12月の中旬ともなれば、かつては必ず時代劇の「忠臣蔵《赤穂浪士》」が上映され、あるいはテレビで放映されたものです。
ところが最近では、こうした忠臣蔵のような時代劇はすっかり影をひそめ、地上波はお笑いのバラエティ番組ばかりになっています。
では時代劇の視聴率が低いのかといえば、決してそんなことはない。
少なくとも程度の低いバラエティよりは、はるかに視聴率が稼げれていたのです。
にもかかわらず時代劇が放送されなくなったのは、たいへん残念なことに思います。

さて、この「忠臣蔵《赤穂浪士》」の物語は、最近の若者達は、まったくピンと来なかったり、まったく知らなかったりするのだそうです。
これはたいへんに残念なことと思います。

忠臣蔵の物語についてウィキペディアには次のように書かれています。
*****
忠臣蔵(ちゅうしんぐら)は、 人形浄瑠璃(文楽)および歌舞伎の演目のひとつで、1748年に大阪で初演された『仮名手本忠臣蔵』の通称。また歌舞伎や演劇・映画の分野で、江戸時代元禄期に起きた赤穂事件を基にした創作作品。なお、脚色された創作であるため、史実としての赤穂事件とは異なる部分もある(赤穂事件参照)
*****

おやまあ、ずいぶんと低レベルな解釈だと残念に思います。

一般に忠臣蔵の物語は、切腹を命ぜられた主君の浅野内匠頭の仇を討たんと、赤穂藩を改易となった大石内蔵助以下47人の浪士たちが吉良上野介邸に討ち入りを行い、見事主君の仇討ちを成し遂げた物語として紹介されます。
ではなぜ主君であった浅野内匠頭が切腹を命ぜられたのかと言うと、これは人形浄瑠璃でも、歌舞伎でも、映画やお芝居でも、「浅野内匠頭という若い殿様が、年寄りの吉良上野介にイジメを受け、江戸城内でブチ切れて刃傷沙汰に及び、そのためその日の内に切腹を申し付けられ、切腹した」として描かれています。

問題はここからです。
年寄りに少々嫌味を言われたからといって、それで切れて殿中で禁を破って刃傷沙汰に及ぶなどということは、これは誰がどう見ても蛮行です。
姑の嫁いびりなどというものは、昔からあるものだけれど、だからといって嫁が姑を刃物で斬りつければ、その嫁は間違いなく問答無用で逮捕されるし、そのような嫁をいただいたことは一家の恥、一族の恥、村の面汚しとされたのが日本の昔の社会です。
その意味では、たとえ殿様とはいえ、ご禁制を破り、ましてその理由が、単にイジメられたからだというのでは、これは家臣一同が、そもそもそのような殿様をほっておいた事自体が問題なわけで、ましてそのような気の触れた殿様のために、浪人までして仇討ちを行うなど、そもそもありえないことなのです。

実際、行状に問題のある殿様であった場合には、「主君押込め」といって、家臣一同がその殿様を座敷牢に押し込めて、毎日、その殿様に改心するように説教を施し、それで改心しないならば、別な人を主君にするということが、江戸時代では普通に行われていました。
後に名君と呼ばれるようになった上杉鷹山も、若い頃はこの主君押込めを受けています。

当時は何もかもが「家」を単位に動いた時代です。
俸禄も家が単位、大名家であれば、その大名家が「家」として、どのように社会と触れ合っていくのかが問われた時代です。
それだけに主君の行状には、家臣一同が責任を負っていたし、そうした家臣に支えられ、また家臣の行うすべての行動に関して、命がけで責任を負ったのが主君となる者の定めでした。

そうした時代にあって、主君が刃傷沙汰を起こして切腹、御家断絶、お城も明渡しということになれば、残された家臣一同は、次の就職先を先を争って探すのが普通の行動であって、徒党を組んで江戸市中で大名の家を襲うという狼藉を行うなどということは、そもそもありえないのです。

ところが、芝居では、その赤穂の浪士たちが、主君のねがいを果たそうと、貧乏生活をしながら、最後には見事討ち入りを果たし、吉良上野介の首をあげ、さらに庶民がそれに喝采を送っています。

芝居は、見ていて楽しいものです。
けれど芝居興行は、お上の規制のもとにあります。
本当のことは言うことができない。

そこで、その本当のことを、芝居の帰りに蕎麦屋に寄って、そこで爺ちゃんから教えてもらう。
だから「江戸の芝居は二度美味しい」と言われたりもしました。
赤穂浪士の物語は、そういう含蓄のある物語だからこそ、多くの人々に長年に渡って愛され続けたのです。

