歴史の見方や考え方は、様々なものがあります。事実はひとつであっても、それがなぜ起きたのか、どうしてそうなったのかは「人の解釈」によるからです。ですからどのような見方をしたとしても、それは自由ですし、以下もそうしたたくさんの見方のひとつにすぎません。そうしたさまざまな見方を、複眼的に受け入れることで、物事をより幅広い視野で見ることができるようになるのではないかと思っています。

 明智光秀の「敵は本能寺にあり!」は歴史に残る名台詞です。歴史をあまり好きではないといわれる現代人でも、この言葉は常識として定着しています。本能寺の変で織田信長が亡くなり、倒した明智光秀も秀吉に敗れて三日天下に終わりました。そして世は関白太政大臣豊臣秀吉の時代、そして関ヶ原を経て徳川幕府の時代へと移ります。

 この本能寺の変で、亡くなったはずの信長の遺体はあがっていません。本能寺そのものは、事変のときに火災で焼け落ちていますが、普通、木造家屋の火災程度では、遺体は焼死体となって残るはずで、それがないというのは、この時代の火力を考えればすこしおかしな話です。
 信長の遺体が発見されなかったのは、本能寺が京における信長の出先機関であり、地下に織田軍団の保有する火薬が大量に保管され、事変のときにこれが大爆発を起こしたからだ、という説もあります。当日巨大な火柱が本能寺方面からあがったのを見た、という記録があるからだ、というのがその論拠のようですが、どうもしっくりきません。

 というのは、火薬が爆発したのなら、火柱もさりながら、大音響を伴ったはずで、その「音」に関する記述がどこにもないからです。そういう説ならむしろ、遺体はほぼ特定されたけれど、あまりに痛ましい焼死体であったために、あえて「燃え尽きて、なくなっていた」ことにしておいた、つまりそれは「後講釈」でしかなかったという解釈の方が、なんだかしっくりくるように思えます。

 歴史を調べるとき、文献史料というのは、とても重要です。ただし日本の、とりわけ武家社会というのは、いわゆる「タテマエ社会」で、実際にあったことよりも、タテマエとして「こうだったことにしておこう」ということが優先された社会であったということも理解しておく必要があります。
 西洋においては、文献は当時の模様を事細かに微に入り細にわたり描写するのが特徴です。これは歴史史料に限らず、絵画や彫刻、文学なども同じで、油絵の具を何度も何度も重ね塗りして、できるだけリアルに仕上げようとする、あるいは風景描写などを、小説の中で事細かにしていきます。ロシア文学などは、冒頭の風景描写だけで数ページ続くなんてこともあります。
 これに対し日本の古典は、史書も文学も絵画も芸能も、すべて引き算です。できるだけ短い言葉にして、あとは読み手の想像力に委ねる。これは、読み手、受け手の側に一定の教養と知性を求めますが、その代わり想像力が刺激される分、言葉は短いけれど、含蓄のあるより大きな情報を伝えます。
 日本では、そもそも文自体に引き算という特徴があることに加え、武家の記録は常に「タテマエ」が優先するわけですから、単に書いてあるか書いてないかだけで歴史を考えることは、判断を誤ります。当時あった実際の出来事が、かならずしもその通りには書かれていないということが往々にしてあるからです。

 では、信長はどうなってしまったのでしょうか。
これについて、おもしろい見解があります。
信長は生きていた、というのです。

 生きて、どうなったかは不明です。当時は東南アジア諸国との交流が活発でしたので、海外でのんびりと余勢を過ごされたのかもしれませんし、もしかすると、そうなろうとして、途中の海でシケに遭って亡くなられたかもしれない。
あるいは仏教に帰依して、僧侶となって余勢を送ったかもしれません。当時は、出家して坊さんになることは、現世における死を意味したからです。
 ただ、ひとついえそうなのは、太平の世を築くという目的のためには、そこで信長が死ぬことは、あまりにもタイミングが良すぎる、ということです。つまり、本能寺の変は、信長が光秀に討たれたのではなくて、逆に信長が光秀に命じた、実は大芝居ではなかったのか、というのが、信長生存説です。

