上にある絵は、以前にもご紹介したことがあるのですが、同じ役柄でも演じる役者が違うと、全然イメージが違ってしまうものだと感心します。
天野屋利兵衛(あまのやりへい)は、赤穂浪士の物語に登場する商人です。
実在の人物で、大阪北町の惣年寄を勤め、京都の椿寺にお墓もあります。

もともと赤穂藩とは取引はなかったのですが、赤穂浪士の討ち入りに賛同し、早い段階から浪士たちを支援し、討ち入りに際しては槍20本を作って捕縛されています。
このとき、自白のために拷問を受けるのですが、断固として自白を拒否し、討ち入り後になって、ようやく自白をしたことが、当時の記録に書かれています。

このことが『仮名手本忠臣蔵』にも採り入れられ、商人でありながら口を割らずに拷問に耐え抜いて、
「天野屋利兵衛は男でござる」
と述べたという名セリフが、ひとつの泣かせどころになっています。

そこで今回は(って、毎年この時期にやっていますが)、この天野屋利兵衛の物語を『仮名手本忠臣蔵』からご紹介したいと思います。
(正確には、『仮名手本忠臣蔵』では「天河屋義平(あまかわやぎへい)として登場しますが、いまでは本名の天野屋利兵衛の方が通っていますので、以下の文も、天野屋利兵衛に統一して書き下ろします。)

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<第十段 天野屋利兵衛>

はてさて、五代目天野屋利兵衛の時代、大きな海難事故があって、店の商売が傾いてしまったとき、助けてくれたのが藩の財政を立て直したばかりの「赤穂塩」でした。
天野屋は「赤穂の塩」の江戸への廻船を一手にに手掛けるようになり、家業が見事に再興します。
ところが元禄13年、赤穂のお殿様である浅野内匠頭が、江戸城内で刃傷沙汰を起こす。
藩はお取り潰しです。
天野屋にしてみれば、これは一大事です。

そんなある日、天野屋のもとに元赤穂藩城代の大石内蔵助がやってきました。
「はてさて、このたびは残念なことになられましたなあ」
「いや、天野屋には苦労をかける。
 そこでじゃ、ひとつ頼みがあるのじゃが」
「へい。何でございましょう」
「内密での、刀身が短く身幅の広い刀を
 50本ばかり用意してもらえぬか」
「・・・・・・」

それは「もしかすると討ち入りのご覚悟で?」とは聞けません。
聞いても答えてくれないことです。
討ち入りは天下の御法度。
それに協力したとなれば、天野屋利兵衛にも咎(とが)が及びます。
(大石様は、それを気遣ってくださっている)
そうとわかれば天野屋利兵衛、
「わかりました。何も聞かずにお引き受けいたしましょう」
と答えます。

そもそも「刀身が短くて身幅の広い刀」というのは、屋内用の戦いに用いるものです。
しかも乱戦となり、相手の人数が多いときを想定した武器です。
屋内は屋根が低くて、柱もあります。
ですから普通の長さの大刀では、上段からの打ち込みは天井に当たるし、横に払えば柱に刃が食い込みます。
「槍の身幅が広い」というのは、乱戦で刀と刀が打ち合ったときに、折れない、曲がらないようにするための工夫です。
つまり大石内蔵助は、明らかに吉良邸討ち入りを前提とした刀を求めにやってきたと、この短い会話ですべてわかってしまうのです。

時は元禄、5代将軍綱吉の治世です。
綱吉といえば、「生類憐れみの令」が有名です。
この令は、天下の悪法だったとか、これによって綱吉は「犬公方」とアダ名されたと言われますが、この「生類憐れみの令」は、幕末まで幕府から何度も出されています。
要するに、ただ犬を殺すなといっているのではなくて、犬でさえ殺してはならないのだから、まして人を殺すことなど、もってのほか、ということを御法度にしたものです。

武士は刀を持つし、町人でも長脇差を腰に付けた時代です。
喧嘩でその刀が抜かれれば、人の命が失われます。
だから、一切御法度なのです。
けれども武士は、治安を預かる身です。
ときに応じては、刀を抜かなければなりません。
だから武士は腰に大小二本の刀を差しました。
一本は、正義を貫き、不条理を許さず相手を斬り伏せるため、もう一本は、その後に人を斬った責任をとって腹を切るためです。

