魏志倭人伝は、チャイナの歴史書である『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人条のことをいいます。
そこに3世紀頃の日本の民間人の様子が次のように描かれています。
いまから1800年くらい前の日本の様子です。

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その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む
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会同というのは、簡単にいえば、村の会議のことです。
いまで言ったら町内会や、マンションの自治会の会議のようなものです。
その会議の「坐起」、つまり席順が、
「父子男女別なし」
と書かれているわけです。
席順に、身分の上下や貧富の差や男女の性別は関係ない、と書かれているわけです。

では、どのような席順で会議が行われていたのでしょうか。
この答えが、千年以上前の西暦868年頃に編纂された養老令の注釈書である『令集解』の中にあります。

この書の中に『古記』という、いまから千三百年くらいまえの738年頃に成立した大宝令の注釈書(いまは現存していない)が断片的に引用されています。
さらにその『古記』のなかに、もっと古い文献の引用として、「一云(あるにいわく)」という節が多数用いられて引用されています。

なんだかやっかいですが、『令集解』の中に『古記』が引用されていて、その『古記』が、さらにもっと古い文献を引用していて、それが「一云」として、『令集解』に書かれているというわけです。

その「一云」として引用された文献の名は伝わっていません。
いませんが、これが実におもしろい史料で、7〜8世紀頃の日本の庶民の生活の模様が、そこに活き活きと描かれています。
原文は漢文ですので、おもいきってねず式で現代語してみます。

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日本国内の諸国の村々には、村ごとに神社があります。
その神社に、社官がいます。
人々はその社官のことを「社首」と呼んでいます。

村人たちが様々な用事で他の土地にでかけるときは、道中の無事を祈って神社に供え物をします。
あるいは収穫時には、各家の収穫高に応じて、初穂を神社の神様に捧げます。
神社の社首は、そうして捧げられた供物を元手として、稲や種を村人に貸付け、その利息を取ります。

春の田んぼのお祭りのときには、村人たちはあらかじめお酒を用意します。
お祭りの当日になると、神様に捧げるための食べ物と、参加者たちみんなのための食事を、みんなで用意します。

そして老若男女を問わず、村人たち全員が神社に集まり、神様にお祈りを捧げたあと、社首がおもおもしく国家の法を、みんなに知らせます。

そのあと、みんなで宴会をします。
宴会のときは、家格や貧富の別にかかわりなく、ただ年齢順に席を定め、若者たちが給仕をします。

このようなお祭りは、豊年満作を祈る春のお祭りと、収穫に感謝する秋のお祭りのときに行われています。
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これが、いまから1300年前の、日本の庶民の姿です。
まだ渡来仏教が、一般庶民への布教が禁じられていた時代のことで、庶民のもとには神社しかなかった時代の様子です。
収穫時に各家の収穫高に応じて初穂を神社に奉納し、神社は捧げられた供物を元手として、稲や種を村人に貸付ける」という記述があります。

このことは古い神社ではいまでも当時の習慣がそのまま残っていますので、すこし詳しく解説しますと、収穫期に、採れたお米は半分を税としてお上に納め、半分を神社に奉納します。
そんなことをしたら食べるものがなくなってしまうではないかと思うのは早計です。
今年採れたお米を、お上と地元の氏神さまに半分ずつ収めるということは、2年分貯まるとお上のもとにも、地元の神社にも、両方にまる1年分のお米が備蓄されることになります。

このようにして、災害に備えて食料となるお米を備蓄し、3年経ったお米をみんなで取り崩して食べたのです。
この制度は、つい最近、昭和44年までずっと我が国に続いた制度です。
ちなみに「お上にできたお米の半分を税として収める」とありますが、お上はこうして集めたお米を3年目にはそのうちの8割を公共工事など様々な名目で民間に還元します。
時代を通じて我が国の農業従事者の人口は、全体人口の95%を占めていましたが、こうすることで国内で生産されたお米が、常に全国民に行き渡るという形になっていたのです。

