▼ 縄文時代

縄文時代はいまから1万7000年前から、およそ3千年前まで、およそ1万4千年続いた時代です。
この時代の日本は、武器を持たない文化でしたが、青銅器については、すでに7000年前頃には使われ始めていたといわれています。
世界が、まだ石器時代だったときに、日本は「いつでも武器に転用できる青銅器」を持ちながら、それを一切武器として使用せず、生活用具として利用していました。

▼ 弥生時代

弥生式土器の生成のためには、窯で1200度の温度が必要になります。
これは、窯の中で炭を焚き、そこに空気を送り込んで炭を真っ赤にすることで得られる温度です。
そしてこの温度が達成できるようになると、鉄器の製造が可能になります。
近年の研究で、およそ3千年前には、日本は鉄器を製造していたことがわかっています。(福岡県春日市赤井手遺跡

世界がまだ木材を燃やして得る800度程度の温度しか手に入れず、青銅器の加工までしか出来なかった時代に、日本は鉄器の製造を開始しているわけです。

鉄の剣は、青銅器の楯を容易に打ち抜き、鉄の楯は、青銅器の剣を受け付けません。
日本が弥生時代だった頃、チャイナはまさに戦乱の世でありましたが、そこから流れてくる敗残兵などから身を護るため、日本は当時にあって世界最強の鉄でできた武器を持ちいることで彼らの侵入を許しませんでした。

また古代の日本は、そうした敗残兵の侵入を防ぐため、半島にあった高句麗の親分、新羅の王、百済の村長さんたちに働きかけて、彼らを独立国にさせ、彼ら自身の手で、チャイナからの侵入者を防ぐ手立てを講じさせています。
だから北の高い位置にある国を「こう(高)くに(国・句麗)」、悪者を捕まえるために新しく網を張った国(新羅・羅という字は網のことです)、イザナギが黄泉の国から逃げてくる際に桃の木のある村の村長さんに助けられた「桃が成る国(百(もも)が済(な)る国)」と言います。
これは我が国の安全保障上、きわめて有効的な戦略であったということができます。

▼ 卑弥呼の時代

卑弥呼の時代というのは、チャイナは魏蜀呉の三国時代です。
この時代に、魏の曹操がやたらと強かったことが知られていますが、なぜ魏が強かったのかと言うと、蜀や呉が青銅器の軍団であったのに対し、魏が鉄器軍団を用いていたからです。
ところが魏のエリアには、鉄の産地がありません。
では、彼らはどこから鉄を調達していたのかというと、倭国からです。

当時、朝鮮半島の南部は、倭国の直轄地でした。
その直轄地に、鉄の産地がありました。
そこで採掘された鉄を、たたらの技法で鉄器に仕立てて、これを倭国は魏に輸出していました。
魏は、そのための交易ルートを、半島の原住民たちから護るために、魏は、帯方郡、楽浪郡という郡庁まで設置しています。
この郡庁は、発掘調査から、城塞の周辺の部族との交流がまったくなかったことが明らかになっています。
つまり周囲の土民から交易品(鉄)を護るための中継地点であったのです。

一方、魏と干戈を交えた呉は、魏の鉄鋼軍団の強さの秘密が倭国にあることを知った呉王は、倭国に使いを出して、倭国への朝貢を誓っています。このことは日本書紀に掲載されています。
呉の国王が、一方的に倭国に朝貢を申し出ているのです。
その意味と理由をしっかりと考えれば、答えはおのずと明らかです。
倭国は、東亜の超大国だったのです。

▼ 古代大和朝廷の時代

古代大和朝廷の時代になると、日本は海洋大国として、まさに世界に進出する超大国になっていました。
遠く中南米の裸国、黒歯国なども、同じく倭人の住む倭国の一部と認識されていました。
つまりこの時代の倭国というのは、日本列島から琉球諸島、小笠原諸島、マリアナ諸島、ハワイ諸島、そして遠く中南米までが広く海洋大国倭国のエリアであったのです。
この認識は、その後の平安中期まではまだ残いて、紫式部の源氏物語は注釈で黒歯国の存在を記述しています。
また日本ではあまり知られていませんが、ペルーの神話、ハワイの神話は、いずれも「自分たちの祖先はもともと日本からやってきた」というものです。
実際、縄文式土器が、これは中南米だけでなく、北米大陸からも多数出土してます。

