田園風景に水車小屋。
最近ではあまり見かけなくなった風景ですが、少し前までは水車小屋は、全国どこでも見かける
ごくありふれた光景でした。
水車小屋というのは、川などの水流の力で回転エネルギーを得て、その力で水のくみ上げをしたり、杵(きね)付きをしたり、あるいは脱穀や製粉、製糸などへと幅広く活用されたものです。
この水車が世界のどこで生まれたのか、一説によれば紀元前2世紀頃のトルコという説もありますが、なるほどトルコの風景に水車小屋はよく似合いそうではありますけれど、実際には、よくわかていません。
生まれはわからないけれど、自然のエネルギーの活用という意味において、古代には、世界中にまたたく間に広がり、ヨーロッパでも中東でもChinaでも世界中で幅広く使われていたものです。
ちなみに日本には推古18(610)年に高句麗からやって来た僧の曇徴(どんちょう)が、水車の技術を伝えたという説がありますが、これは大きな間違いで、曇徴が伝えたのは、石臼にすぎません。
逆にいえば、曇徴以前に日本では水車小屋が普通に普及していたということです。
では、その日本では、いったいいつごろから水車小屋が作られるようになったのか。
これはもう、「わからないくらい古い昔から」としか言いようがありません。
そもそも高句麗の曇徴が日本に水車小屋をつくる技術を伝えたという論説には、明らかな無理があります。
どういうことかというと、お隣の半島では、近世(日本でいう幕末まで)に至るまで水車が造られていなかったからです。
というか、作る技術が無かったのです。
実は、このことは、だいぶ以前に「悪韓論」の著者の室谷克実先生から教わった話なのですが、思わず大爆笑してしまったことです。
どういうことかといいますと、室町時代に、第一回の朝○通信使が日本にやってきたのです。
このときの半島の書記官が、日本にある揚水(ようすい)水車をみて、たいへん感動したというのです。
揚水水車というのは、川の水を汲み揚(あ)げるための水車です。
川の高さと、田んぼの高さって違います。
ですから大規模なものなら、川の水をせき止めて水位を高くして田に水をひきます。
それが小規模なものなら、田から水を人が汲み上げて、田に入れるわけです。
お風呂とちがって、田は広いです。
使う水の量だって半端じゃない。
それを人力で汲み上げたら、たいへんです。
そこで日本では、かなり古い時代から、揚水水車が用いられていたのです。
これなら、水車が勝手に水を汲み上げてくれますから、人間は楽チンで、ありがたい。
水車を見た朝○通信使は大感動しました。
そして、わざわざ水車の見取り図を詳細に書き取り、その図面を国に持ち帰りました。
そして李氏半島王に、
「これはたいへん便利で進んだものです。
是非我が国でもこれを造りましょう」
と奏上し、許可を得て、職人さんたちを集めて、水車を造ろうとするわけです。
ところが。
いつまで経っても、水車ができない。
次の王様の時代になっても、まだできない。
その次の王様の時代になっても、まだまだできない。
ついに、それから300年経ってしまいました。
江戸時代の幕末近くになって、第12回の朝○通信使が日本にやってきました。
そして帰国した通信使が、李王に報告した記録には、
「日本には水車という大変素晴らしい物がある。
わが国にも是非、これを導入したい!!」
なんと、まる300年、こと水車に関して何の進歩もなかったというわけです。
まるで冗談のような話ですが、これが本当のことですから驚きです。
そもそも高い文化や技術が、Chinaから半島を経由してオクレタ日本に伝えられたというのは、まったくのデタラメです。
水車さえ、造れなかった国が、果たして進んだ文化文明を持つ国だったのでしょうか。
稲作さえも、DNAの研究によって、近年では半島渡来説は完全に否定されています。
昨今、柔道や剣道、茶道、華道から、アニメや日本料理やしゃぶしゃぶまで韓国発祥とか言い出している半島族ですが、そもそも日本よりもはるかにオクレていて、文化と呼べるようなものさえもなかった半島族が、いったい何を日本に「教えた」というのでしょう。
なるほど仏教は半島を経由して日本にやってきたけれど、仏教はそもそも半島発の文化ではありません。
それにそもそも百済の王が日本に仏教の経典や、仏像を寄贈したのは、理由はまったく別なところにあります。
この頃の半島は、南部一体が倭国の領土でした。
そしてその北側に、百済と新羅がありました。
その百済は、日本の役人を賄賂で買収して、半島にあった倭国の領土を、勝手に自国の領土に取り込んでしまったのです。
ところが、そうは言っても新羅は怖い。
だから、広大な土地をただだまし取っただけでは、日本との関係が悪化してしまうので、なんとか日本にゴマを擦ろうとしたのです。
ところが、半島には、日本が喜びそうな物品など何もない。
そこで、やむなく百済王は、日本に、唐の国の高僧をスカウトして日本に進呈し、併せて唐の国の仏教の経典と仏像を日本に寄贈したわけです。
