江戸時代の農家の人は土地に縛り付けられていて貧困のどん底ぐらしだったというセンセイがおいでになりますが、江戸時代の人口の九十五パーセントが農家です。
その農家の人たちが、お伊勢参りに金毘羅参り、富士登山に京都御所詣【もうで】に温泉湯治【とうじ】と、さかんに全国を往来していました。

なかでもお伊勢様への年間の参拝者数は、これははっきりと統計がのこっているのですが、年間五百万人。
江戸時代の日本の人口は二千五百万人ですから、五人にひとりが、毎年三重県の伊勢まで参拝に出掛けていたことになります。

要するに一昔前までの農協主催の団体観光旅行さながらに、日本全国の農家のみなさんは、あちこち旅行を楽しんでいたわけで、こうした旅行を斡旋する、ツアー会社のようなものまで江戸時代には出来ていました。

さらにこうして旅行に出るときは、旅をする人は肌着の衿【えり】に、小判を一両を縫いこんでおくのが慣【なら】わしで、これは旅の途中に万一倒れたとき、同行した仲間や、近隣の人に面倒をみてもらうための代金とされていました。
小判一両は、いまのお金でおよそ六万円です。
いわば六万円を襟に縫い付けて旅行していたわけです。

しかも旅ともなれば、いまと違って飛行機も電車も自動車もなかった時代ですから、みんな歩きです。
途中で何泊もの宿泊もすれば、食事もするし、風呂にも浸かる。温泉の湯治も、江戸の昔には盛んに行われていたことです。
その姿は、どこぞの教科書に書かれている哀れな貧民百姓といった姿とは程遠いものです。

こうして五人にひとりがお伊勢参りをしていた江戸時代のこと、農家からある商家に奉公に出ていたある女中【じょちゅう】さんの実話が残っています。

その女中さんは、一度でいいからお伊勢様に参拝したいと願っていたのですが、あるとき主人が小判を一両、箱に入れたのを見て、その夜こっそりと取り出して、それを旅費にしてさっそく誰にも告げずに出掛けたのだそうです。女中は、うしろから追われるのではないかと思い、街道の方へ急いで行きました。

あいにくワラジのヒモが切れてしまい、一銭もないので、手にしている小判を銭に両替してもらおうと、あちこちを回るのですが、どこに行っても断られてしまいます。
どうなることかと思案に暮れていると、どこの人ともしれない男が女中のこの様子を見ていて、そっと道の向こうに呼び寄せました。

「お前、一緒に行く人もいないのに伊勢神宮へ参拝するようだが、カネを持っていると思われるとどんな目にあうかわからない。取られないように用心したほうがいい。小判を持っているなら、銭に替えてやろう」という。

女中が承知しないでいると、その男は金二分を取り出して見せ、
「ワシはこっそり取り替えてやろうと思ったが、ここにある二分金以外に持っていない。少し待っていろ。外に行って両替してきてやろう。とにかく二分金を渡しておくから、この小判を出せ」というので、本当かと思い、女中は小判を渡します。

ところがいつまで経っても現れない。さてはだまされたかと気付くのですが、男の行方はわからない。思案に暮れているとその男が帰ってきます。
そして荒々しい声で、
「きさまはよくも俺を騙したな、あの小判はニセモノだ」と怒鳴りました。
女中も負けてはいません。そんなことあるもんですかと、こちらも大声を出して応じます。
男と女の言い争う声は激しさを増しました。

あたりに響く争いの声に、近くにいた人たちが何事が起きたのだと集まってきます。
双方の言い分を聞いているうちに、男は詐欺師で、女中をだましていると感じる。
これは男から二分を取り戻すことが先決だと集まった人たちは考え、男を責めました。
男はこうした方法で旅人をだましてはカネをかすめとることで渡世【とせい】しているならず者でした。

男は、この場をうまく切り抜けることはもはやむつかしいとみて、身を隠すに限ると思ったのか、一瞬のすきをみて素早く逃げ出してしまいました。
集まっていた人たちは、逃がすな、あの野郎と追い掛けたが、男は人混みのなかを駆け抜けて姿を消してしまいます。仕方なく戻ってきた人は、女中に「あんたには気の毒だが、あいつは詐欺専門のならず者だから皆だまされる。
それでも半分は手もとに残ったのだから、あきらめな。そのカネを旅費にすれば、伊勢参拝はできるから」と慰めてくれました。

女中はやむをえないと思って、その二分金を旅費にして伊勢参拝を果たして、無事に故郷に帰ってきました。
そしてこの一連のできごとを詳しく家族に話しました。

すると主人は、
「おかしな話だよ。まったくその男がお前をだまして盗んでいった小判は、実はニセモノなのだ。旅費につかえるようなものではない。それを男のために二分金を手に入れ、楽々と伊勢神宮に参拝できたことは、神の恵みと言っていい」と言いました。

このお話は、江戸時代に実際に遠州の榛原郡であったお話で、中村乗高という人が『事実証談【ことのまことあかしがたり】』という本の中で、実際に詳しく調査して明らかになった事実を紹介しているものです。

今回のタイトルは怪談としましたが、女中さんが得た二分金というのは、現在の三万円くらいのお金です。
もしかしたらどうしても伊勢参拝をしたいと願う女中の思いを神様が汲んで、旅費を恵んでくれたのかもしれません。
女中さんも、途中で怖い思いもしたけれど、一生の思いが叶ってきっと満足したであろうと思われます。

もちろん女中さんが、主人の隠した1両を勝手に持ち出したのはいけないことです。
男が日頃から悪事を働く男であったことも、決して褒めた話ではありません。
ところがそんな遊び人の男も、女中さんの1両の両替のために、現に自分の足で走り回ってあげたりもしています。
1両を持ち出した女中さんを、主人は、もちろんそれが贋金であったこともありますけれど、そのために女中さんの身に何かあってはいけないと、本気で心配しています。
そもそも江戸の昔に贋金を作るような馬鹿者がいたこともまた事実であるわけです。

いつの時代でも、人々は与えられた境遇のなかで、懸命に生きています。
それは悪事であったり、馬鹿な行動であったりもします。
けれど、馬鹿者であっても、悪人であっても、その心のなかに良心もある。
それは、ちいさなカケラほどの良心かもしれないけれど、そういうものを大事にしてきたのが日本の江戸文化だし、このことは一燈照隅となり、その小さな燈(あか)りが、気がつけば、明るい思いやりのある時代を築いていたのであろうと思います。

日本人が日本人らしい「人の心」を取り戻すとき、神々は変わろうとする日本に必ず神風を吹かせます。
その神風は、ただ待っていても吹かないものです。
待つのではなく、積極的に変わっていく。
そのとき「人の心」は、日本のみならず、世界を変える大きな力になるのだと思います。

人、ひとりの力は小さなものですが、でもゼロではないのです。
小さな力が集まったとき、それは新しい時代を築くエネルギーになります。
それがすなわち「神の力」です。

※このお話は2022年12月のねずブロ記事の再掲です。

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