12月14日といえば、赤穂浪士の討ち入り事件があった日です。この事件については芝居や演劇、映画やドラマなどで再三に渡って放送され、毎年歳末ともなれば、かつては定番となるほど多くの日本人に愛された物語でした。

 ところが近年では、この忠臣蔵の物語は、まるで放送されなくなりました。まれに放送されても、どうみてもパロディでしかないようなツマラナイ番組にしかされません。忠臣蔵の物語は、ひとつひとつの物語が、どれも純粋さや純朴さ、不器用ながらも真摯に生きる人々の物語として構成されています。そして思いやりと意地や世間の法との端境で賢明に生きた人々の物語として描かれています。もともと日本人は、そうした微妙な人情の機微の中にある葛藤を大切にする国民だからこそ、こうした物語が多くの人々に愛されてきたのだと思います。

 ところが残念なことに、現代のメディアに携わるプロデューサークラスの人たちに、そうした人情の機微は、ほとんど関心がないようです。これを「生まれ育ちと、もとからある文化の違い」という人もいます。彼らにとっては日本的情感は「くさい」ものでしかなく、物質的な利益や贅沢、暴力と美女といったものにしか興味関心がないかのようだといいます。

 こうして国民感情と番組提供者の志向に乖離が生まれれば、テレビなどの大手メディアが衰退するのは無理からぬことで、メディアへの接触時間は、2006年には45%がテレビ、スマホが7%弱であったものが、2022年の統計では、テレビが19%と半減、一方でスマホは46%とおよそ7倍となっています。これに加えて、テレビ視聴ではあっても、その多くがテレビを用いてのYoutubeやNetflixなどの動画媒体の視聴へと傾斜しています。国民が求める番組がなくなれば、国民は自らの嗜好に従って自分で好きな媒体を求めるようになるのです。これは当然の流れといえるでしょう。

 すでに2019年には、企業が行う広告費も、テレビ広告をネット広告が上回り、まだ統計は出ていませんが、2023年には、この傾向は更に顕著になっているものと思います。「奢る平氏も久しからず」なのです。

 さて、赤穂浪士の討ち入り事件については、従来は「吉良上野介のイジメに耐えかねた浅野内匠頭が殿中で刃傷沙汰を起こして切腹。この主君の無念を晴らすために赤穂の浪士たちが吉良上野介を討ち果たした事件」という解釈が一般的なものとなっていました。

 最近では保江邦夫先生が、新著の『秘伝和気陰陽師』の中で、赤穂浪士は「播磨陰陽師を大量に抱えた赤穂藩を幕府が警戒してお取り潰しにするために仕掛けた罠に、敢然と抵抗した浪士たち」という新説を発表しておいでですが、もしかすると、意外と真実はそんなところであったのかもしれません。

 ただ、歴史というものは、あくまで過去の事実を時系列に並べていき、これを手がかりに実際にそこで何が起こったのかをストーリー化する学問です。学校の「お勉強」は、ただ暗記して試験で良い点をとるためのものですが、そのような思考方法は、現実の社会ではほとんど役に立ちません。

 なぜなら試験で良い点を取るためには、試験範囲の事柄をできるだけ網羅的に収集して記憶し、回答する必要がありますが、こうした網羅的な情報収集で現実への回答を行おうとしても、実社会ではまず役に立ちません。なぜなら網羅的に情報収集している段階で、世の中の実態はもう次のステップへと進んでしまっているからです。要するに情報を集める人は、常に情報に追いまくられるだけで、いつまで経っても真実にたどり着くことはできないし、世の中に答えを出すこともできないのです。

 実はこのことは、社会の判断業務をAIが行うようになっても同じです。テストの答えなら、AIはたちどころに全問正解することができるでしょうけれど、それだけでは社会を生きる力にはなり得ません。なぜなら社会を生きるには、物事の流れを踏まえて、過去を学び、何かあったかを問い、そこから自分なりの判断を行うことができるようにしていくことが求められるからです。