要するに土地泥棒が、露見をおそれて、日本が喜びそうな他所の国の坊さんと経典を献上したという話が、実は、戦後の教科書にもっともらしく書いてある「仏教伝来」の実際の姿です。
ぜんぜんありがたい話ではないのです。
この経緯は、日本書紀にちゃんと書かれています。
要するにこのあたりの思考方法というか、日本に対する姿勢は、6世紀の半島も、現在の半島も、実は、何も変わっていないのです。
つまり、
「高い文化や技術が、チャイナから半島を経由して日本に伝えられた」
というのは、実は真っ赤な偽りで、本当のところは、
「高い文化や技術を持った日本を隣国に持つ半島では、
日本の文化や技術のパクリが流行っていた」
半島は、大昔からパクリのウリジナル国家だった」
というのが、およそ1400年前から、変わらぬ半島の姿であったわけです。
さて水車の話に戻りますが、日本書紀に、推古天皇18(610)年春3月に、高麗王が、五経に通じていた僧の曇徴(どんちょう)を日本に貢ぎ(派遣ではなく「貢いだ」と書かれています)、曇徴はが碾磑(てんがい)を造った、と書かれています。
この「高麗王貢上僧曇徴、并造碾磑」という一文から、日本における水車小屋は、半島から技術が渡来したのだなどといる学者さんなどがいるのですが、勉強不足もいいとこです。
字をよく見ていただきたいのです。
碾磑(てんがい)という字は、二字とも「石へん」です。
つまり碾磑というのは、水車小屋に取付けて粉などを打つ石臼(いしうす)のことです。
原理は非常に簡単で、
→水車が回る
→カムシャフトが杵(きね)をひっかけて持ち上げる
→カムが外れて杵が石臼に落ちる
→また杵を持ち上げる
というだけのものです。
ということは、僧の曇徴(どんちょう)が日本にもたらしたのは、水車そのものではなくて、その水力による回転力を利用した石臼だったというだけのことです。
しかもこの碾磑(てんがい)、その後の日本ではほとんど普及していません。
粉を挽くくらい、手でやってもそれほど手間のかかるものではないからです。
水車というのは、たいへんに精巧な作りのものです。
盥(たらい)さえ造ることができなかった半島人が、盥(たらい)よりもはるかに複雑な構造物である水車など、造れたはずもないし、現に、半島には水車はまったくありません。
つまり、これが何を意味しているかといえば、半島には、誇るべき文化も技術も、何もなかった、ということです。
そもそも半島発祥の文化って何があるのでしょう。
トンスル?
李氏半島王や半島貴族の回春剤だった処女の大便の乾燥粉末?
千年経っても変わらない民族性は、おそらく千年後も同じです。
最後に一点。
日本語の「国」という言葉には、ネイション(nation)という意味と、ひとつの行政単位としての県《プリフェクチャー(Prefecture)》を意味する場合と、二通りあります。
ですから、出雲の国とか、伯耆の国といった言葉があります。
その昔は、いまでいう県《プリフェクチャー(Prefecture)》が「国」であり、いまでいう「国」のことは「天下」と呼んでいました。
チャイナの歴代王朝の場合、たとえば「清国」なら、それが「国」です。
そして李氏朝鮮は、王がいましたが、そこは清国の属国であり、事実上県《プリフェクチャー(Prefecture)》、もしくは州《ステイト(State)》でした。
従って、李氏朝鮮とは言いますが、李氏朝鮮国とは呼びません。
ところが、特に戦後の日本では、この「国」という用語に曖昧さの幅があることを奇貨として、李氏朝鮮をあたかも「国民国家」もしくは「王国」であったかのようなイメージで語られることが多いです。
それは、言葉のマジックというものです。
くれぐれも、誤解のないようにしたいものです。
日本は、いい加減、あらぬ妄想から覚めるべきです。
最後に大事なことをひとつ。
半島で水車小屋造りのプロジェクトが誕生していながら、これを実現することができなかった理由です。
それは次の理由によります。
1 与えられた予算が私服を肥やす官僚の懐に消えていた。
2 および水車が完成してしまうと、そのプロジェクトの予算が消えてしまう。
儒教国というのは、人の上下が全ての国です。
そうなるとその社会は、賄賂社会になります。
上に経つ両班は何もしない。
仕事をする人々には予算も配られない。
そしてこの体制のもとでは、新しいプロジェクトへのチャンジなど、まず行われることがないのです。
よその国の昔の話だと笑ってはいられません。
現代日本が、いままさにそうなりつつあります。
戦後の日本は、いわば敗戦利得者ステイトです。
それら敗戦利得者は、あらゆる権益に介入し、甘い汁を吸い、自らは何もしないで理屈だけを述べています。
そのような社会では、新しい技術はただ他所の国に売り渡されるばかりで、自国内での技術進歩が停まるのです。
日本もまた、かわるべきときです。
※この記事は2016年11月の記事の再掲です。
とても勉強になりました。 有難うございます。
小名木先生、いつもありがとうございます。FBでのハンドルネームは"きむらたろう"です。
「ねずさんの独り言」の頃から愛読致しております。