では、そもそもなぜ浅野内匠頭は、殿中で吉良上野介に刃を向けるという凶行に出たのでしょうか。

その理由は、浅野内匠頭の辞世の句に明らかにされています。

 風さそう
 花よりもなお
 我はまた
 春の名残を
 いかにとやせん

「風さそう花」の「花」というのは、この時代、桜のことを言います。
そして桜は、そのまま大和の国を意味します。
つまり浅野内匠頭は、大和の国の名残、つまり本来の姿を「いかにとやせん」と辞世しているわけです。

もともと播州赤穂家は、『中朝事実』を著した山鹿素行を、藩の教授として家老待遇で召し抱えたほど、学問に力を入れた藩です。
私達が今も使う円周率(3.14)を決めたのも、赤穂藩です。このときの和算の大家(たいか)が家臣の村松茂清で、その息子の村松喜兵衛と孫の三太夫が、親子で討ち入りに参加しています。
要するに知的な藩であったのです。

ちなみに当時の武士においては、単に勉強ができるというだけでは、知性があるとは認められません。
文武両道に秀で、学問を実生活に活かすことができなければ、一人前の武士とはされません。
ですからどのような大学者であっても、暴漢に襲われて刀も抜かずに斬られれば、武士にあるまじき腰抜けとして、生きていても死んでいても、禄を取り上げられました。

藩の教授となった山鹿素行は、完全な皇室尊崇主義者です。
ご皇室こそが絶対という価値観の持ち主です。
そして、我が国において、将軍は、天皇の部下です。

ところが足利時代からの伝統で、勅使(天皇からの使い)が将軍のもとにやってきたときには、将軍が上座、勅使が下座と決まっていました。
これは、足利義満が、明国から「日本国王」の称号を受けたことが理由で、日本の国王として天皇の名代に謁見するのだから、将軍が上座とされたわけです。

けれど、そもそも勅使というのは天皇の名代であり、その名代としての勤めを果たす時は、天皇と同じ地位となります。
ですから、勅使が将軍と謁見するときは、本来は勅使が上座、将軍が下座になるのが道理なのです。

浅野内匠頭は、二度、その勅使下向の接待役を命ぜられています。
一度目のときは、吉良上野介の言いなりに、足利時代からの伝統に基づいて将軍を上座にしました。
けれど二度目のときには、そのような不埒を絶対に許すわけにはいかないと、吉良上野介を差し置いて、勅使を上座に据えて座を造りました。

このことは、たとえば天皇陛下から内閣総理大臣が親任を受ける親任式に際して、内閣総理大臣を上座にせよなどと言い出したら、おそらく日本の保守の方々なら、暴動を起こしかねない出来事ででしょう。
それくらい、大きな出来事であったわけです。

けれど吉良上野介は、そのような席次は聞いたことがないと、従前どおりの席次に問答無用で戻してしまいます。
浅野内匠頭としては、自分たちが行った勅使が上座ということに、完全に筋があるという思いがあります。
このことを、将軍家において、もういちどしっかりとご再考いただくために、残された道は何か・・・と考えれば、江戸城内で刃傷沙汰を起こし、これによってお裁きの場をつくらせ、そこで堂々と筋を開陳することが、もっともふさわしい道と考えたわけです。

ですからなるほど殿中松の廊下で浅野内匠頭は刃傷沙汰に及びますが、脇差の使い方からみても、まったくそこに殺意はない。
単に軽い怪我を負わせることで、議論の場を造ろうとしたということは明白なわけです。

ところが幕府の裁定は、問答無用でその日のうちに浅野内匠頭に切腹を命ずるというものでした。
このままでは世の中の理が通らない。
そこで浅野内匠頭が家臣一同に託した思いが、さきほどの辞世の句であったわけです。

家臣一同も、山鹿素行の薫陶を受けています。
主君の亡き浅野内匠頭と思いは同じです。

では、その主君の思いを実現するためには、何をどうしたら良いのか。
そのために行ったことが、吉良邸への討ち入りです。

この時代、町方で、たとえ川崎で中1児童殺害事件のような事件が起これば、川崎の町奉行は切腹です。
なぜなら、川崎の町方でそのような悲惨な事件や事故が起こらないように全権を与えられているのが川崎の町奉行です。
力およばす事件が起きたなら、当然、その責任は奉行が負う。
権力と責任は、常に等しいと考えられてきたのが、江戸の武家文化です。

では、江戸市中で、れっきとした元藩士が、別な大名宅を襲い、大量の死者を出したという事件が起きたのなら、その責任者は誰でしょうか。
江戸の市中で、大名同士のそのような悲惨な事件や事故が起こらないことに、全責任を負っているのは誰でしょうか。