 たとえば、タクシーの運転手という職業であれば、目的地まで乗客を安全に送り届けることが仕事です。そのためには刻々と変化する道路状況を網羅的に把握し、分析し、安全確認をして運行します。そしてこれらの仕事は近い将来、AIによる自動運転に取って代わられていくといわれています。
 ところが同じタクシーの運転手でも、介護タクシーとか、VIPサービスのハイヤーなどの分野では、AIは通用せず、そこでは相変わらず人によるサービスが不可欠になるであろうと言われています。なぜなら、それらサービスには、単にいまある情報の分析と対策だけでなく、人のあたたかみや、思いやり、介添といったハイタッチなサービスが求められるからです。そしてこれらハイタッチなサービスは、そこに体温を持った人間でなければできないことといえます。

 こうしたハイタッチなサービスの提供には、単にお客様の情報を網羅的に集収しても間に合いません。その瞬間瞬間に示すちょっとした思いやりやあたたかみがもたらす感動は、お客様の満足をいただくために何が必要なのかを常に学び問い続けるところに、はじめて生まれてくるものだからです。これらは学校でいくらお勉強をしても身につくものではありません。

 つまり、今後AIが普及していけば普及していくほど、人にはAIにはできない、微妙な人情の機微の受信や、相互の心中の葛藤を大切にする心得といった、よりハイタッチなサービスが求められていくことになるのです。現状において、地上波テレビや新聞などのいわゆるオールドメディアの敗退が起きているのは、おそらくは情報の提供者の側に、そうした思いやりやあたたかみが欠落していることによるものといえます。思いやりもあたたかみもないのなら、視聴者は自分で求める情報を取りに行けば済むのです。そしてYoutubeなどの動画媒体には、それらに必要な番組があふれています。

 AIがもたらす変化は、これから世界の構造を大きく変化させていきます。それは必ず起きることです。失われていく職種も多岐にわたることでしょう。けれど、どんなに世の中が変わっても、あるは変われば変わるほど、人としての思いやりややさしさ、微妙な人情の機微といったものは、今後、ますますその重要性を高めることになります。

 そしてそれを、歴史を通じて大切にしてきたのが、日本の文化であり、歴史です。歴史を単なる網羅的なお勉強とせず、歴史から学び、自己を問うといった姿勢は、これからの時代、ますますその重要性を増すのです。

 ある方からご質問をいただきました。それは、「赤穂浪士【あこうろうし】の一連の事件の中で、浅野内匠頭【あさのたくみのかみ】が、吉良上野介【きらこうずけのすけ】に、江戸城内の松の廊下で刃傷に及んだ理由がわからない」というものでした。
 ほとんどの映画や演劇、ドラマでは、浅野のお殿様が、吉良上野介に、「イジメられて我慢できなくなって刃傷に及んだ」としてドラマ化しています。しかし浅野のお殿様は赤穂五万三千石のお殿様です。そのお殿様ともあろう方が、年寄りにすこしイビられたくらいで、逆ギレして刃傷に及んだというのなら、それはあまりにも浅はかだったということになります。赤穂藩の藩士たちや、その家族、そして藩の民に対して、それは殿様として、あまりに無責任とはいえないか。さらにいえば、そのような殿のために、家臣が討ち入りまでしているということは、すこし筋が違うのではないか、という疑問です。

 なるほど鋭い指摘です。赤穂浪士の物語の醍醐味【だいごみ】は、実は、そんな疑問から始まるのです。そして浅野内匠頭と赤穂浪士の活躍は、実はその後の日本の歴史を変えたのです。

