拙著『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』のAmazonレビューに付いた投稿です。
まさに「我が意を得たり」というものです。
書いていただいたwakaさん、ありがとうございました。

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waka 殿堂入りベスト50レビュアー
5つ星 日本の凄さが分かる素晴らしい解釈
2019年12月17日
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「はじめに」で、小名木氏は、恋の歌だとされてきた歌が実はそうではないという、一般に流布している解釈と本来の意味が極端に異なる例を挙げて、なぜこのような解釈が生まれたのか説明し、中には「けしからん」解釈も出てきて、万葉集が「よく分からない歌集」にされてしまったと述べている。
そして、本当の意味が分かると、私たちの祖先がどのような国を目指したのか、そして日本という国、或いは日本人の心とはどのようなものなのかを学ぶ大きなきっかけとなり、改めて日本を知る機会になると述べている。

万葉集が詠まれた時代は、唐という軍事大国が虎視眈々と我が国を狙っていた時代である。
我が国が自立自存を保つためには、国を統一する必要が出てきた。
国をひとつにまとめるのに際し、歴史を通じてどこの国でも行われてきたのが、武力による反対派の制圧と粛清である。
しかし日本は、地方豪族も何代かさかのぼれば、皆、親戚で、粛清するわけにはいかない。そこで行われたのが、文化と教養の普及と経済的利益の共有である。

漢字に訓読みを与えて、日本語としての表記を可能にするという文化運動もそのひとつである。
使う文字が共通になれば、それは同じ民族となり、共同して統一国家を営むことができる。
また漢字を用いることで、ひとつの文中に複数の意味をもたせることができ、より複雑な言語空間ができあがる。
そして言葉が高度になるということは、そのまま文化が高度なものになることを意味する。
万葉集は、そのような文化形成期に詠まれた歌集なのである。

まず舒明天皇の歌を取り上げ、舒明天皇が仁徳天皇と同様に、「民衆の心が澄んで賢くて心根が良くて、みんなが幸せに生きていくことができる好感の持てる国」を国家の理想像として、その歌を詠まれていると述べている。
有間皇子が国のため、一切の釈明をせず、濡れ衣を被って、処刑を受けた話や、額田王と天智天皇と大海人皇子(天武天皇)の三角関係とされてきた歌は、実は天智天皇の治世を讃えた歌であるなど、その詠まれた状況を考慮しながらの解釈は非常に説得力があった。
日本の素晴らしさを改めて感じることができた。

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wakaさん、ありがとうございます。
本の中で、有間皇子のあたりは、あっさりと書いてしまっているので、真意を読み取っていただけるか実は不安だったのですが、見事に文意を汲み取っていただき、とてもうれしく思います。
有馬皇子は、素晴らしい人格者であったと思うのです。
有間皇子を処刑したとされる中大兄皇子も、事情をわかって有間皇子を処罰せざるを得なかったのであろうと思います。

個人的には、おそらく有間皇子は、実際には処刑さえ、されていないのではないかと思っています。
処刑したことにして、出家してお坊さんになって、どこかの住職として余生をまっとうさせる。
有間皇子もその方が、その後の人生を気を楽に送れたであろうし、殺したとみせかけて裏でこっそり逃がそうとしたということこそ、いかにも中大兄皇子らしいやり方だと思うのです。

そもそも我が国では、死を「穢れ」として忌む習慣がありました。
ここはすこし解説が必要なのですが、神道では、葬式は「祭事」とされます。
つまり故人が神になられた、お祝いの儀式とされているのです。
ただしそれは、あくまで霊(ひ)のことです。
滅んだ肉体は腐り、朽ちていきますから、こちらは穢れになります。
従って、厳密には死後の肉体を穢れとして忌むのであって、御霊(みたま)にとってはお祝いとなると考えられたのです。
こうした考えを、しっかりと受け止めるには、ものごとをしっかりと分けて考える知識と思考力と高い民度が必要になります。
だから日本は、教育と教養の国なのです。

話をもとに戻します。
秩序維持のためには、反逆者を赦すわけにはいきません。
当然、処刑も辞さずといった概念が必要になります。
ここをゆるめたら、世の秩序が崩壊するのです。

