日本にはもともと「宗教」という言葉がありません。
この言葉が出来たのは幕末のことで、英語の「レリジョン(Religion)」の翻訳語として生まれたのが「宗教」という言葉です。
では日本には神様はいなかったのかというと、そんなことはなくて、全国津々浦々に神社があります。
宗教がないのに、神社がある。
それならば神社は神社教という宗教なのかというと、これがまたそうではない。
欧米人にはこのあたりが非常にわかりにくい。
くわえて日本人や外国の日本研究者が、神社の御祭神のことを「God」と英訳すものだから、余計にわけのわからないものになっています。
英語圏における「God」は、天地を創造した特定の1柱だけです。
ですから、日本にはその「Godが八百万(eight million)もいるのだ」などといい出すと、向こうの人からは、「この人、頭がおかしいんじゃないか」と思われてしまうのです。
その意味では、むしろ日本人にとっての神は、英語圏でいう祖先を意味する「アンセスター(Ancestor)」の方が意味合い的に近いかもしれません。
それなら、たくさんいて、ぜんぜん不思議がありません。
けれど誤解を避けたいのなら、むしろ日本語のまま、「Kami(カミ)」とした方が無難といえます。
さらにやっかいなことが、神道が宗教(Religion)の一派とされてしまうことです。
「Religion(宗教)」は、いま生きている自分が信仰するものであり、「Worship(礼拝)」の対象です。
ところが日本の神道は、祖先から伝わった伝統(Tradition)であり、未来の子供たち(子孫たち)につなぐ伝統(Tradition)、つまり過去現在未来という時間の流れをつなぐものです。
神社への参拝は、過去のご祖先への感謝であり、未来の子供たち、子孫たちの幸せへの祈りでもあります。
もちろん神社で自分のしあわせ(ご利益)を祈ることもありますが、それはむしろ自分がご祖先からいただいた「ご先祖の祈り」への「感謝」であり、子孫の幸せのための「祈り」であるわけです。
外国語への翻訳というのは、たいへんにむつかしいものです。
語彙をあまり考えずに、単に教科書的な訳をすると、むしろ日本文化を貶めてしまうことがあります。
その意味で、日本語の神は英語でも「Kami」、日本語の神道は英語でも「Sinto」、日本語の神社は英語でも「Jinjya」、日本語の神道は英語でも「Shinto」と訳すのが正しいように思います。
一方、宗教という日本語は、もともと英語の「Religion」が幕末に翻訳された造語で、こちらはもともと「神と人とを結びつける教え」という語彙を持った単語です。
幕末の造語であるということは、もともと日本語には宗教という単語がなかったわけで、単語がないということは、そうした概念そのものが日本に存在していなかったということです。
では、江戸時代まで宗教は、なんと呼ばれていたのかというと、仏教であれば「宗門、宗派」等であり、神道であれば、「神道」であり、「かんながらの道」です。
「宗」は、おおもとのこと、「道」はそのまま道のことですから、仏式ならおおもとへの帰結、神道なら神とつながる道と理解されていたことになります。
つまり「教え」ではなく、人がより良く生きるための方向《道》を示しているだけで、その道を進むのか、帰結点に至るのかは、本人次第という考え方が根底となります。
この、日本における宗教観が、与えられた「教え」ではなく、単に「道」を示したものであったという点は、たいへんに興味深いところです。
なぜなら、
「教え」であれば、その根幹に唯一絶対のものがあり、その絶対のものを教わることで、人は幸せになれるのだと考えるのに対し、「道」は、ただ方向を示すだけで、その道を進むのか、別な道を選択するのかは、本人次第だからです。
最近よく、「こうすれば人生をひらくことができる」とか、「こうすれば幸せになれる」、「こうすればビジネスで成功できる」といったハウツー(how-to)ものが流行りです。
こうしたハウツーは、方法や手順を教えるものですが、現実には、そのとおりに実践したからといって、必ずしも幸せになれたり、ビジネスで成功できたりするものではありません。