 まず誤解を解いて置かなければならないことは、江戸時代の大名(藩主)というものは、絶対王政における君主ではないという点です。本書で何度も申し上げている通り、我が国のすべては神々のものであり、神々の直系の子孫である天子様(天皇)のものであるというのが我が国の基本です。我が国は天皇の知らす国なのです。ですから藩主は、どこまでも藩の総責任者であって、藩を天子様から将軍を経由して預かっている立場です。従って藩主は、藩の土地を護り、藩民が豊かに安全に安心して暮らせるようにするための藩の最高責任者です。ですから藩に何かあれば、その責任は当然藩主の責任となります。そしてそれが許しがたい大事【だいじ】であれば、藩主は腹を斬らなければならない。それが江戸時代の標準となる考え方です。藩主という地位は、命がけなのです。

 もし藩主が傲慢な君主のように振る舞うときには、家臣たちが藩主を座敷牢に押し込めて、毎日対話を続けて藩主に考えを改めるように説きました。それでも改まらないなら、藩主は家臣たちによってその地位を追われましたし、藩主が改心すれば、そこではじめて座敷牢から出されて、もとの藩主の地位におさまりました。これを主君押込【しゅくんおしこめ】といいます。名君とされる上杉鷹山さえも一時は「主君押込」にあっています。そしてこれが我が国の「忠義の道」です。中国的儒教観では、上司に身を捧げるのが「義」です。上司の命令を絶対視することが「忠」です。上長に恥があれば、嘘をついてでもそれをかばうのが「諱【き】」です。
 けれど我が国は、天の神が中心にあり、その天の神の子の天子様(天皇のこと)が、すべての民を「おほみたから」とする知らす国です。ですから中国とはベクトルの方向が異なり、
「民のために身を捧げるのが義」
「民の幸せを心の中心に置くのが忠」
「民のために誠意を尽くすことが誠」と規定されました。
当然、上司の恥を隠す「諱【き】」の概念は、我が国にありません。たとえ主君であっても、間違っていれば、堂々とこれを諌【いさ】めることこそが忠義の道とされてきたのです。「主君押込」は、そうした日本文化の上に存在しています。

 播州赤穂藩の浅野家は、そうした日本古来の思考を重要視した山鹿素行【やまがそこう】によって、藩の教育が施された藩です。山鹿素行は陸奥国会津藩の白河浪人山鹿高道の子で、六歳で江戸に出て、九歳のときに林羅山の門下生となって朱子学を学び、十五歳からは小幡景憲【おばたかげのり】、北条氏長【ほうじょううじなが】のもとで甲州流軍学を学び、さらに廣田坦斎【ひろたたんさい】らから神道を学んで、山鹿流兵法の私塾を開いた人です。その山鹿素行の著した『中朝事実』は、「万世一系の天皇陛下を中心に仁政と平和が続く本朝こそ中華なり」と説く書で、これが江戸で大人気となるのですが、これが徳川将軍家の権威を貶【おとしめ】るとされて江戸所払いとなり、赤穂藩の二代目藩主だった浅野長友【ながとも】に招かれた人物です。
 その山鹿素行の教えは、
「君、君たらずんば自【みずか】ら去るべし」というものであり、
「凡【およ】そ君臣の間は他人と他人の出合【であ】いにして、其【そ】の本【もと】に愛敬【あいけい】すべきゆゑんあらず」というものです。つまり「主君の為に死ぬことは愚【おろ】か」だと説き、武士は命を大事にして蛮勇【ばんゆう】に走らず、正しく生きるべきであるという教えです。
 このような教えを心胆【しんたん】に刻んだ播州【ばんしゅう】赤穂藩【あこうはん】の三代目藩主の浅野内匠頭【あさのたくみのかみ】が、吉良上野介というお年寄りにイジメられたからといって、こらえきれずに江戸城内で刃傷沙汰に及ぶ。もしそうであるのなら、それははっきり言って「バカ殿」です。そのような主君なら「さっさとその藩から立ち去りなさい」というのが山川素行の教えです。ましてそのような「バカ殿」のために江戸市中で討ち入りなどという狼藉を働くなど、山鹿素行の教えではあり得ないことです。にもかかわらず、元赤穂藩城代家老の大石内蔵助【おおいしくらのすけ】以下の赤穂四十七士は、山鹿流陣太鼓を叩いて、吉良上野介【きらこうずけのすけ】邸に討ち入りをしています。これはいったいどういうことなのでしょうか。