そういうご時世ですから、討ち入りともなれば天下の大罪です。
この時代の堀部安兵衛の高田馬場の決闘は有名な事件ですが、仇討も御禁制でした。
ですから他にする人がいなくなっていたから、その事件が際立ったのです。
まして集団で主君の仇討など、絶対に認められない。
まして幕府にしてみれば、万一大規模な刃傷沙汰が起こったとなれば、将軍は天皇から治安を預かっている総責任者です。
つまり、事件が起これば、下手をすれば将軍の責任問題にまで発展してします。
だから討ち入りなど、まったくもって承服できないという立場です。

こうした時代背景にあって、天野屋利兵衛が赤穂の浪士たちの武器の調達を手伝ったとなれば、それは「共犯者」ということになります。
当然、処罰の対象となる。
「討ち入りとまでは知らなかった」では済まされないのです。
つまり、天野屋の身代は、これで終わりになるかもしれない。

しかしその天野屋利兵衛の前で、世話になった元赤穂藩城代家老が、頭を下げているのです。
しかも天野屋利兵衛を男と見込んで秘事を打ち明けてくれている。
考えた末、天野屋利兵衛は、内蔵助の依頼を承諾しました。

依頼を受けた利兵衛は、取扱商品の中から、まず最高の鉄を探しました。
調べてみると、岡山県の最北端にある西粟倉の若杉村のハガネが上質です。
刀鍛冶職人も探しました。
秘密が守れて、若杉村に長逗留できる職人となると限られます。
ようやく3人の刀鍛冶職人の手配がつきました。
さらにできあがった刀を研ぐのに用いる磨草に、播州徳久の庄から、大量の磨草を求めました。
ヤスリも植物性のものが最良だからです。

そして利兵衛は、湯治(とうじ)と称して刀鍛冶を連れて岡山の若杉村に入りました。
自ら刀つくりの監督をしたのです。
こうして刀作りに励むのですが、あまり若杉村にばかり居続けると、警戒しているお上に睨まれもします。
ですから利兵衛は、大阪の店に戻っては、また湯治と称して岡山に出かけました。

利兵衛があまり頻繁に湯治に出かけるため、ある日、妻のおかよが「何処の湯治場へ行かれるのですか」と尋ねました。
これが上杉家の密偵に洩れます。
密偵は但馬の若杉村まで行って事実を確認しました。

ところがその密偵は、「武器製造の噂は嘘でした」と上杉家に報告します。
密偵もまた人の子です。
天皇のシラス国を護るために命を的にした浅野内匠頭や、赤穂藩にむしろ同情的だったのです。

元禄15年7月、ようやく槍ができあがりました。
問題は、その槍をどうやって運ぶかです。
利兵衛は槍をこの地の産物である山芋に見立て、ススキ(茅)で編んだ包に入れて浪速(なにわ)まで運搬します。
おかげで、いまでも西粟倉村のあたりは、別名「大茅(おおかや)」と呼ばれています。

利兵衛は、山道の間道を選びながら海へ出て、そこから海路で江戸に槍を運びました。
それは西粟倉村から224里、約900kmの旅です。
ところが無事に内蔵助に刀を届けた利兵衛は、浪速に戻ると大阪西町奉行に逮捕されてしまうのです。
容疑は、大量の武器製造です。

奉行所では、注文主の名を白状せよと、天野屋利兵衛を拷問しました。
青竹で皮膚が破れて肉が割れ、ギザギザの上に正座をして石を抱かされて向こう脛(すね)の骨が折れても、天野屋利兵衛は吐きません。
そこで奉行所は、利兵衛の子の芳松(よしまつ)を捕らえてきて、天野屋利兵衛の目の前で芳松に対して火責めの拷問にかけると言い渡します。
年端もいかない芳松を、真っ赤に焼けた鉄板の上で裸足で歩かせるというのです。