そこで仏教の「出家」が活用されたのです。
出家をすることは、今生に別れを告げることを意味します。
つまり、それまでの人生は、いったん終わりになるのです。
そしてひとえに御仏に帰依することになる。
御仏に帰依するということは、仏教の経典を学んでこの世の真実を探求し、経を読んで仏とつながり、写経をする等をして心の浄化を図ることを人生にするということです。
それは、欲望の渦巻く現世(うつしよ)とは対局にある世界です。

そうは言っても、出家によって命を永らえたことを奇貨として、再び反逆の狼煙(のろし)を挙げて秩序を乱すような場合には、本当に処刑するほかはありません。
中大兄皇子の場合、乙巳の変で蘇我入鹿の命を奪った経験を持ちます。
すでにその手を血で汚しているのです。
けれど、そのまま血の改革を推し進めるなら、我が国が「武力で秩序を図る国柄」になってしまいます。
これは避けなければならないことです。
なぜなら、武力で世を抑えるということは、それより強い武力を持つ集団が現れたら、どこかの国と同じように、国そのものが易(か)わってしまうのです。
それでは万世一系を維持することはできません。
未来に禍根を残すことになるのです。

「二度と皇室を軽んずるような豪族を出してはならない」ということがテーマです。
そのために乙巳の変もあります。
けれど、だからといって我が国を、簡単に武力に訴えるような国にしてはならないのです。
このことをいかに実現していくかが、中大兄皇子の時代から、弟の大海人皇子(後の天武天皇)、その妻の持統天皇に至る時代の、最大の懸案事項だったのです。

大化の改新も、記紀の編纂も、歌集の編纂も、そうした文化的政治的背景のもとで生まれた一連の改革です。
そしてこうした一連の改革の基礎となる考え方を明確に打ち出されたのが、中大兄皇子の父であられる舒明天皇です。

舒明天皇は、我が国の理想を歌に詠みました。
それが『万葉集』にある「天皇、香具山に登りて望国くにみしたまふ時の御製歌」です。

 山常庭    やまとには
 村山有等   むらやまあれど
 取与呂布   とりよろふ
 天乃香具山  あめのかくやま
 騰立     のぼりたち
 国見乎為者  くにみをすれば
 国原波    くにはらは
 煙立龍    けぶりたちたつ
 海原波    うなばらは
 加万目立多都 かまめたちたつ
 怜忄可国曽  うしくにそ
 蜻嶋     あきつのしまの
 八間跡能国者 やまとのくには

意味は概略すると次のようになります。

「恵みの山と広い原のある大和の国は、
 村々に山があり、豊かな食べ物に恵まれて
 人々 がよろこび暮らす国です。
 天の香具山に登り立って
 人々の暮らしの様子を見てみると、
 見下ろした平野部には、
 民(たみ)の家からカマドの煙が
 たくさん立ち昇っています。
 それはま るで果てしなく続く海の波のように、
 いくつあるのかわからないほどです。
 大和の国は、人々が神々の前でかしづき
 感動する心を持って生きることができる国です。
 その大和の国は人と人とが
 出会い、広がり、また集う美しい国です」

この歌について、舒明天皇が単に「大和の国は美しい国だ」と詠んだだけだと翻訳しているものをよく見かけます。
理由は、「うまし国」の解釈にあります。
原文にある「怜(忄可)国曽(うしくにそ)」《「忄可」は、りっしんべんに可というひとつの漢字です》を、「美しい国」と翻訳していることにあります。

全然違います。
怜(忄可)の「怜」は、神々の前でかしずく心を意味します。
「忄可」は、良い心を意味し、訓読みが「おもしろし」です。
古語で「おもしろし」は、感動することを言います。
つまり「うまし」は「怜(忄可)」と書いて、人々が神々の前でかしづく感動する心を持って生きることができる国であることを示しています。

天皇のお言葉や歌は「示し」です。
数ある未来から、ひとつの方向を明示するものです。

よく戦略が大事だとか、戦術が大事だとか言いますが、戦略も戦術も、そもそも仮想敵国をどこにするのかという「示し」がなければ、実は戦略の構築のしようがありません。
その意味で、トップの最大の使命は「戦略に先立って未来を示すこと」です。
舒明天皇は、我が国の姿を、
「民衆の心が澄んで賢く心根が良くて、おもしろい国」
と規定された(示された)のです。

