JR田町駅を降りるとすぐのところに、
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江戸開城
西郷南洲
勝海舟
会見之地
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と書かれた石碑が建っています。
場所は、東京都港区芝5-33-1です。
ここは、その昔、薩摩藩邸があったところです。
ここで勝海舟と西郷隆盛が対談し、江戸城の無血開城が決められました。
このときの模様が勝海舟の「氷川清話」の中にあります。
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おれは今日までに、まだ西郷ほどの人物を二人と見たことがない。
どうしても西郷は大きい。
妙なところで隠れたりなどして、いっこう、その奥行がしれない。
厚かましくも元勲などとすましているやつらとは、とても比べものにならない。
西郷はどうも人にわからないところがあったよ。
大きな人間ほどそんなもので、小さいやつなら、どんなにしたってすぐ腹の底まで見えてしまうが、大きいやつになるとそうでもないのう。
西郷なんぞはどのくらい太っ腹の人だったかわからないよ。
あの時の談判は実に骨だったよ。
官軍に西郷がいなければ、話はとてもまとまらなかっただろうよ。
その時分の形勢といえば、品川から西郷などがくる。
板橋からは伊地知(正治)などがくる。
また江戸の市中では、今にも官軍が乗りこむといって大騒ぎさ。
しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、ただ西郷一人を眼中においた。
さて、いよいよ談判になると、西郷はおれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。
「いろいろむつかしい議論もありまっしょうが、私が一身にかけてお引受けもす」
この西郷のこの一言で、江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産とを保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。
もしこれが他人であったら、いやあなたのいうことは自家撞着だとか、言行不一致だとか、たくさんの凶徒があのとおり処々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるとか、いろいろうるさく責め立てるに違いない。
万一そうなると、談判はたちまち破裂だ。
しかし西郷はそんな野暮はいわない。
その大局を達観して、しかも果断に富んでいたにはおれも感心した。
このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも始終座を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風がみえなかったことだ。
その胆量の大きいことは、いわゆる天空海闊で、見識ぶるなどということはもとより少しもなかったよ。
西郷におよぶことのできないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。
おれの一言を信じてたった一人で江戸城に乗り込む。
おれだってことに処して多少の権謀を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠はおれをしてあい欺くことができなかった。
このときに際して小籌浅略を事とするのは、かえってこの人のために、はらわたを見透かされるばかりだと思って、おれも至誠をもってこれに応じたから、江戸城受け渡しもあのとおり座談ですんだのさ。
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勝は、西郷を褒め称えていますが、その西郷の器の大きさを感じ取ることができた勝も、同様に器の大きな男だと思います。
そういえば近年、勝海舟は、いわばスパイのような悪辣な存在であったといったことがしきりに吹聴されているのだそうです。
勝海舟だけでなく、坂本龍馬も同じです。
歴史上の人物というのは、どんな人であっても、人間ですから、良い面、悪い面があります。
そのどちらもあるから人間なのです。
間違いのない、「私、失敗しないので」と豪語できるような人というのは、ただ傲慢なだけで、実社会では、むしろ失敗ばかりしているのが人間というものではないかと思います。
勝海舟も、坂本龍馬も、偉大な業績を残した人物です。
けれど、偉大な業績というものは、常に功罪表裏一体です。
後世の人は、そのどこを見るかではないかと思います。
私は「歴史は学ぶためにある」というのが持論です。
良い面、悪い面、いずれもが、私たちにとっての学びです。
勝海舟も、その闊達な気性と歯に衣着せぬものの言い方から、あるいは旧幕臣でありながら維新後に明治政府の高官になったりしたことから、たいそう嫌う人も多かったのです。