 一方、吉良上野介は、三河国幡豆郡の四千二百石のお殿様です。そして高家旗本【こうけはたもと】といって、足利幕府以来の武家の伝統を徳川家で指導する立場の徳川家の直参【じきさん】旗本です。直参というのは、将軍にお目通りできる位【くらい】という意味です。そもそも吉良家というのは、足利将軍家の分家で、足利将軍家が途絶えた際には次に吉良氏から将軍を出すとされた名門の家柄です。しかも吉良上野介の曾祖父の吉良義定【よしさだ】は徳川家康の従兄弟【いとこ】にあたります。石高は播州浅野家の十分の一以下ですが、石高と身分が反比例したのが徳川幕府の態様【たいよう】です。吉良家は浅野家など足元にも及ばない名門中の名門なのです。

 この頃、播州浅野家では、赤穂の塩田の開発に成功し、この塩がたいへんに美味しいと江戸で評判となり、藩の財政がたいへん豊かなものになっていました。そこで浅野のお殿様が、仰せつかったお役目が、勅使下向【ちょくしげこう】の接待役です。そしてこの接待役の指導官に任ぜられたのが吉良上野介でした。
 勅使下向というのは、毎年正月に、江戸の幕府から京の都の天子様に充てて、新年の慶賀の品が届けられます。その届け物の御礼にと、今度は天皇の使いである勅使が、江戸に下向します。京の都に向かうのが「上り」、京の都から江戸に行くのが「下り」です。だから「勅使下向」といいます。要するに天皇のほうが、将軍よりも位【くらい】が上なのです。

 勅使【ちょくし】というのは天皇の使いのことで、上皇【じょうこう】の使いなら院使【いんし】、皇后【こうごう】の使いなら皇后宮使【こうごうぐうし】、中宮【ちゅうぐう】の使いなら中宮使【ちゅうぐうし】、皇太后【こうたいごう】の使いなら皇太后宮使【こうたいごうぐうし】、女院【にょいん】の使いなら女院使【にょいんし】です。
 天皇の使いとなる勅使は、大納言や中納言の官位を持つ人が勅使を努めました。
 将軍の地位は左大臣または右大臣、もしくは内大臣です。赤穂事件のときの徳川将軍は、五代将軍綱吉ですが、綱吉はこの時代には、正二位内大臣兼右近衛大将兼征夷大将軍です。
 官位の順番は、
  太政大臣
  左大臣
  右大臣
  内大臣 (←将軍)
  大納言
  中納言 (←勅使)
  少納言
となっていますので、勅使は天皇の名代ではありますが、官位は将軍の下です。

