12月も後半に入りました。
政界では、相変わらず裏金がどうだから政治不信がどうのこうのとやっています。
冗談じゃあないです。
世間が政治不信になるのは、政治が国民の側を向いていないことを言っているのであって、政治家がお金持ちになろうが、そんなことは問題ではないのです。

日本は、縄文の昔から「世のため人のため」、そのために誰もが「豊かに安全に安心して暮らせる国」を目指してきた歴史を持ちます。
なんのためにそのような国柄を持つに至ったのかといえば、身分の上下を問わず、日本人の誰もがもとめたものが、いかなる時代にあっても「健康と長寿」であったからです。
たとえ自分が短命に終わっても、妻子は、孫たちは長命で幸せな人生であってもらいたいと思う。
それが日本人の、ごくあたりまえの、普通の日本人の感覚です。

そして庶民のその付託に、真剣に真面目に答えようとしてきたのが、日本の施政者です。
このことは縄文時代も戦国時代も変わりません。
違っているのは、欧風化を希求した明治以降の政治と、悪化したのは日本の政府が日本を捨てた戦後政治だけです。

堀秀政(ほりひでまさ)は、豊臣秀吉にたいへん可愛がられた武将です。
堀秀政が福井県の北の庄の城主だったとき、城の門前に一本の札が立てられました。
内容は、堀秀政への批判でした。

秀政の部下たちは怒りました。
「犯人を捜し出し厳重に処分すべし!」
という議論もありました。
秀政は言いました。
「やめろ。その札を持って来い」

そして大広間に家臣を集めると、
「お前たちに聞く。
 ここに書かれたことは
 偽りや虚言か、それとも真実か」

部下たちは真剣に検討をはじめました。
「これは書き手の勘違いだ」
「これは言われる通りだ。城が悪い」
一条ごとに率直な意見が交されました。

すべての項目についての議論が終わったとき、それまで黙っていた秀政が言いました。
「今の討論の結果を
 新しい立て札に書いて
 門の前に立てよ。
 書き手がどのような反応をするか見たい」

一夜明けたとき秀政が立てさせた札の前に、一枚の紙が貼ってありました。
そこには、こう書かれていました。
「おそれいりました。
 堀様は御名君です。
 どうぞいまのままの
 御政道をお続けください」

これは堀秀政の美談として有名な話です。
このような話が成立した背景にあるのは、秀政にしても、また秀政の前で忌憚(きたん)のない議論を戦わせた家臣たちにしても、それを立て札にした書き役にしても、そしてまたご政道に対する批判を書いた書き手にしても、全員のなかに、
「相手の話をちゃんと聞き、
 その真意を受け止め、
 それぞれが互いに
 率直かつ誠実であった」
ということです。

すこしまとめると次のようになります。
1 お互いに自己主張だけを繰り返すのではなく、   相手の話をちゃんと聞いて真意を受け止めようとした。 2 身分の上下に関わりなく、   互いに率直かつ誠実に対応した。 3 お互いに自分の意見に固執するのではなく、   国を想う心という共通項を見出していた。 4 何が良いことで何が悪いことなのか、   互いに価値観を共有していた。 5 同じ言語を用いていた。

堀秀政のこの物語は、同じ日本人同士、同じく国を思い、そのために相手の言うことをちゃんと聞いて、互いに納得して前に進もうという日本人の文化に根ざしています。

けれども昨今の日本国内での国政の議論や、様々なサイトにおける中韓工作員らによる執拗な粘着質の書き込み、あるいは街頭演説への乱入や妨害活動などは、相手に対する尊敬の念もなければ、互譲の精神もなく、そこに本気で国を思うという気概もありません。
ただいたずらに自分たちの欲望や目的のために、あるいは利益のために人に雇われて、露骨な嫌がらせが行われ続けられます。

この場合、攻撃をする側の言っていることは、ただ相手の言葉尻を捉えて、その点だけを声高に主張し、その主張に対して完璧に答えると、今度は別な話を持ち出す。それにも完璧に答えると、またはじめの(すでに完璧に回答された)問題に戻って、またふたたび同じ話を、ただ声高に繰り返すといった手法が(必ず)とられます。