ところが、6世紀の終わりにチャイナに隋が誕生するのです。
チャイナが超軍事大国の隋によって統一国家となり、周辺国を併呑しはじめたのです。
隋が滅んで唐が起こると、唐は新羅と結んで百済を滅ぼし、やむなく百済救援軍を出兵させた倭国は、果敢に唐軍と戦うのだけれど、白村江でだまし討にあって敗退します。
このため我が国は、国防上、国境ラインを現在の日本のエリアに限定することになり、本土に限定して国の守りを固めるようになりました。
これが現代に続く、本土と呼ばれる日本のエリアのはじまりです。
もともとは、いまの日本の形は、7世紀の日本の絶対的防衛圏にすぎないものであったのです。

ちなみにこの時代においても、日本の鉄製の刀槍は世界最強でした。
また、この時代に、大型で飛距離が長くて狙いが正確な和弓が開発されています。
世界が奴隷兵を用いて戦いをしていた時代に、倭国軍は、敵の指揮官たちを正確に射抜く実力を持っていましたから、日本に敵う敵となれる国は、すくなくとも東亜には存在しませんでした。

▼ 奈良平安期

日本の両刃の剣が、片刃の日本刀に進化し、さらに切れ味が増したのがこの時代です。
この時代の日本刀は、古刀といって、鉄製の鎧をまっ二つに斬り裂く能力を持ちました。
これは本当のことで、室町以降の刀では、鉄の鎧兜を真っ二つに斬ることはできません。
それ以前の古刀のみが持っていた切れ味です。
この時代まで、およそ2千年に渡る鉄器への創意工夫とこだわりが、世界最強の刀剣を生み出していたのです。

ちなみに日本の武者は、世界で唯一楯を持ちません。
敵の刀槍を防ぐには、誰がどう考えても楯が有効であることは疑いのないところです。
にもかかわらず日本でのみ楯が用いられなかったのは、この時代の古刀の前に、楯が意味をなさなかった・・・ということではないかと考えられます。

硬い鉄でできた兜(かぶと)を、硬い鉄でできた刀で斬ろうとすれば、硬いものと硬いもので反発します。
ところが、硬い鉄の兜を、柔らかい鉄の刃で斬ると、これがまるで吸い込まれるように斬れるのです。
これは、古武術の先生から聞いた話です。

つまり、楯を持っていても、両手で握った古刀の大薙刀を用いれば、楯ごと、相手を真っ二つに斬ることができてしまう。
そうであれば、盾は意味をなしませんから、むしろ、軽快に動けるように楯を持たない方が戦いやすい。
ただし、弓の矢を防ぐには、鎧だけは必要ということから、おそらく、鎧は着ても楯は持たないというように、戦い方が進化したのです。

残念ながら、鎌倉期以降になると、良質な鉄が採れず、日本刀の刃も硬いものへと変化してしまいます。
それでも伝統的に楯を用いない戦い方が、日本でだけ進化したのではないかと思われます。

▼ 鎌倉期

鎌倉期の日本は、その前の平安期に、和弓の技術が徹底的に進化していた時代でした。
揺れる馬上から、正確に敵を射る。
そのためには、射的の技術のみならず、武器そのものの精度が格段に向上していなければなりません。

実はモンゴルも、ジンギスカンの本体は、この大型の和弓と同じ弓を用いることで、圧倒的な戦力を得ています。
モンゴルは、ユーラシア大陸を東欧まで席巻しましたが、そこには日本の弓の技術が大きな要素を占めていたということです。