 このお話には、前提となる流れの話が必要です。それは仏教の話です。
 六世紀の仏教伝来以来、十六世紀終わりごろの秀吉の「刀狩り」の時代まで、約千年間の長きにわたって、実は仏教勢力は、たいへんな武装政治勢力でした。
 これはいまで言ったら、某巨大新興宗教団体が、独自に自衛隊、というより軍や兵器を持っているようなもので、そんな武装勢力が、神輿【みこし】を繰り出しては、朝廷を脅迫していたのです。
 「平家物語」の巻一には、白河法皇が「賀茂河の水(洪水)、双六の賽(サイコロ)、山法師(僧兵)」の三つは「天下三大不如意」、つまり「どうにも手がつけられない」と嘆いたことが書かれています。

 そもそも、仏教が伝来したのは、六世紀の中頃です。当時、朝鮮半島にあった百済(くだら)という国の聖明王が、日本の欽明天皇に金銅の釈迦如来像と経典,仏具などを献上したことが、学校では「仏教公伝」と教えられます。このことを称して昨今、「仏教も文字も朝鮮が日本に伝えたもので、それまでの日本は宗教も文字もないオクレタ未開の野蛮国だった。その日本が文化を教えてもらった恩義も忘れて朝鮮半島を侵略統治したのは、恩知らずのとんでもない暴挙だ」と主張する日本の学者、ジャーナリスト、メディアがあります。韓国では実際に子供達にそのように国定教科書で教えているのだそうです。

 馬鹿な話です。当時の朝鮮半島は、いまの北朝鮮のあたりが高句麗(こうくり)で、韓国のあるあたりは三韓時代といって、百済(くだら)、新羅(しらぎ)、任那(みまな)の三地域に分かれていました。このうち任那は日本そのもので、つまり朝鮮半島の南部の一部(かなり広大なエリアですが)は、倭国(わこく)すなわち日本そのものだったのです。そして百済は、東に新羅、北に高句麗という強国を抱え、自国の存続のために日本の庇護を受けていました。
 実際、百済は王子を毎回日本に人質に出しているのです。そして王が逝去すると、日本にいた王子が帰国して次の王になりました。ですから実際には人質というより留学と呼ぶべきものでもあるのですが、日本と朝鮮双方の考古学史料がこうした事実を明らかに証明しているのに、デタラメな思い込みを教育しているというところに、現代歴史学会の病巣があるし、それを真に受ける馬鹿な日本のメディアにもおおいに問題があるように思います。

 要するに、百済の王が日本に仏教の教典や仏像を献上したのは、百済の国土防衛上の必要からのものです。また「このときはじめて日本に文字が伝えられた」と主張する説もあります。しかし日本にはすでに一世紀に金印が伝わっています。またこの頃の銅鏡にも文字が掘られています。一世紀半ばの金印については、そもそも印鑑というモノ自体、文字文化がなければ無用の長物ですし、この金印の授与に際して、日本から「大夫(たゆう)」という肩書きの者が漢の皇帝を訪問したと漢の記録に書かれています。つまり、そうした肩書きや役職、官位が制定されるだけの、しっかりとした行政組織が、すでに一世紀の日本にはできあがっていたということです。

 さらに百済からの仏教伝来よりもはるか以前に、日本では墨で文字の書かれた土器なども多数出土しています。一〜三世紀には、すでに文字が広汎に普及していた日本に、六世紀になって「はじめて」漢字が伝わったというのは、あきらかに無理がある話です。

 問題は、仏教や文字を伝えてもらったなどという「ありがたい話」ではなくて、その仏教が、我が国において、巨大な武装政治圧力団体になってしまったにあります。仏教を否定するとか、そういう意味ではありません。鑑真など、素晴らしい高僧や、素晴らしい教えがあった一方で、世俗的な意味での仏教組織の肥大化と武装のことを申し上げています。
 仏教は、伝来からわずか四十二年で、推古天皇によって仏教興隆の詔が発せられました。これが西暦五九四年のことです。つまり仏教は、たった四十二年で、天皇を動かすだけの政治力を持ってしまったのです。どうしてこのようなことができたのでしょうか。

