戦時中に使われた国民学校(いまの小学校)の初等科国史より、上巻から一話、下巻から1話をご紹介したいと思います。
【1 初等科国史上・第七「八重の潮路」二「八幡船と南蛮船」より】
【2 初等科国史下・第九「江戸と長崎」二「日本町」より】

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【1 初等科国史上・第七「八重の潮路」二「八幡船と南蛮船」より】

元寇を打ち破った後の時代のことです。
特に西国の人々は、元寇における元や高麗の非道な仕打ちに怒り、これを懲らしめる日を待っていたといわれています。

ただし、日本人は何事も正々堂々と行う民族です。
ですからその進出は、まず交易から始まりました。

弘安の役から10年ほど経った第92代伏見(ふしみ)天皇の御代には、はやくも九州の商人たちが、元の沿岸に押し渡りました。
元では、海の守りを固めるやら、交易に高い税をかけるやらして、我が国の商人の進出を食い止めようとしました。
けれど日本の商船は、かまわず大陸へとでかけました。
もちろん高麗へも渡り、高麗もたいそう慌てました。

元も高麗も、我が国の商人をはばかり、しきりに交易の邪魔をしました。
また同じ商人同士でも、約束を破ったり、品物の代金を支払わなかったりしました。
そんなとき我が国の商人たちは、付随する水軍が刃を振るって相手を懲らしめました。

さすがの元も、その武力をおそれ、やがて我が国の商人の機嫌を取るようになりました。
高麗も、これを防ぐために随分と費用をかけたため、すっかり国が衰えたといいます。

こうしたことが手伝って、元は滅び、代わって明が興ると、国王はさっそく使いを日本によこして、こうした商人の取締を求め、高麗もまたそれを望みましたが、明の国書があまりに無礼なので、征西大将軍の懐良親王(かねながしんのう)は、きびしくおとがめの上、きっぱりとこれをお退けになられました。

このころの我が国の商船には、勇敢な武士も多数乗り込んで盛んに活躍しました。
するとチャイナの海賊までが、その尻馬に乗って、できたばかりの明の国を荒らし回る始末です。
山東・浙江・福建の諸地方などは、ほとんど一切が根こそぎされる有様でした。
高麗もさんざん悩まされ、これが原因となって、ついに滅びてしまいました。次いで興ったのが朝鮮という国です。

足利義満が明の要求を入れて取締を行ったため、我が国民の大陸進出は一時下火になりました。
しかし幕府の手ぬるい取締くらいで、国民の海外発展心がくじけるわけはありません。

やがて幕府が衰えると、発展の気勢はふたたび燃えさかりました。
ことに応仁の乱後の活躍は、いままでにないほどめざましいものでした。

船には八幡大菩薩と書いた大のぼりを押し立て、東亜の海をところせましと乗り回しました。
コリア、チャイナはもちろんのこと、八重の潮路を乗り切って、はるか南洋までも進出しました。
風向きを利用して、たくみに船をあやつり、上陸すれば、その動作は疾風(はやて)のようで、進むにも退(しりぞ)くいも、よく訓練が行き届いていました。
地理や気象をくわしく調べ、衛生を重んじて、特に飲み水には心を配ったといいます。

明では「それ八幡船は倭寇よ」といって、これを恐れました。
しかし八幡船の人たちも、貿易の望みさえかなえば、あえて武力を用いるものではありません。
かえって明の商人や海賊が、みずから倭寇と称して、人々を脅かす場合が多かったのです。

南方へ出向いた九州や沖縄の商人と、土地の住民との取引は、きわめておだやかに行われました。
南方の人々は、豊かな産物にめぐまれて、楽しく暮らしていました。
彼らは勇敢でまじめな我が国民を歓び迎えて、日本の産物をもてはやしました。
月影の明るい椰子(やし)の木陰で、めずらしい歌を聞かせてもくれれば、もっと盛んに交易に来るように勧める者もありました。
こうして日本刀や扇(おうぎ)、硫黄(いおう)などを積んでいった船は、薬や染料、香料などを積み込んで、意気揚々と帰りました。