ちなみにここでいう「おもしろい国」という言葉は、我が国の古語における「感動のある国」を意味します。
昨今では、吉本喜劇のようなものをも「おもしろい」と表現しますが、それでも例えばとっても良い映画を観た後などに、「今日の映画、おもしろかったねえ」と会話されます。
この場合の「おもしろい」は、「とてもよかった、感動的した」といった意味で用いられます。

「民衆の心が澄んで賢く心根が良くて、おもしろい国」というのは、聖徳太子がお隠れになられたときの民衆の反応に見て取ることができます。
人々が互いに助け合って、豊かで安心して安全に暮らすことができる国だから、素直な心で、いろいろなことに感動する心を保持して生きることができるのです。

特定一部の人が、自分の利益だけを追い求め、人々を出汁(だし)に使うような国柄であれば、人々は使役され、収奪されるばかりで、安心して安全に暮らすことはできません。
とりわけ日本の場合、天然の災害の宝庫ともいえる国ですから、一部の人の贅沢のために、一般の庶民の暮らしが犠牲にされるような国柄では、人々が安全に暮らすことなどまったく不可能であり、さらに何もかも収奪されるような国柄では、とても人々はなにかに感動して生きるなど、及びもつかない国柄となってしまいます。

舒明天皇の時代は、強大な軍事帝国の唐が朝鮮半島に影響力を及ぼし始めた時代であり、内政面においては蘇我氏の専横が目に余る状態になってきていた時代でした。
そんな時代に、舒明天皇は、「うし国ぞ、大和の国は」と歌を詠まれたわけです。
それは、舒明天皇が示された我が国の未来の姿です。

そんな父天皇を持った中大兄皇子は、そこで宮中で蘇我入鹿の首を刎ねます。
これが乙巳の変で、645年の出来事です。

蘇我本家を滅ぼした中大兄皇子は、皇位に即(つ)かず、皇太子のまま政務を摂ります。
これを「称制(しょうせい)」と言います。
我が国では、天皇は国家最高権威であって、国家最高権力者ではありません。
このことは逆に言えば、天皇となっては権力の行使ができなくなることを意味します。
ですから中大兄皇子が、大改革を断行するにあたっては、中大兄皇子が皇位に即(つ)くわけにはいかなかったのです。

そして同年、中大兄皇子が発令したのが「公地公民制」です。
これによって、日本国の国土も国民も、すべて天皇のものであることが明確に示され、またその天皇が、あえて権力を持たずに国家最高権威となられることで、民衆こそが「おほみたから」という概念を、あらためて国のカタチとすることを宣言したわけです。

このことは、当時の王朝中心主義の世界にあって実に画期的なことであったといえます。
なにしろ、21世紀になったいまでも、日本の他には、国家最高の存在が国家最高権力者である国しかないのです。

ところが中大兄皇子は、朝鮮半島への百済救援のための出兵を意思決定されます。
倭国は勇敢に戦いましたが、気がついてみれば、百済救援のために新羅と戦っているはずが、百済の王子は逃げてしまうし、新羅は戦いが始まると逃げてばかりで、まともに戦っているのは、倭国軍と唐軍です。
これでは、何のために半島に出兵しているのかわからない。

さらに白村江で、倭国兵1万が犠牲になりました。
亡くなった倭国兵たちは、その多くが倭国の地方豪族の息子さんと、その郎党たちです。
この禍根は、実は後々まで尾を引きます。

我が国が天皇を中心とする国家であることは、誰もが認めるし、納得もできるのです。
そして天皇がおわす朝廷の存在によって、いざ凶作となったときには、全国的な米の流通が行われて、村の人々が飢えることがないようにとの国家の仕組みも納得できるのです。
けれど我が子が死んだ、中大兄皇子の撤兵指示によって、結果、白村江で多くの命が失われ、そのときに我が子が死んだという、この感情は、どうすることもできません。
理屈ではわかっていても、感情は尾を引くのです。

この禍根は、天智天皇から数えて三代後の持統天皇の時代にまで続きました。
持統天皇が行幸先で、誰とも知れぬ一団に襲撃を受け、矢傷を受けられるという事件も起きているのです。
国内的には、まさに分裂の危機であり、その分裂は、そのまま唐による日本分断工作に発展する危険を孕んだものであったわけです。

こうしたなかにあって、兄の天智天皇から弟の天武天皇への皇位の継承が行われました。
なるほど表面上は、天武天皇が軍を起こして天智天皇の息子の大友皇子を襲撃したことになっています。
しかし、よく考えてみると、これはおかしな歴史の記述です。