まさにたちの悪いストーカーもどきですが、この手の連中は、逮捕でもされない限り、これを毎日、しかも何年でも続けます。
それでお金をもらっているのですから、当然といえば当然のことですが、それにしても、他人の悪口を、よくもそう毎日続けられるものだと感心します。

その手のヤカラは、相手にしないのが一番です。
そのために結界を張ります。
結界を張ったからと言って、悪口がなくなるわけではありませんが、これは、
「あんたたちは、あんたたちの世界で勝手に悪口を言っていなさい」
ということなのです。

魂の世界に主語はありません。
つまり、他人を悪く言えば、それはそのまま自分を悪く言っているのと同じことなのです。
だから、そうしたい人たちは、そういう世界で勝手にやっていてもらう。
自分まで巻き込まれる必要はないのです。

自分に関する批判というのは、どうしても気になるものです。
けれど、目にし、耳にすれば、必ず気分が悪くなるものです。
その「気分が悪くなる」のは誰でしょうか。
自分です。

つまり自分で自分の気分を悪くしているのであって、それは他人の「せい」ではありません。
ご機嫌な毎日を送りたいなら、そうした悪口の世界には結界を張って、自分をもっと楽しい世界に置くべきです。
笑う門には福来たる、なのです。

もっともそれらは、ネットのような顔の見えない相手の場合です。
対面のときは、ちょっと違ってきます。
その場合は、「蝿は金冠を選ばず」(https://nezu3344.com/blog-entry-5414.html)の木村重成のように、
「それは気がつきませなんだ」と相手の話に乗り、膝を折って、床に膝をついて、深々と頭を下げて、
「申し訳ございませんでした」と深々と頭を下げるのが基本です。
ただしそれは、相手がちゃんとした日本人である場合だけです。

カネをもらって人を中傷を繰り返す自称日本人らが相手の場合は、「悪うございました」と頭を下げた瞬間に、「それみたことか」とかさにかかって中傷を加速させるのがオチだからです。

その場合は、塚原卜伝流です。
塚原卜伝は、言わずと知れた剣豪です。
鹿島流と香取流の両方を学び、83年の生涯で、武者修行に全国行脚が3回、戦場に立ったのが37回で、このうち22回敵と干戈を交えて、すべて勝利。
討ち取った大将首が12、武者首が16、斬り倒した相手の数は212人と伝えられている人物です。
しかもこの間に自分が受けた傷は、ささいな矢傷がわずかに6ヵ所。
まさに大剣豪です。

その塚原卜伝がある日琵琶湖で渡し船に乗っていると、その船中に乗り合わせた若い剣士が、卜伝と知って決闘を挑んでくる。
当時の決闘は、命のやり取りです。
けれど、その若者は、あまりに腕が違いすぎる。
かわいそうに思った卜伝が、のらりくらりとかわそうとするのですが、若い剣士は血気にはやっています。
若者は卜伝が臆病風に吹かれているのだと思い込み、ついに卜伝を罵倒してきました。

このままでは周囲に迷惑がかかってしまうと、卜伝はその剣士に、
「船を降りて決闘を受けよう」と告げます。
そして若者と二人で小舟に乗り移る。
小舟が近くの小島に近づくと、その若者は、水深が足の立つ程になるやいなや、舟を飛び降りて島へと急ぎました。

すると卜伝、なにくわぬ顔で、櫂(かい)を漕(こ)いで島から離れて行きます。
取り残されたことに気付いた若い剣士が大声で卜伝を罵倒すると卜伝、
「わはは、戦わずして勝つ、これが無手勝流じゃ」
と言って、大笑いしながら去って行きました。

要するに「受けて放置する」。
周囲の人は何が正しいのか、ちゃんと見ているものです。
もちろん中には、中傷を信じて去っていく人もあります。
けれどそうした人たちは、そもそもそれだけの人たちでしかない。
もともと同志にはなれないのです。

聖徳太子の時代のことです。
当時、新羅から日本にやってくる人たちがいました。
彼らは流暢な日本語を操りますが、日本の朝廷を罵倒するばかりで、まったく議論がかみ合わない。
要するに自分たちは被害者だと言いたいのですが、実際には加害者そのものでしかないわけです。