 日本にもともとある神道は、いまでこそ「交通安全祈願のお守り」なんてのを売ってたりしますが、もともとは現世利益を説いていません。交通安全や安産、病気快癒、商売繁盛などを扱うようになったのは、神社とお寺の境界線が曖昧になった江戸時代以降のことで、もともと神道にあるのは浄化と感謝です。ですから、たとえば「あの人と結ばれたい」と思っても、神道なら「それならお祓いしてあげましょう」というだけで、結ばれるかどうかは、あなたの精進努力次第ですとなります。
 ところが後発の渡来仏教は、現世利益です。信じれば病気が治る、怪我をしない、暮らしが豊かになるし、恋も叶う。その大がかりなものが、加持祈祷です。

 よくよく考えてみれば、一億の民それぞれが、みんな自分の願いが叶ったら、世の中はたいへんなことになります。たとえば今日は晴れてほしいという願いの人もいれば、今日こそ雨が降ってくれないと困る人もいる。誰もが学校で成績一番をとりたいと願っても、生徒全員が一番になるのは無理ですし、絶対に病気や怪我をしてほしくないという願いが全員叶ったら、医者も看護師さんも失業しなきゃならない。
 けれど、そうはいっても、目の前で子供が大怪我をしたり病気になれば、ワラをもつかみたくなるのが庶民感情です。いくら払ったら願い事が叶うと聞けば、おカネも払うし、それで願いが叶わなければ、信心が足りない、お布施が足りないとなって、ますます寄進を行う。結果として渡来仏教は、全国から集めた寄進で大繁盛し、莫大な経済力身に付けます。そしてその莫大な経済力を背景に、豪華絢爛な仏閣を建て、政治にも大きな力を持つのです。

 ちなみに富というのは、古代においては、食物とイコールです。人間は、その食物の生産高以上には人口は増えません。ということは、ごく一部の者、つまり渡来仏教集団が、それだけの大きな経済力を持ったということは、日本全国でみれば、もともと民衆の間に均等だった富が、一部の者に偏在した、つまり一部の者が富むことによって、他の多くの民は、極貧生活を余儀なくされるという結果を招いたわけです。
 普通なら、これで人口が激減します。実際、異文化との衝突というのは、どちらかが滅びるところまで行ってしまうというのが世界史の常です。つまり、仏教伝来によって、古来からある日本の文化も、日本人も、もしかしたらほろんでなくなってしまったかもしれないのです。
 ところが日本はそうなりませんでした。なぜかといえば、生活に苦しくなった民衆が、努力して新田の開墾を始めたのです。つまり、富が偏在した分、日本人は新たな富を生み出すべく、努力を重ねたわけです。そうしてできた新田の地主たちが、後年、みんなで力を合わせて、自警団を組み、それが武士団となって、時代がまた新たな時代へとシフトしたわけです。ここは、大事なポイントだと思っています。

 仏教勢力が持ったのは、経済力と政治力だけではありません。仏閣内に多勢の「僧兵」を養うようになりました。つまりお寺が軍事組織化したのです。これは大問題で、いまで言ったら、特定娯楽業界が軍隊並みの武装をしたみたいなものです。
 ちなみに「僧兵」という言葉は、事実上「僧兵」が武装軍団ではなくなってから、つまり江戸時代になってから付けられた名前です。もともとの呼び名「法師武者」とか「僧衆」です。隠語では「悪僧」といいました。この場合の「悪」というのは、「強い人」という意味で、現代風の「悪者」とは意味語感が違います。有名なところでは、武蔵坊弁慶がいます。

 「悪僧」たちは、完全な軍事組織を形成していました。鎧も着れば兜もつける。手には大薙刀、腰には刀、背中には矢を背負い、日々鍛錬して強大な軍事力を持ちました。宮本武蔵と対決した、槍の宝蔵院流というのも、僧たちの槍の流派です。
 そして「僧」たちは、なにか政治問題があると・・・それはたとえば、もともと貴族の荘園だったところを、仏教寺院の荘園として付け替えることに、政府が難色を示したりする等ですが、多勢で都に押し掛けて朝廷に強訴に及びました。なにせ推古天皇に「仏教興隆の詔」をいただいているのです。聖徳太子からは「厚く三宝を敬え」と、憲法上での保護を受けていました。ですから彼らは神輿を担ぎ、武装して朝廷に出張り、大声をあげて要求が通るまで騒ぎ通したのです。おかげで奈良県の大和地方にあった朝廷は、ついには泣く泣く七九四年に都を山科に引っ越しました。これがいまの京都平安京です。朝廷が逃げ出すしかなかったのです。どれだけ仏教勢力の武闘派圧力が強かったか、ということです。

