GHQは我が国の教育の「国史、東洋史、西洋史、地理、修身」を禁止しました。
これらの科目は、現代に至っても復活していません。

国史というのは、我が国の歴史上の事実を時系列に並べてこれをストーリー化した学問です。
教室では、まずこのストーリーを学び、そこから今度は自分が歴史の当事者となって、自分ならどうするかを考えるという教育が行われていました。

現代教育にある日本史は、この国史教育とは全く異なるもので、あくまで社会科のなかのいち分野として行われているものです。
社会科というのは、社会人となったときに最低限必要な一般常識を身に着けさせるためのものです。
たとえば、明治時代の前が江戸時代、その前が戦国時代くらいは知っておかないと、社会人として通用しません。
そこで、最低限これだけは知っておいてもらいたいという日本史の事件名や人物名、年号などを単に暗記させる科目として存在しているのが、現代の日本史であり、世界史であり、地理の分野です。

これらはあくまで社会科のいち分野として行われているものであって、それ以上の・・・たとえば歴史がどのような流れになっているのかなど・・・ことは、事件名や人物名を記憶する助けとして若干の補足がなされているだけですし、文科省の指導も、その視点から一歩もはみ出してはならないことになっています。

同様に、現代教育にある世界史もまた、あくまで社会科のなかのいち分野として行われているものですから、事件名や人物名、年号などを単に暗記させる科目として存在しているだけのものです。
そもそも世界史という学問分野自体が、本来は成立し得ないし、戦後の日本でだけ実施されている奇妙な分野なのです。

というのは、歴史とは過去の事実を時系列にストーリー化されたものを学び考察する学問です。
ですから過去において、事実をストーリー化した史書がなければ、そもそも成立しえないのです。
西洋と東洋(チャイナ)、日本には、それがあります。
けれど、それ以外の諸国諸民族には、残念ながら過去の事実を時系列にストーリー化した史書がありません。
ないということは、歴史学科そのものが成立しないということです。

たとえばインドには史書がありません。
インドでは、何事も前世の因縁ですから、史書を形成する必要がなかったのです。
同様にアラビア諸国においては、すべてはアッラーの思し召しです。ですから史書はありません。
史書がないのですから、歴史は成立しません。
できることは、考古学的検証だけです。

そういう意味で「歴史を持っている」ということは、実はそれ自体が人類史上すごいことなのです。

そして記述された史書は、西洋と東洋とでその記述の仕方や基本構成がまったく異なります。
史書の根底にある思想が異なるのですから、この二つを一緒にして学ぶことはできません。
ですから戦前戦中までは、西洋史と東洋史が分かれていました。

現代では、この両者は統合されて「世界史」という分野になっていますが、社会科のいち分野としてなら世界史は成立しますが、歴史学という面においては、世界史というのは成立しません。
それでも西洋史と東洋史なら、文献史料がありますから歴史学が成り立ちますが、インド史、中東史、アフリカ史、南米史などは、近現代史以降以外は、成立させようがないのです。
そこでできることは、遺物遺構からの推測や、神話からの類推でしかありません。

たとえばアフリカであれば、シバの女王がいたという記録がありますが、それは信仰の世界の話であって、具体的にいつの時代に存在し、どのような事績があったのか。それらはどうして行われたのかといったことは、まったくわかりません。
したがって、もしかするとこうだったのではないかという推測がなされるだけで、推測は歴史ではありません。

一方、西洋史や東洋史、国史については、過去に書かれた史書がありますから、歴史が成立しますが、過去に書かれた歴史は、それ自体が正確なものであるとは限りません。
これは当然のことで、書かれたものというのは、すべて何らかの意図があって書かれているからです。
ですから書かれていないことを含めて、さまざまな文献史料や遺物遺構などから実際にあった出来事を客観的に検証し、実際に起きたことを探るのです。これが歴史学です。

そういう意味では、
 歴史 =過去に書かれたもの
 歴史学=過去に書かれたものの事実を、多角的かつ客観的に検証する学問
ということになります。
社会科のなかの歴史学科は、その意味では歴史でもなければ、歴史学でもないのです。

地理、修身も名前を冒頭にあげたので補足します。
地理というのは、それぞれの土地や国や民族について、そこでどのようなことが行われて現代に至っているのかを知る学問です。

デンマークの首都はコペンハーゲンですが、どうしてデンマークという名前なのか、どうしてコペンハーゲンという名称なのか、そしてどうしてグリーンランドはデンマーク領なのか、どういう言語があり、どのような民族が住んでいるのか等を学び、そうしたことを通じて、それぞれの地域のことを知り、知ることによってそれぞれの地域への愛情を深めていくのが地理学です。
現代の地理は、単に地名の丸暗記ですから、これは社会科の中の地理学科であって、本来の地理学とは似て異なるものです。

修身は、過去の様々なケースを学び、そこから「自分ならどうする」を考える学問です。
そうすることで身を修めるから修身と呼びます。
これは道徳とは異なるものです。

道徳は、まっすぐにすすむべき道を意味します。つまり自分ならどうするを考えるのではなく、これが道ですと、示すものが道徳です。
生きる道は人によって異なります。

他人の道を示されても、それだけでは何の役にも立ちません。あたりまえのことです。
そうではなく、どうすればよいか、どうしたらよかったのかを自分の頭で考え、それらを自分の行動や人生に反映させていく。
これは「身を修める」ということです。だから修身であって、道徳ではないのです。

「嘘をついてはいけません」は道徳です。
「なぜ嘘をついてはいけないのか」を教室のみんなで考え、身を修める手がかりにするのが修身です。
両者は似て非なるものなのです。

戦後の日本は、いまだ教育を復活させていません。
GHQが日本の教育から「国史、東洋史、西洋史、地理、修身」を禁止したのは、これらを日本人が学んだから、日本人が脅威となった(それだけ日本人が強かった)ことを日本と実際に干戈を交えた彼らがよく知っていたからです。
逆に言えば、日本がGHQの敷いたレールの上にいる限り、日本の弱化は止められないということになります。

ではどうすれば日本は教育を復活させることができるのか。
その答えはひとつしかありません。
日本人自身が民度を上げること。
これだけです。

政治が無理やり日本の教育を復活させても、日本人の民度が低ければ、反対運動が高まるだけです。
それは国内に混乱や内乱を生むだけです。
国は国民のためにある国家最大の法人です。
圧倒的多数の国民意識が変わることで、国ははじめて変わるのです。

※この記事は2022年12月のメルマガに掲載した記事です。

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