そこで聖徳太子が何をしたかというと、有名な冠位十二階の制度を定めました。
人に序列をつくり、その序列の順番を越えて議論を仕掛けてはならないということをルール化したのです。
上の者の前では、下の者は低頭しなければならない。
そして上の人から、
「面【おもて】をあげよ」
と言われるまでは、顔を上げてはならない。
そして上の者から発言を求められるまでは、決して下の者から話しかけてはいけない。
これが冠位十二階のルールです。

そのうえで、議論をするときには、和をもって貴しとなし、相手の名誉を損ねてはならないということを十七条憲法で制定しています。
要するに秩序としてのルールを定め、その上で必要なときのみ議論する。
これを制度化したわけです。

ここは大事なところです。
まず、秩序があるのです。
そして「おもてをあげよ」と許可された者のみが、上の人と顔を上げ、眼と眼を見合わせて議論することができると定められたのです。
つまり、実際には加害者でありながら、自分たちを被害者と偽って声高に自己の利益ばかりを主張するようなヤカラは、そもそも議論する必要もない、ということが制度として定められたということなのです。

日本人は十七条憲法から「和をもって貴しと為す」国民だと言うのは、教育の誤誘導です。
そこには、その前提としての秩序がちゃんとあるのです。

中傷を繰り返す人達は、必ず議論しようと言います。
これを現代用語で「あげつらう」と言います。
現代用語では、相手の揚げ足をとって、一方的に言い張ることを「あげつらう」といいます。

けれど、もともとの日本語では「論」と書いて「あげつらふ」と読んだのです。
そしてその意味は「顔を上げて(面(つら)を上げて、目と目を見合わせてしっかりと議論する」ことを言いました。
つまり、議論することを「あげつらふ」と言っていたのですが、それがいつのまにやら「揚げ足をとって一方的に言い張ること」という意味に変化してしまいました。
なぜ変化したのかといえば、明治以降の欧風化の中で、江戸時代までの文化や常識が全否定されたことによります。
この時代に、良いものが悪いものとされ、悪いものが良いものとされました。
そしてその傾向は、戦後、ますますひどくなりました。

これって、何かと同じだと気が付きませんか?
そうです。
高天原で大暴れしたスサノオの悪行を、天照大御神さまが、悪いことを良いことに言い換えられたという、日本神話の場面です。

田んぼの畦を壊したり、聖なる神殿で糞をしたり、誰がどうみても人に迷惑をかける不埒な行いなのに、どうして天照大御神さまは、それを善い行いと言い換えられたのでしょうか。

この物語を通じて、それまで何もかも天照大御神さまに頼り切りだった高天原の八百万の神々が、最後になってついに、自分たちで責任をもって政治を行うことに目覚めるのです。
これが日本型シラス統治の始まりです。
つまり、いま起きている様々な事態は、まったく新しい日本に、まったく新しい世界を開くための、一連の過程なのです。

中傷をする人たちの言うことは、ただの自己主張の繰り返しです。
そもそも相手の話をちゃんと聞いて真意を受け止めようとする姿勢もありません。
相手に対する敬意もなければ、誠実さのカケラもありません。
ただ自分の意見に固執しているだけ。
しかもそこには、みんなの共同体としての国を良くしたいという思いもない。
加えて共通すべき善悪の価値観さえもズレています。
つまり、ひとことでいえば、相手を揶揄しているだけで、そこに何の建設性もありません。
そもそも相手の話を聞こうとする姿勢そのものがないのです。
けれど彼らは、そういうことを議論だと言い張ります。

相手がちゃんとした相手なら、堀秀政流が正解です。
けれど、ただのチンピラなら、相手にする値打ちもありません。
それがどうしてもうるさいときは、そこは塚原卜伝流です。
相手をこちらのテーブルに呼び入れておいて相手にせず、器の違いを見せつける。
残念なことですが、ハエには金冠はわからないのです。

そして日本は、新たな発展の段階に、いま入ったのです。
もはや、悪口雑言ばかりのバカ者共を相手にしている必要はないのです。

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