福沢諭吉など、勝を嫌った代表格です。
諭吉は勝と一緒に咸臨丸で渡米した経験、すなわち幕府の巨費を投じて育成された人材です。
けれど福沢諭吉は、明治政府には相手にされませんでした。
一方、勝は、旧幕臣でありながら、明治政府から厚遇を得ました。
そんな勝に、諭吉は我慢しきれなかったのでしょうね。
「やせ我慢の説」という論文を公表し、これに対して公式にきちんとした回答をせよ、と勝に迫っています
このときの勝海舟の返事がふるっています。
長たらしい釈明をせず、たった3行で回答したのです。
「行蔵は我に存す。
毀誉は他人の主張。
我に与らず」
行いは自分ですることであり、批評は他人がすることだ。
他人の批判なんて、俺には知ったこっちゃねえよ、というわけです。
このとき、福沢のした勝批判は、要するにお前は徳川幕府派なのか明治新政府派なのか、あるいは佐幕か尊皇か、開国か攘夷か等々という、二者択一の二元論です。
簡単に言ったら「白か黒か」と迫ったわけで、この場合、グレーであっても白か黒かどちらかに分類しなければならない。
けれども、グレーはグレーです。
白でもなきゃ、黒でもない。
となると、白と答えればウソになるし、黒と答えてもウソになる。
こうして論理の破綻をさそって相手の信用を貶める。
ヘンに小利口な者がよくやる手口です。
ちなみに、ボクは福沢諭吉の悪口をここで言おうとしているのではありません。
歴史上のどんな人でも、いい面もあれば、コケたり失敗したりする面もある。
生身の人間が「生きる」ということは、そういうことだろうと思うのです。
だからいい面だけを掘り起こせば、美談になるし、コケたり失敗したりした部分だけをことさらに取り出せば、また違った物語になります。
ただいえることは、いい面も悪い面も、あって当然なのが人間なのであって、後世の私たちに必要なことは、そういう事実から歴史上の人物を「評価」することではなくて、私たち自身が「いま」と、そして「これから」を生きるにあたって、何を「学ぶ」かであると思うのです。
「評価」は傲慢です。
「学び」は、知性を啓(ひら)きます。
勝海舟と、福沢諭吉の最大の違いは、福沢諭吉がどこまでも身分や封建制や主君という概念の中で物事を把握し判断しようとしたのに対し、勝には常に「世界の中で日本が生き残る道」という思考があったことです。
欧米列強が東亜の植民地化を推進しようとして虎視眈々と狙っている状況下にあって、いまさら主君も藩もない。
俺が仕えているのは日本だぜ、というのが勝の立ち位置です。
そういう視点からみたら、佐幕か勤王かという二者択一論は、狭量な井の中の蛙論になってしまうのです。
白でも黒でもいい。
大事なことは日本を守ることです。
さて、西郷南洲と勝海舟の会見ですが、この席に西郷に指名されて同席し、会見の模様を世に伝えたのが、大村藩の渡辺清左衛門(後に改名して渡辺清=わたなべきよし)です。
渡辺清
戊辰戦争というと、なにやら薩長土肥しか幕府側と戦ってなかったように戦後の歴史教科書は教えるけれど、実際には、薩長土肥以外にも、鳥取藩、大垣藩、佐土原藩、佐賀藩などが大活躍しています。
なかでも凄みのあったのがを見せたのが長崎県大村市にある玖島城(くしまじょう)を藩庁に持つ大村藩で、この藩は、藩の石高でみると、わずか2万7000石です。
ちなみに、薩摩が73万石、長州が36万石、土佐24万石、鳥取32万石、佐賀35万石といった規模です。
だいたい1万石で、兵を250人養えるといいますから、兵力でいえば、
薩摩 18000人
長州 9000人
佐賀 9000人
鳥取 8000人
土佐 6000人
の規模です。
これに対して、大村藩は700名弱の兵力でした。
にもかかわらず、戊辰戦争の恩賞では、薩長土に続く、4番目に高い褒章を得ています。
それだけすさまじい活躍をみせたのが大村藩だったわけです。
大村藩というのは、戦国時代から長崎に続く名家で、石高こそ小さいけれど南蛮貿易を通じて豊かな経済力を誇っていた大名です。
ところが日本が鎖国するに至って、南蛮貿易の利権を奪われ、米財政になりました。
当然財政は厳しくなったけれど、もっぱら幕府に対して恭順の意を呈し、長崎奉行などの要職を得るようにもなっています。
そんな経緯から、大村藩は、もともと国際情勢に強い藩でした。
幕末の頃は、藩論が佐幕派と尊皇派に藩論が二分されたけれど、尊王派の盟主が暗殺された事件をきっかけに、一気に尊皇倒幕へと藩の意思が統一がなされています。
徳川がどうのとか、諸藩がどうのとか言っているときではない。
日本は、ひとつの国となっていかなければ、国家そのものが蹂躙されてしまうということを理解していたのです。
このあたりの政治感覚は、中央で明治維新に寄与した下級貴族らたちと比べてはるかに優れたものと言えます。
ときの大村藩主である大村純熈の写真が現代に残っています。
下の写真です。この写真がおもしろい。
戦装束に、特別に大きくあつらえた日の丸の扇子を持っています。
日の丸というのは日本という国家の象徴です。