▼ 室町戦国江戸期

室町時代まで、日本の大型の和弓、切れ味最高の日本刀、大型の薙刀、きわめて合理的に造られた鎧兜などの鉄器による武具が発達していきました。
この時代の日本の戦闘力は、精巧な武器によって支えられ、すくなくとも東洋において、日本に敵う国や民族はどこにもいなかったといえます。

さらに西洋から鉄砲がもたらされると、日本はまたたく間にこれを増産し、豊臣政権くらいの時代になると、世界の鉄砲のおよそ半数が日本にあるという状況になりました。
日本は名実ともに、世界最強の軍事大国となっていたのです。

▼ 江戸時代

この状況は、江戸中期まで続きました。
これが崩れたのは、幕末ころに、ペクサン砲という、炸裂弾を発射する大砲が西洋で生み出されたことによります。

このことについて、よく、西洋の蒸気船に日本人がびっくりしたのだ、という説を耳にしますが、それは間違いです。
蒸気機関そのものは、日本でも知られており、ただ大型の船舶の建造が幕府によって禁止されていただけのことです。
それよりも、ベリー来航の際に、幕府が最も恐れたのがペクサン砲でした。
炸裂弾を海上から江戸市中に放たれたら、木造住宅でできた江戸の町は壊滅します。
これはまさに軍事的脅威といえるものでした。

明治維新は、そうした西洋の進んだ軍事技術を積極的に取り入れた時期ということができます。
元込め銃、炸裂砲弾、それらは第一次世界大戦くらいまで、ものすごい勢いで進化していきました。

▼ 近代

近代日本は、そうした西洋式の武器を工夫し、我が国の軍事に取り込んできた歴史を持ちます。
そしてすくなくとも、日英同盟があった頃までの日本は、世界最強の軍事超大国でした。
ただ、資源が石炭から石油に変わったとき、日本は石油を産出しないという弱みが生じました。
このことが、大東亜の敗戦につながったといえます。

▼ 現代と未来

現代においても、日本の戦闘技術は、世界の先端を行くものです。
海上自衛隊の持つ戦闘力は、太平洋最強です。
これには米国太平洋艦隊も敵いません。
もっとも自衛隊の装備は、システムが米国製ですので、米国と戦うことはできませんが。

空自も世界最強です。
もちろん陸自も、です。
兵員の数では、チャイナ軍が上回りますが、いまは第一次大戦の頃と違うのです。
百万の軍勢がいても、ミサイル一発で敵が壊滅する、という時代です。

つまり、日本は、実は世界最強といって良いだけの軍事力を持っているのです。
ただ「政治的に」それが制限されています。
そうした制限が解除されたとき、日本は数年を経ずして新たな東亜の治安の柱となります。
それには当然、責任が伴います。
ちなみに軍事力の増強は、内需の拡大を意味します。
それは日本の景気回復につながることです。

あたりまえのことですが、「戦争をしないために」軍事力があるのです。
そして軍事力の強化は、間違いなく日本の景気を刺激します。
個人的には、今後10年で200兆円規模の国内製造のための軍事予算の計上が必要であるものと思っています。

このことは、米国から一方的に装備を買っているいまの日本には、きわめて難しいことです。
なぜなら日本は世界第4位の電力消費国であり、国内電力の73%が化石燃料によって賄われています。
つまり石油です。
その石油を日本は米国に依存しています。
つまり日本は、国を維持する資源の73%を、米国に抑えられているのです。
だから日本は、米国の言いなりになるしかなかったというのが、現在の状況です。

けれどこのことは「電力を得るため」です。
電力を得る仕組みが化石燃料以外になれば、日本の石油依存度が下がります。

最後に、ひとことだけ添えておきます。
それは、予科練の松本裕昌氏の言葉です。

「我々は
 今後決して
 権力者の野望を満たすために、
 若者のエネルギーを、命を、
 奪ってはならない。
 又奪われてはならない。」

※この記事は2021年12月のねずブロ記事の再掲です。

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