 そこで問題になるのが、勅使の席次です。官位からすれば、将軍が上座、勅使は下座です。しかし勅使は「天皇の名代【みょうだい】」です。ということは天皇の代理なのですから、この場合、勅使が上座、将軍が下座になります。当然です。なぜなら将軍は天皇の部下だからです。ところが室町幕府以来の伝統は、将軍が上座、勅使が下座とされていました。
 なぜこのような慣習になったかというと、理由は室町幕府の三代将軍足利義満【あしかがよしみつ】の時代にさかのぼります。足利政権は、わかりやすく言うならば、極めて貧乏な政権として発足した幕府です。けれど将軍ともなれば、さまざまな出費がかさみますから、三代将軍足利義満の時代には、財政は真っ赤の大赤字状態になってしまっていたのです。足利義満は、この財政問題を解決するために、当時できたばかりの明国との交易を開始しようとしました。明国との交易は、日本の物産を明国に持っていけば、それがだいたい二十倍の価格で売れます。そこで儲けたお金で明国で仏典などを買って日本に持ち帰ると、それがまた二十倍の価格で売れました。つまり元手【もとで】が四百倍になったわけで、百万円が元手なら、それが一回の交易で四億円に化けたわけです。
 ところがそのために足利義満が明国に「交易をしたい」と使者を送ると、当時できたばかりの明国は鼻息が荒くて、「明国皇帝は明国への朝貢国【ちょうこうこく】にしか交易を認めない」という。足利義満は明国皇帝に、自分が「日本国王」であると述べるわけです。明国は「日本の統治者は天皇であって、将軍ではないのではないか」と問い合わせてくるのですが、義満は「天皇はあくまで祭司の長であって、日本の統治者は自分である」と回答し、明国はこれを認めて、これによって一四〇四年に日明貿易のルートが開かれたわけです。
 足利義満は、この交易による利益で見事に足利幕府の財政を立て直し、さらに財政の余力をもって黄金の寺院である金閣寺を建立し、またお能などの芸能や絵画・彫刻などに多額の補助を与えて、有名な北山文化を形成します。ですからそういう意味では、つまり財政再建の手腕や、文化育成という面においては、足利義満は実に偉大な将軍であったといえます。
 物事にはなんでも正の側面があれば、負の側面があるものです。足利義満が対外的に「日本国王」を名乗ったことで、日本国内に「力さえあれば何をしても構わない。利益のためには何をしても構わない」といった価値観を生んでしまうのです。こうして世は、将軍がいるのに、戦国時代へと突入していきます。
 同時に、ここで悪しき伝統となったのが、将軍のもとへと下向【げこう】する勅使【ちょくし】への対応です。本来なら、天皇は将軍よりも偉く、勅使は天皇の名代ですから、勅使となった個人の官位にかかわらず、将軍より上座につくのがあたりまえです。ところが室町将軍のもとには、ときに明国からの使者がやってきています。対外的に日本でいちばんエライのが将軍であると名乗ることで日本国王の称号を明国皇帝から得ている将軍が、勅使に上座を譲るわけにいかない。その場に明国の使者もいるのです。そこで、将軍が大臣級、勅使の使者そのものは大納言、中納言であるという事実を利用して、強引に将軍が天皇の名代【みょうだい】である勅使より上座に座ることにしてしまったのです。そしてこれが室町幕府以来の伝統となりました。

 徳川政権は、鎖国を志向した政権です。しかも浅野内匠頭が切腹となったのが西暦一七〇一年、明国はその五十七年前の一六四四年にすでに滅んでいます。従って足利幕府の悪しき伝統であった勅使と将軍の席次の逆転現象を、修正することも可能ではあったのですが、そうなると、徳川将軍が足利将軍の権威を否定することになります。そしてそのことは、将軍という存在そものが持つ権威を、徳川将軍自身が否定することになってしまう。
ですから、誰がどうみても悪しき慣習であっても、席次を入れ変えることができないのです。

 こうした歴史のもとに、浅野内匠頭がいます。浅野家では、吉良上野介の指示通りに席次を設【しつら】えますが、山鹿流を学んだ家臣たちは、これにはどうしても納得ができない。あくまで勅使が上座でなければ、物事の筋が通らない。ですから「殿、これはおかしゅうございます」とやる。浅野内匠頭も、家中の者たちの意向はわかるけれど、さりとて浅野家が席次の決定権を持っているわけではありません。
 こうして浅野家では、一度目の接待役のときには、素直に吉良上野介の指示に従って、席次を将軍上座で設えるのですが、二度目の接待役のときには、さすがに家中の者たちが騒ぎたてます。「殿、いかがなされるおつもりか!」というわけです。山鹿素行の教えは「君、君たらずんば自ら去るべし」という教えです。それに浅野内匠頭自身も、納得して勅使を下座にしているわけではない。さりとて吉良上野介が、一存【いちぞん】で室町以来の伝統を変えることを受け入れるはずもない。
 かくなるうえは、あえて問題を起こして、そのお取り調べの際に、自らの命と引換えに老中や将軍に直談判するしかないと、思いつめた浅野内匠頭が起こしたのが、江戸城内松の廊下における刃傷沙汰です。