我こそは統一日本を築く先駈けとならん、という大村純熈の意思を、写真は明確に物語っているのです。
大村藩第11代藩主大村純熈
大村純熈は、藩内で大村七騎と呼ばれる名家出身の渡辺清に、藩士編成による倒幕部隊を編成させました。
そうはいっても、大村藩はわずか2万7000石。
兵力は乏しい。
ところが渡辺清は、逆に少数であることを活かして、圧倒的な火力を持った少数精鋭の火力軍団を形成しました。
組員は、銃撃二個小隊と、大砲隊、あわせて100名です。
隊の名前は「新精組」です。
「精」の一字に、精密射撃を旨とする新しいタイプの戦闘部隊であるという志をあらわしました。
そして、刀剣中心の幕軍に対して、銃撃や大砲など、圧倒的火力を持つ新精組は、強力な力を発揮します。
寡兵ながら桑名城を落とし、赤報隊を逮捕し、三月初めには官軍の先鋒として箱根を無血占領しています。
こうした経緯から、渡辺清が、西郷隆盛と勝海舟の江戸城開城の場に大村藩を代表して立ち会っています。
このすぐ後に、渡辺清は、上野山で彰義隊と戦い、さらには奥州方面の戦いにも参戦し、戊辰戦争後は、江戸(東京市)の警備に就いています。
ここが今日、言いたいところです。
当時の大村藩の実力は、遠征部隊としては100名の軍団がやっとでした。
その軍団が遠隔地に出征するとなれば、兵站部門(補給部隊)を編成しなければなないし、藩そのものの警備兵も必要です。
つまり藩としては700名の兵力があるけれど、遠征部隊として出征できるのは、100名がやっとだったのです。
ようするに、大村藩は、たった100名で、公称旗本八万騎と呼ばれる徳川幕府に敢然と戦いを挑んだわけです。
これは、普通の常識で考えたら、あり得ない選択です。
しかしそれでも彼らは立ち上がりました。
視野を世界に広げ、日本国内での戦い方ではなく、洋式の機動部隊の戦い方を習得し、圧倒的な火力を整え、いまだ中世的な刀槍や弓矢による戦いにこだわる幕軍に対して、徹底した雷撃隊で挑んだのです。
そして彼らの志は日本という国家の樹立そのものです。
小さな白か黒かといった二元論ではなく、もっと大きな視野で日本を考えようとした。
それは、長崎を拓いた大村藩ならではの活躍であったといえるのかもしれません。
ちなみにもっと付け加えると、新精組隊長であった渡辺清の実の弟に、渡辺昇がいます。
渡辺昇は、剣を、斎藤弥九郎の錬兵館に学びました。
練兵館といえば、神道無念流です。
この道場があった場所が、いま靖国神社になっています。
そして、このころの塾頭が長州の桂小五郎です。
渡辺昇は、小五郎の次の塾頭です。
昇も幕末の志士として大活躍しています。
剣を通じて得た人脈で、長崎で坂本龍馬に頼まれ、長州藩に薩摩との同盟を働きかけ、こうしてうまれたのが薩長同盟です。
これまた白か黒かという小さな二元論ではなく、広く世界を見据えて行動するという大村藩士らしい行動です。
もうひとつ申し上げます。
その大村藩から、昭和になって中村松雄が出ています。
支那事変当時、上海にいた中村松雄は、上海にいたユダヤ人の一団を、米国へ逃がしています。
ユダヤ人たちは、ドイツのナチス親衛隊から追われていたのです。
ほっておけば彼ら全員が殺害されると知った中村松雄は、彼らユダヤ人の避難先として、米国を選択しました。
この頃の米国は、蒋介石を後方支援しており、日本とはあからさまな敵対関係にあります。
ドイツとは、同盟関係です。
にもかかわらず、中村松雄は、アメリカに話をつけて、ユダヤ人の亡命を確保し、受け入れを実現させただけでなく、三菱商事に話をつけて、無償で米国までの船を出させています。
これも、戦時同盟云々よりももっと幅広い人道を優先しようと考える大村出身者ならではの発想であったといえるかもしれません。
偏狭な視野や、建て前論に惑わされず、常に広い視野をもって必要なことを自分の頭で考えて、実行する。
いま、日本を亡国から救えるのは、日本を守ろうという意識をもった幅広い層の結集にあります。
すくなくとも、同じ志を持つもの同士で、白か黒かとやっているときではない。
そのように思います。
さて、幕末に新精組を編成して幕軍と対峙した渡辺清ですが、その渡辺清の長女が石井筆子です。
石井筆子は、明治の鹿鳴館時代を代表する美人であり、かつ、明治の女性教育の向上を目指した先駆者であり、知的障害者の福祉と教育を整備した偉大な女性です。
白か黒かの二者択一論では、こうした人材は生まれないし、ただ対立が深まるだけです。
日本的な考え方ではそうはなりません。
学ぶべきものは学び、いまこの瞬間にできることのために、学び考え行動し、最善の解を得る。
何のためかといえば「道のため、人のため」です。
大村藩の偉業の原因がここにあるし、西郷隆盛の信頼や勝海舟の行動の原点もそこにあります。
※この記事は2010年のねずブロの記事のリニューアルです。
子母沢寛の勝海舟を読破して勝海舟が好きになりました。極貧の武士でしたが胆識がある生き方が大好きです。西郷隆盛のように有名ではありませんが、勝海舟がいたから坂本龍馬も活躍できたと思っています。