ところがこの平和な南洋へ、やがてヨーロッパ人が押し寄せて来るようになったのです。
さきに元が亜欧(あおう)にまたがる大国を建設したので、アジアとヨーロッパとの陸上交通は、おおいに開けました。
ヨーロッパの国々からは、使節や商人たちが続々元へ来ました。
しぜん、アジアの国々の様子がヨーロッパに知れました。
なかでも我が国は特に「黄金の国」として伝えられ、ヨーロッパ人の欲望をそそりました。

ところがいったん開けた交通路も、その後、中間にトルコという国が興り、それにさまたげられて通ることができなくなりました。
応仁の乱が起こる少し前のことです。

そこでヨーロッパ人は、新たに海路によって日本へ来る工夫をしました。
そのため、もっぱら造船や航海術の発達をはかりました。
なかでもポルトガル・イスパニアの二国が、いちばんこれに力を注ぎました。

やがてイスパニア人は、西まわりをこころみて、アメリカ大陸に達し、ポルトガル人は東まわりを選んで、インドへ着きました。
ともに、後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の明応年間のことです。

ヨーロッパ人は、これに勢いづいて、いよいよ東亜へ押しかけて来ました。
ポルトガル人は、さらに東へ手を伸ばして、南チャイナにも根城をつくり、インドやチャイナと盛んに交易を行い、イスパニア人もやがてフィリピン群島を占領し、南洋の島々と取引を始めました。

第105代後奈良天皇の天文12年、ポルトガルの一商船が、種子島へ着きました。
これがヨーロッパ人の我が国へ来た初めてで、いまから約400年前のことです。
すこし送れてイスパニア人も来ました。

ところが日本は決して夢のような黄金の国ではなく、天皇を仰ぎ、武勇にすぐれて礼儀正しく、しかも学問も進み、そのうえ風景の美しい国でした。
ヨーロッパ人も、これにはすっかりおどろいたといいます。

さいわい、両国とも交易を許されたので、薩摩坊津や、肥前の平戸で、めずらしい品物の取引をしました。
我が国では、これらのヨーロッパ人を南蛮人、その商船を南蛮船と呼ぶようになりました。

我が国も、種子島でポルトガル人が示した鉄砲には、ちょっとおどろきました。
さっそくこれを買い取って、その作り方を研究しました。
やがて我が国でも、立派な鉄砲が作れるようになり、そのため戦法や築城法がよほど変わって来ました。
またキリスト教も伝わり、天主教と呼ばれて、さかんに各地にひろまりました。

しかし残念なのは、八幡船の活躍が幕府にうとまれて、この南蛮船との競争を思うように続けることができなかったことです。

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【2 初等科国史下・第九「江戸と長崎」二「日本町」より】

江戸に幕府が開かれたころ、ヨーロッパ諸国の形成もおおいに変わりました。
イスパニア・ポルトガルは次第に衰え、新たにオランダとイギリスが盛んになってきました。

オランダは、初めイスパニアに従っていましたが、本能寺の変の前年に独立しました。
イギリスはこれと結び、無敵をほこるイスパニアの海軍を撃ち破ってヨーロッパの制海権をうばいました。
ちょうど後陽成天皇(ごようぜいてんのう)が聚楽第(じゅらくだい)に行幸(ぎょうこう)あらせられた年のことです。
これからイギリスとオランダの勢いがめだって盛んになってきました。

しぜん、英蘭の両国人は、東亜にも押し寄せて来ました。
イギリス人はインドに、オランダ人は東インド諸島に目をつけ、関ケ原の戦いから23年の間に、それぞれ東インド会社を立てて、東亜の侵略を始めました。
しかもそのやり方は、表に貿易をよそおいながら、なかなかずるいところがありました。

やがてこの両国人は、我が国にも来て貿易を求めました。
家康は、慶長14年、まずオランダ人に、同18年にイギリス人にそれぞれ貿易を許しました。
両国人は、まもなく平戸を足場にして激しい競争を始めました。