 僧侶が仏教を信仰することは良いことです。仏教界が莫大な経済力をもったとしても問題にはなりません。その分、みんなで努力して新田を切り拓いていけば、みんなが死なずに食べてくことができるからです。ただ、武装は困る。もちろん武装した「悪僧軍団」を武力で征圧することは可能なです。しかしそれをすると大きな問題が残るのです。何かというと「禍根【かこん】」です。イスラムのゲリラを殺せば、彼らはジハード(聖戦)として、殺した側に復讐を近い、どこまででも追って来ることでしょう。これと同じです。そして巨大軍事組織による聖戦は、世の平和を乱すことになります。

 こうして千年続いた仏教界の武装勢力を、根本から叩き潰したのが、信長です。武装宗教団体に対する討伐は、過去にも何度かありました。足利幕府の三代将軍足利義教の比叡山延暦寺への大討伐なども有名な話です。けれど足利義教も含め、仏教渡来以来千年間、誰も仏教界の武装勢力の首に鈴をつけることができなかったのです。信長は、これをやったのです。

 信長は天下の3分の1を手に入れました。これは圧倒的な軍事力です。その圧倒的力をもって、武装宗教勢力である比叡山延暦寺、一向宗の本部である本願寺を攻め、僧兵たちを武装解除させたのです。おかげで、比叡山も本願寺も、純粋な信仰のための聖地となりました。けれどその一方で、信長は仏僧を殺した破戒の「第六天の魔王」と言われ、罵られるようになりました。「第六天の魔王」というのは、魔王の中の最大かつ最強の魔王です。

 信長は天下をほぼ統一し、武装仏教勢力まで退治しました。けれど、そのために宗教的信仰心に裏付けられたゲリラに、こんどは内部から、常に命と政権転覆を狙われるようになったわけです。圧倒的な軍事力で全国の大名たちを従え、武力を織田政権下の管理下に完全においたはずなのに、今度は、誰ともつかない織田政権の内部にいる宗教勢力から、織田政権の転覆と、信長の命が狙われるようになったのです。
 もしそれで信長が仏教の武闘派勢力の手によって殺されれば、時代はまたもとの「武闘派仏教」の時代に戻ってしまいます。それでは、なんのために本願寺や比叡山を攻めたのかわかりません。

 そもそも天下三分の一の武力を持ったのも、比叡山や本願寺を責めたのも、すべては世に泰平をもたらすためです。
戦国の世で誰が一番困るか。民百姓なのです。なんとしても、武力で争う時代を終わらせなければならない。そのためには、最強の、誰も勝てない武力を持たなければならない。
 昨今では「武力に反対だから武力を持たない」という人がいますが、現実にはそういう人々は武力をまともに行使されたら、死ぬだけです。武には武を、なのです。

 ところがこうした流れをみてみると、もしかすると「第六天の魔王」というイメージも、信長自身が流布させたものかもしれないと思えてきます。
 なぜかというと、延暦寺や本願寺を滅ぼした信長は、織田軍団として宗教側の恨みを引き受けるのではなく、あくまで信長ひとりが悪の破戒者、第六天の魔王となるようにしています。比叡山や本願寺を攻めたときの武士たちには何の罪もない。悪いのは信長ただひとりだ。こうなると、宗教ゲリラの狙いは信長ひとりに絞られます。そうしておいて、信長が誰かに殺されたら、武装宗教ゲリラたちは、その攻めの矛先を失い、沈黙をせざるを得なくなります。