 この刃傷に、浅野内匠頭に殺意がなかったことは、明らかです。殿中で脇差【わきざ】しを抜いた浅野内匠頭は、吉良上野介の額【ひたい】に、浅い傷を負わせただけです。殺意があるのなら、脇差で心の臓を貫くか、首を狙います。もし頭部を狙いなら、この時代の武士のことです。脇差であっても頭蓋骨を割るくらいのことは十分に可能です。けれど吉良上野介が額が割れた程度の傷であったということは、浅野内匠頭には殺意はなく、脇差の峰(歯ではない方)で、額【ひたい】を叩いただけであった、ということです。

 こうした事情は、幕閣たちもわかります。室町以来の伝統がそもそもおかしいということも十分に理解できます。けれど浅野内匠頭が正面切ってそのことを申し立ててきたら、これに抗することは不可能です。理は浅野内匠頭にあるのです。けれどもしここで浅野内匠頭の弁を容【い】れて、その年からの勅使下向の際の将軍との席次を入れ替えたら、それは「これまで徳川幕府は間違ったことをやっていた」ということになります。これは幕府の権威を損ねる大問題となります。
 加えて殿中の暴力沙汰でこれを認めたということになると、徳川政権のもとでは、暴力を用いれば、いくらでも幕府に要求を突きつけることができる、という悪しき伝統を生むことになります。
 それがわかるから、幕閣は相談して、事件を単に「浅野内匠頭が殿中で、ご禁制の刃傷沙汰に及んだ」という事実だけに絞って、その日のうちに切腹を申し付けるという判断を下すのです。そして浅野内匠頭が「乱心していた」ということにすれば、乱心者に罪はありませんから、浅野内匠頭の命も助かります。浅野家には内匠頭と三歳違いの実弟の浅野長広【あさのながひろ】(浅野大学)がいます。浅野家は安泰です。

 ところが浅野内匠頭にしてみれば、自分が乱心していたとあっては、肝心の勅使と将軍の席次の問題から逃げ出すことになってしまう。ですから「乱心」ということは絶対に認められないことでした。そうであれば、殿中の刃傷沙汰の責任をとって切腹してもらう他はない。
 切腹に際し、浅野内匠頭は、辞世の句を詠みます。それは、

 風さそふ 花よりもなお 我はまた
 春の名残(なごり)を いかにとかせん

という句でした。この時代、花といえば桜花を意味します。つまり日本を代表するものであり、それはご皇室です。「春の名残」とは日本古来の国の形です。つまり浅野内匠頭は、皇室尊崇という我が国のあるべき姿を、この先、どうやって実現していくのか(いかにとかせん)と、辞世を詠むのです。

 こうなると、黙っていれないのが赤穂藩の藩士たちです。もとをたどせば、自分たちが殿に「これはおかしゅうございます」と迫ったことが原因です。そのことが殿を追い詰め、切腹という事態を招き、しかも自分たちの正論は、まったく幕府に相手にしてもらっていないのです。これでは何をしていたのかわからない。当然、主君なきあとの麻のノカ中は、大揉めに揉めます。中には「かくなるうえは幕府に一戦を挑み、城を枕に討ち死にしよう」とまで言い出す者まであらわれます。
 幕府にしてみれば、ここで赤穂藩が大人しく堪忍自重【かんにんじちょう】するなら、次期藩主に浅野大学を据えて一件落着としたい。けれど浅野の家中が怒りに震えて大騒ぎになっているというのなら、もはや赤穂藩をお取り潰しにする他はない、という結論に達します。これはやむを得ない決断です。
 けれど、そうなると赤穂藩の元藩士たちは「主君を切腹に追い込んだ痴【し】れ者たち」ということになります。それでは、他藩に就職することもできません。あたりまえです。どの藩でも、問題児を抱える余裕などないからです。
 しかも赤穂藩の元藩士たちの、世の間違いを正す(将軍と勅使の席次を正常化する)という願いも、有耶無耶【うやむや】になります。これでは何のためにこれまで一生懸命にやってきたのかわからない。