ところでオランダ人は、一方、東インド諸島でポルトガルの勢力を押しのけ、元和5年にはジャワのバタビア(いまのジャカルタ)に総督を置くほどの勢いでした。
イギリス人は、オランダ人に敵しかね、元和9年、我が国を去って、もっぱらインドの侵略に力を注ぎました。

我が朱印船は、こうした古手(ふるて)新手(あらて)のはびこる南洋へ、勇ましく乗り込んでいきました。
秀吉や家安が貿易をすすめるまでもなく、国民の海外発展心は燃え盛っていました。
京都・大阪・長崎などの商人や九州の大名らは、先を争って南方の各地へ進出しました。

船も末次船(すえつぐふね)や角倉船(すみくらふね)のように、八幡船(ばはんせん)とは比較にならないほど立派になりました。
長さ25間(約45メートル)、幅4間半(約8メートル)、300人乗りの船さえできました。

航海の技術も進歩しました。
しかしまだまだこの程度の船や技術で、波風の荒い東シナ海や、暗礁の多い南シナ海を乗り切ることは、なかなか容易ではありませんでした。
それでも発展の意気にもえた国民は、海国魂にものをいわせて、どんな苦難もしのぎました。
こうして南洋へ渡った朱印船は、幕府が開かれてから、およそ30年間に、約350隻にも及びました。

南方に移住する人々も、どんどん増えて、その数は、すくなくも1万人に達したと言われています。
これらの人々は、いまの東部インド、チャイナ、タイ、フィリピンなどの各地に日本町を立てて、活動の根城にしました。
そのなかには、人口2000人以上の町や、日本橋と名付けられた橋のある町などがあって、その活躍はまことにめざましいものでした。

町の人々は、心をひとつにして、貿易や産業にはげみ、また土地の人とも親しくうち交わり、事があれば武勇をあらわにして、おおいに国威をかがやかしました。

なかでも山田長政(やまだながまさ)が日本町の人々を率いて、シャムの内覧をしずめ、その功によって重く用いられた話は、いちばん有名です。
明るい海、青々とした木々を背景にして、白壁づくりの軒(軒)を連ねた日本町の生活は、絵のように美しく、夢のようにおだかやかでした。

しかし南洋には、すでにヨーロッパ人の勢力が食い入っています。
日本町の人々も、朱印船の商人も、ともどもに力を合わせて、これと競争しなければなりませんでした。
その場合、土地の人々は、つねにまじめで勇敢な日本人の奮闘を、心からたのもしく思いました。

浜田弥兵衛(はまだ やひょうえ)が台湾でオランダの長官を懲らしめた話などからも、これが伺われます。
台湾は、我が国と南洋との中間に位置し、朱印船の南方進出の上に、たいそう重要な地点でした。

ところがオランダ人は、寛永元年に、台南付近を占領して、台湾の富を独占しようとしたばかりか、我が朱印船の南方進出をさえ、さまたげようとしたのです。
弥兵衛がその不法をなじり、命をかけてその言い分を通したのは、まさに日本人の意気と面目を示して余りあるものです。

もえさかる国民の海外発展心は、このほかにも多くの勇ましい話をとどめています。
はやくも文禄年間、信濃の城主小笠原貞頼(おがさわらさだより)は、小笠原諸島を発見して「日本国天照皇大神宮地(てんしょうこうだいじんぐうのち)」と記した標柱を立てました。

その後、慶長年間には九州の大名有馬晴信(ありまはるのぶ)がポルトガル人の不法に対する仕返しとして、長崎でポルトガル船を焼打ちしました。
また加藤清正が大船を造って安南との貿易を計画した話や、支倉常長(はせくらつねなが)が伊達政宗の命を受け、太平・大西の両洋を横切ってローマに使いした話も伝えられています。
さらに寛永年間には、播磨(はりま)の人、天竺徳兵衛(てんじくとくべい)が、15歳の若さでシャムに渡った話や、九州の大名、松倉重政がフィリピン征伐を計画した話があります。

八幡船のまいた種が、いまこそ花を開いて、国民の海外発展心は、とどまるところを知らない有様となりました。
ところがこのみごとな花も、幕府が国内の太平をたもつために、やがて国を鎖(とざ)すに及んで、悔しくも散ってしまったのです。