「戦乱の世に終止符を打ち、太平の世を築く」
それは、織田弾正としての、信長の最大の政治課題であり、政治目標です。
けれど、ゲリラ戦、宗教戦争になれば、国は混乱し、戦乱はいつまでも続きます。

 ならば、悪の大魔王をひとりだけにし、そのうえでその大魔王が、信頼されている部下に裏切られ、驚愕のうちに、地獄の業火に焼かれて死ぬ。すると仏教の武闘派勢力は、その恨みと戦いの矛先を失なう。そのうえで刀狩りをして、一般庶民から仏教寺院にいたるまで、すべての武装を取り上げる。武力を、武家だけの専売特許にする。そうすれば、もはや宗教戦争は起きず、仮に起きてもすぐに鎮圧できる。

 戦国大名というのは、いわば軍閥ですから、より強大な軍事力をコチラが持てば、黙って調伏できます。しかし仏教勢力には、信仰があります。これはやっかいです。といって仏教徒を皆殺しにすることはできません。それに信長の家臣の中にも仏教信仰に厚い人はたくさんいます。
 こうした中にあって、国内に根付いている武装仏教勢力の影響力を廃して国内に治安と平安をもたらすためには、討伐を行った信長自身が自称「第六天の魔王」となり、すべての非難の矛先を自分に向けさせた上で、できるだけ派手に死亡する。病死ではダメです。側近に裏切られて、歯がみして死んだとでもしておかないと、武装仏教勢力は納得しない。だとすれば、自分ができるだけ派手な演出で裏切られて死亡するという事態を、誰かにやらせなきゃならない。そしてその適任者は、織田軍団のなかで、明智光秀しかいません。彼は由緒ある家柄の出で、歴史や伝統に詳しく、朝廷や仏教界からも信任が厚い。

 しかし光秀が主君を討てば、彼自身は逆賊の汚名を着せられることになります。ですから光秀も誰かに殺されたことにしなければなりません。そしてその者が天下人になる。これでみんなが納得する。そして光秀を倒して天下を担う者は、「宗教仏教以上に人々に夢と希望を与えることができる人物」でなければなりません。とすれば、百姓から身を起こした木下藤吉郎(秀吉)が、まさに適任です。家柄なんてない、一介の百姓が、天下人になるのです。こんな痛快な夢物語は他にありません。何しろ日本の人口の九十五%以上が農民です。つまり秀吉は、どんな宗教の現世利益のご利益よりも、現実の利益を象徴する存在になり得るのです。

 しかし秀吉の成長志向も、天下が治まって戦乱がなくなれば、もはや人々に成長や出世の機会はなくなります。ですから、成長志向もどこかで終わらせなければならない。そしてそのときこそ、本当の意味での泰平の世が築かれることになります。
 けれど、百年の長きにわたり戦乱の渦に呑まれた日本で、本当の意味で治安と平和を回復し、これまでにない、まったく新しい新政権を発足させて絶対平和の世の中を築くためには、それができるだけの才覚を持った人物が必要です。大将は貫禄があれば足りますが、具体的な国づくりには能力が要ります。新しい国家のカタチを築くのです。並みの才覚では勤まりません。

 このことは、いまの国会も同じです。仮に日本国憲法を無効化して、まったく新しく、日本の古くからの歴史と伝統と文化に基づく新生日本を築くにしても、そうなったらなったで、次には細かな行政の仕組みづくりや、新たな国家体制構築のための組織、体制づくりをしなければならないのです。そしてそういうことが本当にできるだけの才能を持った人というのは、そうそう滅多やたらにいるものではありません。信長の家臣団の中で、その才覚をもった人物は、光秀だけです。そうであれば、光秀は「生かしておかなければ」なりません。
 明智光秀は、秀吉に負けて百姓の竹やりで殺されたということになっているけれど、本当にそうなのでしょうか。光秀ほどの剛の者が、そうそうたやすく素人の百姓に殺されたりするでしょうか。むしろ光秀は、「暗がりで百姓の竹槍で殺された」ということにして、身分と名前を捨て、どこかで僧侶にでもなって、後日の光秀の才覚を活かすことを考えた方が合理的です。