天智天皇は大化の改新によって、実に革命的に多くの改革を行いました。
当然、そうした改革は、ものごとが良い方向に向かうようにするために行われるものです。
しかし、短兵急で強引な改革は、必ず改革によって不利益を被る者を生じさせるのです。

そうした反天智天皇派の人たちの期待は、当然のように弟の大海人皇子の皇位継承に集まります。
そして大海人皇子が軍を起こして、天智天皇の息子の大友皇子を追い、みずから天武天皇として即位するとします。

反天智天皇派の人たちは、よろこんで天武天皇に従ったことでしょう。
そして天武天皇が即位されると、もともと天智天皇派だった人たちは、もとよりご皇室中心の日本を大切に思う人達なのです。
このことが意味することは重大です。
つまり、天武天皇の旗揚げ(壬申の乱)によって、実は国がひとつにまとまるのです。

正史は、天智天皇亡き後、天武天皇が兵を起こしたことになっています。
そして天智天皇の子の大友皇子は、人知れず処刑されたことになっています。
けれど、大友皇子の処刑を観た人はいないのです。

天智天皇の崩御にも疑問が残ります。
天武天皇の正妻は、持統天皇です。
その持統天皇は、天智天皇の娘です。
そして天武天皇が、皇位に即位されたあと、事実上の政務の中心となって改革を継続したのが、その持統天皇です。
しかも持統天皇は、なぜだか31回も吉野に行幸されています。

これは正史には書かれていないことですが、個人的には、おそらく天智天皇は生きておいでであったのだろうと思います。
生きていても、当時の考え方として、出家されれば、この世のすべてを捨てて、今生の天智天皇としては崩御したことになるのです。
そして吉野に隠棲し、そこで僧侶となる。

弟の天武天皇に皇位を継承させるためには、天智天皇に集中した国内の不満分子を、まるごと天武天皇が味方に付けてしまうことが一番の選択です。
そして皇位継承後は、娘の持統天皇が、皇后として政治に辣腕を揮う。
幸い、きわめて優秀な高市皇子が、政務を執るのです。
天智、天武、持統、高市皇子のこの強い信頼関係のもとに、あらためて日本は盤石の体制を築いたのではないか。
そのように個人的には観ています。

天智天皇と天武天皇が兄弟であったことさえ疑う意見があることも承知しています。
しかしそのことを示す史料はなく、この不仲説の根拠となっているのは、万葉集における天智天皇、天武天皇、そして天武天皇の妻であり一女まである額田王の歌が、根拠となっています。
しかしその根拠とされる歌も実は、その意味をまるで履き違えた解釈によって、歪められていたという事実は、このたびの拙著『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』で詳しく述べた通りです。
(まだお読みでない方は、是非、ご購読をお勧めします)

不幸なことに、天武天皇のまさかの崩御によって、鵜野讚良皇后が持統天皇として即位されます。
そして持統天皇が、敷いたレール、それが、反対派を粛清したり抹殺したりするのではなく、教育と文化によって、我が国をひとつにまとめていくという大方針です。

万葉集も、そのために持統天皇が柿本人麻呂に命じて編纂を開始させたものです。
こうして我が国の形が固まっていきました。
それは高い民度の臣民によって培われた、民度の高い国家という形です。

こうした一連の流れの中に、有間皇子もおいでになります。
そこだけが突出して、残酷な事件のように考えるのは、やはり無理があるのです。

我が国には、国家形成の揺籃期でさえ、このように素晴らしい思考があったのです。
爾来1300年、我が国は、庶民の高い民度によって支えられる盤石の国家が築かれてきました。
このことは、臣民として、たいへんに幸せなことです。

我が国の歴史を、あたかも権力者による血塗られた横暴の歴史のように語る人がいます。
とんでもない間違いです。
我が国には、権力者が自分が逃げるためにと、大型のダムを決壊させて100万人もの民間人を一気に水死させたり、大統領が自分が逃げ伸びるために漢江に架かる橋を、まだ民衆が避難のために橋を渡っているのに、橋にいる民衆ごと橋を爆破するような残虐な文化は、歴史上まったく存在しないのです。

※この記事は2019年12月のねずブロ記事をリニューアルしたものです。

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