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さて、戦時中の国民学校初等科国史から、二話をご紹介させていただきました。
ご感想は、皆様それぞれにお持ちだと思います。

一点付け加えますと、
「日本人の東亜進出が、東亜諸国に白人種だけの国や、白人国を生まずに住んだ」
このことは、東洋史を語る上で、欠かせない重要ポイントであると思います。

さて、こうして600年の歴史を俯瞰してみると、あるひとつの重要な事柄に気付かされます。
それは、この600年間が、「富」を軸に世界が回っていたという事実です。
幸いにして日本は、江戸時代の鎖国によって、富ではなく、人々の暮らしが何よりも大事という世を築いてくることができましたが、世界はいまもまだ、富にもとづく世界です。

この富による世界は、これから戦士の時代に取って代わるといわれています。
戦士の時代というのは、戦う個人の時代です。

どれだけ巨大な権力や富を持つ相手であっても、たったひとりの戦士が、これを打ち破り、新しい時代を切り開く。
たったひとりが、世界を変える。
それが戦士の時代です。

しかしこのことは、たいへんに間違いやすい事態でもあります。
たったひとりが、巨大な権力や富を持つ相手に立ち向かう。
その方法として、巨大な権力や富を持つ相手を、ただなじる、バカにする、批判する。
すると世間の多くの人が喝采を送ります。
なにしろ、とうてい勝負できないような巨大な相手に立ち向かい、バカにし、中傷しているのです。
そして自分たちは権力の被害者だと主張します。
するとそこに人気やお金が集まります。

けれどどうでしょう。
他人を批判し、名誉を奪うのが戦士といえるのでしょうか。
中傷が正義となり、世界中の人達が、互いに互いをなじるようになった未来は、本当に私たちが望む素晴らしい未来といえるものなのでしょうか。
それは、ただの混沌(カオス)でしかないのではないでしょうか。

目的もやり方も、違うように思うのです。
ただ単に他人を批判し、名誉を奪うのは、ひとことでいえば悪であって、戦士の仕事ではありません。

ねずブロでは、様々な歴史認識を提案していますが、それらは、個々の歴史認識の是非を問題にしているのではありません。
今日の記事でご紹介した戦時中の歴史教科書の記述もまた、それが正しいとか、今の歴史解釈が間違っているとか、そういうことを問題にしているのではありません。

そうではなくて、多様な認識を受け入れ、物事を本質にまでさかのぼって考えるときに、これまでとはまったく異なる次元の新しい思考が生まれてくる、そこが大事なのだということを申し上げ続けています。
時代の端境期に、従来の価値観や解釈に拘泥(こうでい)していたら、新しい時代に進むことはできないからです。

力が正義だった時代から、ひとりひとりの新しい時代へのチャレンジが、新時代を切り開く。
それが戦士の時代です。

どこぞの国のように、軍とヤクザと暴徒が同じものという状態で、良い国を築くことができるのか。
考えなくてもわかることです。
そこにあるのは、ただの破壊と欲望です。

戦前の教育を受けた我々の先輩たちは、そんな無道の国にって、ひたすら皇軍として正義を貫きました。
支給される糧食が少なくても、その少ない食料を、困っている現地の人達に分け与え、みずからはお腹を空かせたまま、戦場となっている前線へと赴きました。
そしてその多くは還らぬ人となりました。

情報が、マスメディアに限られていた時代です。
そうした誠意誠実は、莫大な予算を使ってひたすら宣伝工作ばかりする卑怯者たちによって、長くかき消されてきました。
けれど、ネットの時代になり、誰もがちょっと調べるだけで、事実がどうであったのかを知ることができる時代へと変化しているのです。

そうした時代にあって、いたずらに破壊や欲望の世界に入り込むのか。
それとも、いまこそ誠意誠実で、真実を求め、未来への希望を築いていくのか。

日本は武士の国です。
選択するのは、私たち自身です。

※この記事は2020年12月のねずブロ記事のリニューアルです。

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