 実際、不思議なことに、天下の大逆人であるはずの光秀の子供たちは、細川家であったり、織田家であったりして、みんな生き残っています。ふつう逆臣の係累というのは、全員殺されるのが普通なのに、生き残っているのです。
 さらに不思議なことには、家康が江戸幕府を開いたとき、新たな国の枠組みを決めるのに大いなる貢献をしたのが、天海僧正で、天海僧正は、新しい天下の枠組みだけでなく、行政機構の整備や徳川幕府の人事、寺社仏閣等のハード面のすべてにおいて、家康の名代としてこれを統括し、徳川三百年の泰平の世を完全に築き上げました。これは並みの才能ではありません。

 ところが、これだけ重要な職務を遂行した天海僧正というのは、不思議なことに出自がまるでわからない。僧正というくらいですから、仏教徒としても相当な高位にのぼったひとのはずなのに、若い頃どこの寺で修行し、小さい頃にどんな逸話があったのかといった話が、まるでない。歴史上、突然「僧正」として登場し、家康の側近となり、江戸幕府の慣例、しきたり、江戸幕藩体制の仕組みを一から作り、日光東照宮のような文化施設まで造っているのです。
 さらに三代将軍徳川家光の「光」の字は、光秀の「光」、二代将軍徳川秀忠の「秀」は、光秀の「秀」から名前をもらったという説もあります。

 家光を育てた春日の局は、光秀の重臣の娘ですが、彼女がはじめて天海僧正に会ったとき、春日局が「お久しゅうございます」と言ったという話が遺されています。
 天海僧正が作った日光東照宮の紋所は、なぜか光秀の家紋である桔梗です。
 さらに日光には、なぜか「明智平」というところがあり、東照宮の陽明門には、なぜか桔梗紋を身に着けた武士の像が置いてあります。それが誰の像なのかは誰もわからない。

 もっというと、大阪の岸和田にある本徳寺には、光秀の位牌があるのだけれど、そこには、光秀が慶長四(1599)年に寺を開いたとされています。これまた不思議なことです。なぜなら本能寺の変、山崎の戦いで光秀が死んだのは、天正一〇(1582)年だからです。つまり1582年に死んだはずの光秀が、その17年後に寺を建てたというのです。
 その本徳寺には、光秀の肖像画も残されています。その画には、「放下般舟三昧去」という文字があるのですが、これは、光秀が出家して僧になったという意味です。
 もっというと、家康ゆかりの地の江戸(東京)、駿府(静岡)、日光(栃木)、佐渡(新潟)と、光秀ゆかりの地(美濃源氏発祥地)の土岐(岐阜)、明智神社(福井)を線でつなげると、籠(かご)の網目のような六角形ができあがります。童謡の「かごめかごめ」は、

 かごめかごめ
 カゴの中の鳥は
 いついつでやる
 夜明けの晩に
 鶴と亀が統べった(すべった)
 うしろの正面だーれ

という歌詞です。「かごめ」が地理上の大きな籠目を指し、「カゴの中の鳥は」は「とり」は、明智一族発祥の「土岐(とき氏)は」とも聞こえます。家康と光秀を線でつないだ籠の目の中の土岐氏は、「いついつでやる」です。そして「夜明けの晩に」は、日の出のときです。つまり「日の光」が射すとき。日光です。その日光東照宮の屋根には「鶴と亀」の像があります。その「鶴と亀」が「統べた」統治する・・・と、ここまでの意味をつなげると、「土岐出身の光秀はいつ日光東照宮に姿をあらわすのか」となり、「うしろの正面、だあれ」は、土岐から日光のほうを向いたときの地理上の後ろ側、つまり、大阪の岸和田で、そこには光秀の位牌と肖像画のある本徳寺があります。つまり、「かごめかごめ」の童謡は、暗に天海僧正が光秀であることを謳った童謡であるというのです。これまたおもしろい説です。

 ただ、この話には明らかな無理があります。なぜなら、天海が光秀であるとすると、一一六歳(記録では一〇八歳)で没したことになり、少し長命すぎます。ですからおそらくは、天海僧正は光秀の息子であったという説もあります。光秀の子は、父の光秀から徹底的に新しい世の中作りのための知識と知恵を幼いころから完璧に教え込まれたと、それが後の天海僧正になったのかもしれません。