答えは将軍です。

しかしもし、江戸市中で大名同士の殺し合いが起きたとき、将軍が腹を切るということを先例にしてしまったならば、新将軍が気に入らなければ、江戸市中で大名同士の刃傷沙汰を起こせば良いという先例を作ってしまうことになります。

そこで次善の作として、用いられたのが、赤穂の浪士たちの行動は、主君の仇討ちを行ない、武家としての忠義を果たしたという、討ち入りを美談にすることです。
ただし、動機は曖昧にしておかなければならない。

そうした必要から生まれたのが、浅野内匠頭は吉良上野介のいじめに耐えかねたのだ、という、誰の目にも明らかな作り話であったわけです。

吉良上野介という人は、そもそも三河・吉良藩の藩主であり、地元においてもたいへんに立派なお殿様として慕われた人物です。
そもそも足利幕府の足利家の分家筋にあたる高い家柄で、その当主である上野介もたいへん敬愛される人物であったから、息子は上杉家に養子に出て上杉藩の殿様になったし、娘は薩摩藩の島津綱貴の妻、あるいは津軽藩主の正妻、貴族の大炊御門家(おおいのみかどけ)に嫁いでいます。
大炊御門家に嫁いだ娘の夫は、中御門天皇(114代)、桜町天皇(115代)、桃園天皇(116代)の三朝に仕え、正二位・内大臣に進んだ大炊御門経秀(おほいのみかとつねひで)です。

また『徳川実紀』には、吉良上野介について、
「世に伝ふる所は、
 吉良上野介義央歴朝当職にありて、
 積年朝儀にあづかるにより、
 公武の礼節典故を熟知精練すること、
 当時その右に出るものなし」
と書かれています。人格識見家柄知識、あらゆる面で申し分のない人物であったのです。

それだけの人格者であり見識もあるからこそ、毎年行われる勅使下向の接待役を上野介は仰せつかっているわけで、けれど接待役というのは大金がかかる。
そんな大金は、吉良家だけで負担するわけにいかないから、資金繰りの様子の良い大名に、吉良家の勅使下向の接待役の手伝いをさせるというのが、江戸時代の当時のならわしになっていたのです。

つまり吉良上野介と浅野内匠頭は、勅使下向の接待役としては、師匠と弟子の関係にあったわけで、この場合、弟子が師匠の指導が厳しいと、逆恨みするようなことは絶対にあってはならないのが当時の常識です。
その禁を破って師匠に刃を向けたというのなら、それは狂人の仕業と見られるべきものなのです。

ですから幕府は最初、浅野内匠頭を狂人として扱おうとしました。
狂人であれば、素行に問題があったとしても、それは心神喪失した狂人の所業ですから、処罰の対象にはなりません。
この場合は、浅野内匠頭は蟄居を命ぜられ、播州浅野家は、四代目当主として、他の誰かを立てればそれで一件落着となります。
当然、赤穂藩のお取り潰しもなく、家臣の身分も安泰です。

ところが浅野内匠頭は、狂人として扱われることを拒否しています。
理由はあきらかです。
浅野内匠頭は、自身の行動を通じて、何かお上に言いたいことがあるのです。
その言いたいことは、お上の側からしてみれば、聞かなくてもわかることです。

しかも殿中での刃傷において、浅野内匠頭は、吉良上野介の額(ひたい)に少々の傷を負わせるだけにとどめています。つまり殺意がない。
もし殺意をもって短い脇差で相手の命を奪おうとするなら、肋骨の間に刃を横にして心の臓を貫くか、あるいは無防備な首を狙います。
相手を傷付けるなら、太ももに刃を突き立てます。
額を斬って顔に傷を負わせるというのは、額が割れた場合、傷口は大量の出血を伴いますが、すぐに治る。
つまり、額を狙って傷を負わせたというのは、相手に対して殺意があるということではなくて、派手な流血と軽症によって相手に猛烈に反省を促そうとしただけとわかります。

このあたり、当時の武士の刃の使い方とその知識をバカにしたらいけません。
仮にも武士です。
刀をどうつかえば、どのような効果を生むかなどは、当時は研究しつくされていたし、それは武士の常識です。

つまり浅野内匠頭は、吉良上野介に何かの意思の変更を求めているのです。
このことは、当時江戸城内にいた、すべての武士たちには、即時理解できたことですし、武家ならば常識をほんのすこし働かせるだけで読めることです。

そうした本当のことというのは、歴史の表舞台には出てこない。
世の中には、本当のことと、建前として「本当のこと」とされていることがある。
そういうことを昔の人達は、忠臣蔵を通じて学んだのです。

※この記事は2020年12月のねずブロ記事の再掲です。

ブログも
お見逃しなく

登録メールアドレス宛に
ブログ更新の
お知らせをお送りさせて
いただきます

スパムはしません!詳細については、プライバシーポリシーをご覧ください。