神社は、戦後になって宗教法人法に組み入れられて、「神社は神社のもの」になってしまいましたが、もともと戦前戦中まで、神社は近隣の人たちの共有財産でした。
近所の神社のことを氏神様(うじがみさま)といいますが、氏神とは、産土神(うぶすなかみ)のことです。
つまり土地の神様のことを言います。
よく「引っ越ししたら氏神様に挨拶に行きなさい」と言いますが、だいたいご近所にその土地の町名を持った神社があるものです。これが土地の神様です。

『一云』では、その神社に村のみんなが月に一度集まって、宮司さんから中央の指示を聴いたり、神語りなどの勉強をしたりしていた様子が描かれています。
そして会議のあとは、必ず「直会(なおらい)」が行われました。
これはいまでいう懇親会です。

この直会の席順について、『一云』は、
「家格や貧富の別にかかわりなく、ただ年齢順に席を定めた」
と書いているのです。

社会的身分や、貧富の別なく、そこでは、ただ年齢順。
実はこうした単純年齢順の席次は、いまでもちょっと田舎の方にいけば、そうした習慣が続いていたりします。

つまり、『魏志倭人伝』に書かれている3世紀後頃の日本の庶民の様子は、そのまま「一云」に書かれている千年前の日本の姿だし、現代にも続く日本人の姿だということです。
時代はちゃんとつながっているのです。

ではここで問題です。
どうして席次が「単純年齢順」だったのでしょうか。

世界中どこでも、席次というのは重要です。
身分の高い人が上座に座り、身分の低い人が下座に坐る。
場合によっては身分の低い人は、座敷にも上げてもらえず、土間で食事をしたりする。

上座に坐るのは、いつだって「社会的地位が高い人」であったり、「お金持ち」であったりします。
西洋化した現代日本でも、そうした姿はそこここに見られますし、会社などでは社長が
「今日は無礼講で行こう」なんて言いながら、席だけは最奥、つまり最上位の席を絶対に譲らなかったりします(笑)。

ところが2〜3世紀の日本、7〜8世紀頃の日本、そして現代日本においても、ちょっと田舎の方に行けば、席次は単純年齢順なのです。
大抵の場合、最年長がお婆ちゃんですから、女性のお婆ちゃんが最上位席。
次にやはりお年寄りの爺ちゃんや婆ちゃんたちが座り、下座に行くに従ってだんだん若くなる。

このことは何をしめしているのでしょうか。
席の上下は、とても大切なことです。
それを無視したら、たいへんな失礼にあたるものです。
それが単純年齢順であり、社会的地位が高くても、どんなにお金もちでも、年齢の前には下座に着かなければならないのです。

実は、ここに日本文化の非常に大切な一面があります。
それは、
「我が国は、社会的地位や財力より
 『健康』と『長寿』を大切にした」
そういう社会を形成してきた歴史を持つということだからです。

いまでも、たとえば100歳になるお婆ちゃんのもとで、3世代、4世代の子や孫、ひ孫までが勢ぞろいしたような写真を観ると、たいていの人が目を細めて「幸せ」を感じます。
そしてなんだか、「生きるって素敵だな」って思ったりします。

ところが内閣の発足の際の階段での総理大臣以下閣僚たちの集合写真を見て、そこに「幸せ」を感じる日本人は、当事者でもない限り、まずほとんどいません。

あるいは懇親会のパーティなどで、お金持ちのスポンサーさんの社長さんなどが長々と壇上で挨拶をしていると、参加者のほぼ全員が退屈を感じたりします。
アメリカ映画のように、そこで称賛の嵐が吹くなんてことは、まずありません。

つまり、日本では「健康と御長寿」が、何世紀にもわたって、何より大切な、人の幸せと考えられてきたということを、この事実は示しています。

国政は、国民の「安全、安心、安定」を目指します。
それがなぜかと言えば、国民が「健康と長寿」を得るためです。

国家権力は、軍事力、警察力、財務力ですが、国家が権力を用いて守ろうとしているのは、国民の「安全、安心、安定」です。

つまり、我が国では、国のすべてが
「健康、長寿、繁栄」
のためにその仕組みの原点が形成されてきたのです。

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