 そもそも光秀が本能寺で信長を討つ必然性が「信長に頭を扇子で叩かれた」というのでは、あまりに説得力がなさすぎです。そしてこうした筋書きをみると、本能寺の変は、光秀が企画して、信長が決裁し、秀吉に噛んで含めた大芝居であったのかもしれません。

 事実がどうであったのかは、タイムマシンがない現代では、その時代に行って確かめることができないので、わかりません。すべては遠い歴史の闇の中です。ただ、戦国の世に生きた多くの人たちの最大の願いは、おそらくは泰平の世、人々が平和に豊かに、安全に、安心して暮らせる世ではなかったかと思うのです。
 その理想の実現のために、自ら第六天の魔王と名乗って破戒王となった信長、現世利益を説く既存の仏教団体以上に明確な現世利益を体現した秀吉、戦のない世の中を築くために、強大な武力と緻密な行政機構を作りあげた家康という三代が必要だったし、光秀と天海という、稀有の才覚が必要であったと考えると、いろいろな出来事の辻褄があってきます。必然的な再現性が生まれるのです。そして再現性こそが科学です。

 本能寺の変のとき、家康は、この事態が起きることをあらかじめ知らされていたのでしょうか。
それは「ない」と思います。仮に本能寺の変が、光秀の発想で、信長がそれに乗った、壮大な「やらせ」であったとして、それはあくまで秘中の秘でなければならないことです。本能寺の変の日、堺でのんびりと遊覧していた家康は、このとき小姓衆など少数の供回りを連れいるだけであったとされています。

 家康はこのとき、信長の後を追って自決しようまで思い詰めています。それを本多忠勝が生き延びるよう説得し、服部半蔵が伊賀国の山中から加太越を越えて伊勢から海路で三河国に戻る道を進言し、案内します。
 そして三河に戻った家康は、ただちに光秀を討つため兵を率いて出発するのですが、鳴海の辺りで、秀吉が光秀を討ったという報を受けて、三河に引き返しています。

 ちなみにこのときの秀吉の「大返し」について、道のりから、実際にはほとんど不可能という説もあります。陸路ではさもありなんと思います。けれど当時は、現代の鉄道と同じくらい、船便が発達していた時代です。そして船を使えば、早々に引き返すことが可能です。

 さて、信長の死は、各国に様々な影響を及ぼしました。甲斐国では、関東御取次役として事変の三ヶ月前に送り込まれていたばかりの鉄砲名人・滝川一益のもとに、小田原の北条氏直が五万六千の兵を率いて襲いかかりました。滝川一益は緒戦に勝利したものの、その後は兵の数に押されて尾張国まで敗走します。このため甲斐信濃上野が領主のいない空白地帯となりました。

 家康は武田の遺臣らを集め、八千の軍勢を率いて甲斐国に向かいます。甲府盆地で七倍以上の兵力を持つ北条氏直と対峙するのですが、このとき徳川方に付いた真田昌幸が、ありとあらゆるゲリラ戦法で北条氏を悩ませます。いい加減嫌気が指した北条氏から徳川方に和睦したいと申し出があり、北条氏が上野国を取り、徳川氏が甲斐、信濃を領有する。家康の次女の督姫が氏直に嫁ぎ、両家は同盟関係を締結する、となりました。

 かくて家康は、駿河・遠江・三河に加えて甲斐、信濃、つまり五カ国を治める大大名となり、さらに関東を治める北条氏と縁戚関係と同盟関係を持ち、たいへんな影響力を持つ存在となっていくわけです。

 このとき、徳川方の武将として大活躍した真田昌幸は、子の幸村とともに、関ケ原では西軍に付いて家康と敵対し、東軍をさんざん悩ませています。
 いつの時代も、優秀な存在であればあるほど、離合集散はごく普通にあるのです。

 さて、年表には「1582年 本能寺の変」とだけ書かれている「歴史」です。
けれど、その裏側には様々な人間関係があり、人の思いがあり、背景があり、流れがあります。
歴史を学ぶことは、ただ年号を丸暗記することではないのです。

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