世界です。

そういえば昔『帰って来たヨッパライ』という歌謡曲があって、歌の中で、
「天国良いとこ、一度はおいで。
 酒はうまいし、姉ちゃんはきれいだ」
と歌っていました(笑)

けれど、どうでしょう。
たいていの方は、そんなところ、三日もいたら飽きるのではないでしょうか。
三日目くらいになると、
「すみません。どこかにスマホはありませんか?」
「あのぉ、パソコンはどこかにありませんか?」
「ここって、Wi-Fiは使えますか?」
それらが、全部ないとなれば、
「じゃあ、囲碁か将棋盤はありませんか?!」
などと、刺激を求めるようになるかもしれません。

人によっては、天国の住民にもっと楽しんでいただくために作曲をしたり、楽器を演奏したりする人もあるかもしれません。
もっと美味しくて滋養のある食べ物を作ろうとする人もあるかもしれません。
天国の衣装をもっと楽しむために、ファッションデザイナーをする人が出るかもしれません。
楽しみを共有するために、みんなと一緒にビジネスを始める人もいるかもしれません。
もしかすると、恋をする人もいるかもしれない。

でも「何かをする」ということは、そこには失敗もつきものです。
失敗して落ち込んだら、そこがどんなに天国のような素敵なところであったとしても、本人にとっては地獄です。

要するに人の魂には向上心があり、人は生きるために、あるいはよりよい神になるために、なんらかの刺激がなければ、生きていられないし、刺激を求めればそこには必ずリスクがあるのです。

刺激のことを、現代用語で「ストレス」と言います。
ストレスはいけないこととされています。
ストレスとは「重圧となる重荷」のことです。
そうであれば、人は重圧を受ければ、押しつぶされるか、逃げ出すか、選択は二つにひとつしかないとされます。
そして、このような考え方のもとであれば、ストレスを受ければ、たいていの人は、潰れます。

けれど、よくよく考えてみれば、そもそも「ストレス」というのは外来語です。
もともとの日本語に「ストレス」という言葉はありません。
日本では、日々ある苦難のことを「ストレス」ではなく、「試練」と呼びました。
そして「神は乗り越えられない苦難は決して与えない」とされてきました。

だから、終戦の頃、日本中が焼け野原となり、住む家も、食べ物さえもなくなってしまった時代にあっても、人々は、「これは神々が与えてくださった試練なのだ。
 乗り越えることができるものだ。
 よおし!頑張ろう!」
と、むしろ笑顔で瓦礫を片付け、住まいを作り、着物を売ってお米に変え、必死に生き抜いて来たのです。
そのおかげで、いまの私達の命があります。

いまこのとき、誰もがそれぞれに苦難を抱えています。
つらいことを抱えています。
そして振り返ってみれば、思い通りになったことなど、生まれてこの方、数えるほどもなくて、毎日が苦難の連続です。
そして、そんな苦難を、試練と思って乗り越えてきたからこそ、いまがあります。

どこに行っても良い音楽が流れていて、良い香りがして、人々がやさしくて、いながらにして世界中の美味しいものが食べられて、人々が諸外国とくらべても、誰もがやさしくて、思いやりがある。
そんな国は、天国そのもの、極楽浄土そのものです。
けれど、このことは日本という国にそのままあてはまることでもあります。

だからほんの700年前まで、日本は、諸外国から「扶桑国【ふそうのくに】」、「蓬莱山【ほうらいさん】」などと呼ばれてきました。
13世紀までの世界地図は、東を上にして描かれましたが、その頂点にある丸い島がパラダイスとされていました。
パラダイス(paradise)の語源は、古代ペルシア語の「pairidaēza」で、その原義は「周囲を囲われた園」とされます。
けれどもしかしたら、それは「周囲を海に囲まれた園」であったのかもしれません。
扶桑国、蓬莱山も、パラダイスも、この世の天国のことをいいます。

つまり、日本こそ、極楽浄土であり、天国なのです。
天国も、極楽も、どこか遠いところにあるわけではない。
なんと、私達のあしもと、いま生きているこの日本こそが、極楽所土であり、天国であり、パラダイスです。
つまり、私達は、天国の住民であり、極楽浄土の住民であり、パラダイスの住民なのです。

そしてそんな日本の国土において、私達は、日々、さまざまな試練を受けています。
なぜなら、そんな試練がなかったら、生きていても、なんの刺激もなくて、おもしろくないし、魂を成長させることができません。
だからこそ試練があし、試練があるから魂を成長させることができるのです。
乗り越えることができない壁はないのです。

いまの日本は、問題だらけです。
このままでは日本は本当に崩壊しかねない。
そのとおりです。

けれど、それを食い止めて、より良い未来を築くのは、いまを生きている私達のつとめです。
あたりまえです。
未来は「いま」の向こう側にしかないからです。

日本という神々の国に生まれたことに感謝し、生んでくれた両親に感謝し、命を育んでくれた祖霊に感謝し、すこしでも良い未来を築いて、子たちや孫たちが、自分たちが生きた時代よりも、もっとマシな時代を生きることができるようにしていく。
すくなくとも、私達の父祖は、そのようにしてくれました。

昭和20年代の日本、30年代の日本と現代とを比べたら、それこそ、現代日本の環境は天国そのものです。
それは、ストレス社会だからそうなったのではありません。
いつの時代も問題だらけでしたけれど、その問題を、ひとつずつ、私達の先輩たちが、毎日コツコツと、すこしづつ改善してくれてきたからこそ、現代日本の良さがあります。

私達の父祖の時代は、戦争もあったし、徴兵もあったし、同僚が戦友が、自分のすぐとなりで頭を吹き飛ばされて何人もが死んでしまうような、そんな日々を過ごしてきました。
寒い冬の夜は、すきま風が吹く家の中で、小さな火鉢ですごしてきました。
そんな生活をしながら、時代を拓き、気がつけばエアコンの効いた部屋の中で、いまではいながらにして、あらゆる情報に接することさえできるようになりました。

そんな時代を誰が作ってくれたのかといえば、それは間違いなく苦労を重ねた私達の父祖たちです。
そのおかげで、良い時代をすごさせていただいた私達は、近年の日本が良くないからといって、
「もう日本はおしまいだあ」と言いながら、ただ嘆くばかりですごすのでしょうか。

問題があるなら、解決すればよいのです。
そのために必要なことを、日々積み重ねていくことです。
それが、天国に、極楽浄土に生まれさせていただいたことへの、最大の感謝であり、貢献です。

つらいことがある。
悲しいことがある。
悔しいことがある。
いいじゃないですか。
それらがあるから、生きている意味があるのです。

もうひとつ加えます。
いいときはいいのです。
けれど人生も組織も、いつの世も山あり谷ありです。
かならず谷はやってくる。

その谷は、実は「一度立ち止まって考えなさい」という神様からのメッセージなのだそうです。
振り返ってみれば人生も組織も、そんな谷のときに、一番の勉強ができてたし、一番成長させてくれた機会だったのではないでしょうか。

※この記事は2022年11月のねずブロ記事のリニューアルです。

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