我が子が火攻めにかけられる!
目の前で可愛い我が子が恐怖に怯えています。
天野屋利兵衛は息子に言いました。
「芳松!、
 笑ってその鉄板(てついた)を渡っておくれ。
 私も死んで、一緒に死出の旅では、
 おまえの手をひいてあげるから!」
「ええい、まだ言うか!」と声を荒げる役人に天野屋利兵衛は言いました。
これがこの物語の「決め」のセリフです。

「町人なれども天野屋利兵衛、
 思い見込んで頼むぞと、
 頼まれましたお方様には
 義理の二字がございます。

 たとえ妻子がどのような
 火責め水責めに合うとても、
 これで白状したのでは
 頼まれました甲斐がない。
 天野屋利兵衛は、男でござる〜!」

そこに利兵衛の離縁した女房のおかよがひったてられてきました。
利兵衛は、自分の変わり果てた姿を見たり拷問にかけられそうになっている息子を見たら、きっと女房が余計なことを喋るにちがいないと心配します。
「お奉行さま、この女は発狂しておりまする。
 だから離縁したのでございます!」

ところが状況を見かねたおかよが、これまでの浅野家と夫の関係をしゃべってしまいます。
ところがこれを聞いた大阪西町奉行は、しだいにおかよが語る利兵衛の様子に心を打たれてしまうのです。
おかよの話がいよいよ核心に触れそうになったそのとき、奉行は言います。
「おかよと申すその方、
 利兵衛の申す通り、
 お前はすでに気が違ごうておる。
 何を言っているのかまるでわからぬ。
 取り調べはこれにて終わりに致す」
それは、奉行に利兵衛の心が通じた瞬間でした。

討ち入りの後、奉行は「取り調べれば忠義の邪魔」と、利兵衛を釈放します。
利兵衛は、家督を芳松に譲り、76歳でこの世を去りました。

大石内蔵助は、利兵衛から武器を受け取った際、涙を流しながら一片の色紙を贈りました。
そこには、次のように書かれていました。

「町人ながらも義に強く、
 意地を通じて侠気(おとこぎ)の
 武士も及ばぬ魂は
 亀鑑(きかん)と代々に照返す」

亀鑑(きかん)というのは、人のおこないの手本や模範のことです。

天野屋利兵衛の、利害得失を度外して信用と約束を守った商人としての活躍は、その後、堺商人の模範となり、大阪商人の手本となって、現代にその精神が受け継がれています。

と、話はここで終わりなのですが、ほんのちょっとだけ、余計なことを書いておきます。
鹿児島の高崎弥生さんは元陸軍兵士で、先の大戦が押し迫った頃、北満洲にあった石頭予備士官学校の候補生でした。
南下するソ連軍に対し、この予備士官学校の生徒たちは、胸にダイナマイトをくくりつけてソ連製のT型戦車に飛び込んで、戦車を破壊するという、なんともすさまじい戦いを繰り広げ、高崎さんは、そのごくわずかな生き残りとなった方です。
その高崎さんが、満洲でまだ軍に採られる前、満鉄で働いていた頃のお話です。

高崎さんは、本業の満鉄の仕事に従事するかたわら、戦地にいる兵隊さんたちのために慰問袋をこしらえて、幾度も戦地に送っていました。
ところが高崎さんのお名前が「弥生(やよい)」であことから、慰問袋に書いた名前で女性と間違われて礼状をもらってしまいます。

戦地の兵隊さんを落胆させてもいけないと、女性社員に代筆を頼んで返事を書いてもらったところ、なんと今度はその人からプロポーズされてしまいます。
どうしようかと思い悩んでいたところ、ある日、その人が思い詰めて高崎さんを訪ねてきてしまいます。

仰天して逃げ回ったけれど、ついにとっつかまってしまう。
仕方がないので、ご本人の前に出て、
「高崎ヤヨイは、男でござる!」

もちろん、この決め台詞は、赤穂浪士の天野屋利兵衛が元ネタです。
いまとなっては笑い話かもしれないけれど、いつ死ぬかもしれない戦地の兵隊さんの真剣な気持ちと、あたたかな心のこもった慰問袋をめぐるひと騒動であったかと思います。

※この記事は、2015年12月のねずブロ記事のリニューアルです。

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