 では自分たちの思いを遂【と】げ、亡くなった主君浅野内匠頭の無念を晴らすためには、どうすれば良いのか。答えはひとつです。高家である吉良上野介の屋敷に討ち入り、上野介の首をあげる。ときの将軍は、生類憐れみの令まで出して、人命を第一とする五大将軍徳川綱吉公です。そして江戸市中で高家の屋敷が元武士たちによって襲われ、数多の命が奪われて高家筆頭吉良上野介の首まで取られたとなれば、その江戸の治安の、殿様クラスの治安の総責任者は誰かといえば、将軍綱吉公です。順当に行けば、綱吉公が責任をとって腹を切らなければならない。けれどそのような事態になれば、江戸市中で大名相手に暴れる者があれば、その都度、徳川将軍が腹を切らなければならないということになってしまいます。幕府としては、それは絶対に防がなければなりません。
 では幕府はどうするかといえば、吉良邸に討ち入った元赤穂藩士たちは主君に対する忠義の士であるとするしか、やりようがないのです。忠義の士ならば、当然に就職の可能性も出てくる。仮に自分たちが討ち入りの責任をとって切腹になったとしても、自分たちの子が、あるいは同輩たちは、全国の大名たちから引く手数多になります。

 問題は、将軍と勅使の席次の問題をどのように解決するか。そのためには赤穂の浪士たちの討ち入りが、世間において、どこまでも皇室尊崇の念を持って行われたことであるということが知られなければなりません。それをするには、浪士代表である大石内蔵助【おおいしくらのすけ】が、京の都の祇園の女子【おなご】衆をそう揚【あ】にして、皇室尊崇、勅使の席次の改善のために我ら赤穂の浪士たちが、足利以来の悪しき伝統の代表である吉良上野介邸に討ち入り、その首をあげるのだ、と宣伝をするしか、他に方法がありません。かわら版では幕府にすぐに目を付けられて潰されてしまうからです。
 この時代、京の都の祇園の街は、全国の名士たちが集まる場所でした。つまりその祇園で、赤穂の浪士たちの思いと行動が、何のためであり、どうして行われるのかが広がれば、それは全国の名士たちの知るところとなるのです。そしてそうなれば、幕府としても何らかの対策を取らざるを得ない。
 と、そこまで読み切って、赤穂四十七士の討ち入り事件は起こるのです。

 こうして赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件が起こります。この討ち入りに際してリーダーの大石内蔵助は、高らかに山鹿流【やまがりゅう】神太鼓【じんだいこ】を打ち鳴らします。なぜならその討ち入りは、まさに山鹿素行の説く、「武士は世の正道のためにこそ命を賭けるべし」とする精神に則【のっと】ったものであるからです。

 しかし幕府の立場からすれば、そもそも幕府が勅使に対する応対を「間違っていた」とは認めることができません。そこで市井の学者である荻生徂徠【おぎゅうそらい】などを急遽【きゅうきょ】召し抱えて、江戸の芝居小屋で「主君の仇を討った忠臣蔵之介(忠臣蔵)」の芝居興行をうたせるのです。浪士たちの討ち入りは、あくまで主君の仇討ちであったと、したわけです。
 ただし事件後、細川家、松平家、毛利家、水野家に御預【おあず】けとなっていた赤穂四十七士の討ち入りのメンバーに対しては、まず、判決文として以下の通りのお達しをします。