このことは、「こうすれば成績が上がる」、「こうすれば受験で合格できる」といったハウツーは、なるほど合格のための近道を教えてくれるものではあるけれど、結局のところ、本人がモチベーションを維持してまじめにコツコツと勉強しなければ、決して成績があがることはないことを考えれば、明らかなことではないかと思います。
つまり教えというのは、わかりやすくするためにすこし極端に例えれば、合格のためのハウツーです。
けれど合格するかどうかは、受験の当日までの道を、まじめに一歩一歩積み重ねることができたかどうかによって決まります。
日本人の宗教観が、ここにあります。
日本人は、自分が人生という道を歩むにあたり、日々コツコツと仕事や育児、良好な人間関係等に励むとともに、それらをより良いものにしていくためのハウツーとして、読書もするし、勉強もするし、世界中のあらゆる教え(その中にはキリスト教も、回教も、ヒンズー教も、儒教も道教も、あるいは新興宗教さえも)得ようとします。
仏教も、もともとは釈迦の教えですが、日本に来て、日本化したといわれています。
それがどういうことかというと、仏教(ぶっきょう=仏の教え)が、仏道(ぶつどう=仏になる道)化したということです。
人によっては、これを日本教と呼ぶ人もいますが、道と教えは異なりますので、やや紛らわしい表現だと思います。
そしてこのことは、日本文化の大きな特徴でもあります。
なぜならその文化の根幹が、「支配」にあるのか「自由」にあるのかの違いでもあるからです。
国王が支配する、あるいはひとにぎりの大金持ちが支配する、あるいはディープステートなるものが人々を支配する。
そうした支配の社会においては、人々が支配に従う「教え」が必要になります。
なぜなら人々が自らの「道」を求めるようになったら、支配者の言うことなど聞かなくなるからです。
日本は稲作の国です。
米作りは、民間の仕事です。
民間が、上から言われて仕方なくお米を作るのではなく、自分たちが食べるためにお米を作る。
そしてそのお米を、みんなで二年分(つまり新米と古米)を備蓄することで(古古米から食べることによって)、万一の天然の大規模災害が各地で起きたとしても、互いにお米の融通をし合うことで、互いに災害から生き延びることができる。
このお米の融通を調整するための公正な機能が朝廷です。
日本人が、なんだかんだ言いながら、どこかで政府を信頼しているのは、こうした長い伝統があるからです。
そして役人には、常に無私や公正が求められるのも、そのことが日本人の生存のために必要不可欠なことであったことによります。
そして、役人が権力を行使するにあたり、天皇という国家最高権威によって、民衆を「おほみたから」としました。
こうした一連の流れのなかに、我が国の国民の主体性が育まれています。
ところがいつの世にも、そうした社会体制を悪用して、我が身の贅沢を図ろうとする者が現れます。
これを許さない社会を築くための方法は、二つありあります。
ひとつは、武力をもって悪を許さないこと。
もうひとつは、民衆の中に、高いレベルの教育と、文化が育てることです。
日本が選択したのは、後者です。
人が正しく生きる道のことを、人道と言います。
人道が大切であることは、万国共通の常識です。
けれど人道は、教えではありません。
教えを通じて得る結果が、人道です。
これが「宗教」と、「神道」の大きな違いです。
これが日本文化の大きな特徴です。
日本で神道と仏教が融合できたことを不思議に思う人がおいでになります。
全然、そうではないのです。
日本人は、人として歩む道を得るため、さまざまな「教え」を得ようとしてきただけのことだからです。
神道と仏教の融合のことを「神仏習合」と言います。
それだけではありません。
日本では、儒教もまた神道と融合しています。これを「神儒融合」と言います。
お隣の国を視たらわかりますが、お隣の国にも儒教、仏教、道教などがありますが、それらは決して融合しません。
なぜならそれらはすべて「教え」だからです。
けれど、「教え」の前に「道」という概念がないのです。
だから、すべての教えは、私利私欲のために用いられることになります。
そういう意味で、「道」を根幹における日本人は幸せです。
なぜなら、すべてを「つなげる」ことができるから。
※この記事は2020年12月のねずブロ記事のリニューアルです。