「内匠【たくみ】儀【ぎ】、勅使【ちょくし】ご馳走【ちそう】の御用【ごよう】を仰【おほ】せ付け置かる。その上時節柄【じせつがら】殿中【でんちゅう】を憚【はばか】らず不届【ふとどき】の仕方【しかた】に付いてお仕置【しお】き仰せ付けらるに付き、上野儀お構【かま】いなしとさしおかれ候【そうろう】ところ、主人の仇を報【ほう】じ候と申し立て、四十六人が徒党【ととう】致し、上野宅へ押し込み、飛び道具など持ち出し、上野を討ち候始末。公儀【こうぎ】を恐れざる段【だん】、重々不届【じゅうじゅうふとど】きに候、これに依【よ】り切腹申し付ける。」

とそこまで判決を申し渡したあとで、
「さて、その方らに上様(将軍)より格別の御言葉がござる。
 上様におかれては、今日【こんにち】ただいまよりきっかり百年後、
 五大将軍綱吉公のご遺命【ゆいめい】として、
 勅使の席次を、本来の姿に戻されるとの仰せである」

このとき大石内蔵助以下、四十七士の武士たちの目に滂沱【ぼうだ】の涙が流れたのはいうまでもありません。
そして約束通り、きっかり百年後の享和三年、第十一代将軍徳川家斉【とくがわいえなり】の時代に、勅使と将軍の席次は、本来の勅使が上座という形に変更されるのです。これは悪しき伝統云々ではなく、どこまでも五大将軍綱吉公のご遺命【ゆいめい】によるものとされたのでした。

 大石内蔵助の辞世の句です。

 あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる
 浮世の月に かかる雲なし

願いが叶い、一点の曇りもなく従容【しょうよう】として切腹に臨んだ大石内蔵助の晴れ晴れとした心境が、見事に歌い上げられている辞世です。

 さて、右に述べた赤穂浪士討ち入り事件の真実は、二〇一〇年に最初に発表した際には、ずいぶんと「そんな話は、聞いたことがない」と叩かれたものです。実際、江戸時代からの各種演劇や忠臣蔵の講談などに、そのような描写はありません。これは当然のことで、討ち入りが皇室尊崇の精神に基づくものだと芝居を打てば、将軍に恥をかかせることになり、それは「おかみの威光を傷つけた」として処罰の対象となるからです。
 けれど昔から「江戸の芸能は二度美味【おい】しい」と言われ、まずは舞台を見て美味しい。そして帰りの蕎麦屋【そばや】で、祖父から本当の理由を教えてもらって、また美味しい。だから「二度美味しい」。

 世の中の正道を保つためには、建前を尊重しなければならないというのが、日本古来の考え方です。建前など関係なく、結果を得ることができさえすれば良いというのは日本人の思考ではありません。だから日本は平和でいるし、日本以外の諸国では殺戮や不公正がまかりとおるのです。我が国は、お上は、常に論理的に正しく説明がつくように政道を行なわなければならないとされてきた歴史を持ちます。勝つためなら何をやっても許されるという、どこかの国とは歴史が違うのです。

 そうそう。学校で習う円周率ですが、世界で円周率の計算式を求めて十八世紀から十九世紀にかけて大激論が交されていた頃、日本ではその百年前の17世紀の寛文三年(一六六三年)に、村松茂清という人物が小数点以下七桁までの正しい値を求め、日常的に使用する円周率を三・一四と決めています。その村松茂清は、播州赤穂藩の人で、討入りした村松喜兵衛の父、村松三太夫の祖父となります。二人共村松茂清に負けず劣らず算術に長けた秀才であったと伝えられています。討ち入りをした赤穂の浪士たちは、教養の高い武士たちであったのです。

※この記事は拙著『家康の築いた江戸社会』からの抜粋です。

ブログも
お見逃しなく

登録メールアドレス宛に
ブログ更新の
お知らせをお送りさせて
いただきます

スパムはしません!詳細については、プライバシーポリシーをご覧ください。