渡辺崋山に、高野長英といえば、ともに江戸時代後期の蘭学者として有名です。
そしてこの二人は、ともに儒学者松崎慊堂(まつざきこうどう)の弟子でもあります。
なかでも渡辺崋山は、天保十(一八三九)年の蛮社の獄で逮捕されたとき、師匠の松崎慊堂が、老中水野忠邦あてに建白書を出し、そのおかげで死罪を免れています。
渡辺崋山にとって松崎慊堂は、師匠であるとともに、命の恩人でもあったわけです。

松崎慊堂は熊本の農家の出身で、幼名を松五郎といいます。
家が貧しく寺に預けられていましたが、勉強好きだった松五郎は、学問で身を立てようと十三歳で江戸に出ました。
江戸では浅草の寺の住職に拾われ、寛政二(一七九〇)年には設立されたばかりの、江戸湯島の昌平坂学問所(いまの東大)に入りました。
さらに江戸一番の儒学者である林述斎のもとで学んで、寛政六年には林塾で塾生のトップである塾生領袖になっています。
領袖というのは、要するにトップということですが、単に成績が良いというだけでなく、人格識見指導力などにおいても、最高の人材ということを意味します。
たいへん優秀で、かつ勉強熱心で、人柄も良い、そんな若者だったわけです。

さて松五郎が、林塾の領袖時代のことです。
ある日、考え事をしながら歩いていて、町のならず者たちにドスンとぶつかってしまいました。
そして、彼らが手にしていた酒徳利を割ってしまいました。

彼らは「ごめんなさい」と松五郎がいくら謝っても、許してくれません。
それどころか、酔ったならず者たちは、「酒代を出せ!」と大金を迫ってきます。
ところが松五郎は、書生の身ですから貧乏です。
「そんな大金はありません」としきりに謝るのだけれど、ならず者たちは、ますます激昂して脅しをかけてきます。

この様子を、すぐ近くで旅籠の飯盛り女をしていたおすみという女性がみとがめました。
そしてならず者たちに近づき、
「あんたたち、よってたかって何やってんのさ」
と間に割って入ります。

そして彼らが要求した額を、おすみはその場で全額立て替えて支払いました。
松五郎は恐縮してしまいます。
「必ずお金は返します。
 しかしいまはお金がないから、
 分割にしてください」
とおすみに申し出ました。

ところが話を聞けば、月二分の生活費でやりくりしているといいます。
いまでいったら、月三万円です。
着ているものもみすぼらしい。
その少ない生活費から払うというのだから、おすみは同情して、
「分かりました。
 では、月二分を
 私があなたに
 払ってあげましょう」
と約束してくれたのです。

それからのこと、毎月毎月、おすみから松五郎のもとにお金が届けられました。
頂いているうえに、届けてもらうのは申し訳ないからと、途中からは松五郎が自分でもらいに行きました。

月日がたったある月のこと。今月に限って松五郎が現れません。
松五郎の住む長屋に行っても不在です。
それっきり、松五郎から音沙汰がなくなりました。

おすみは、周りの女性たちから、
「バカねえ。
 あんた、騙されたのよ」
と言われてしまいます。

松五郎は日本を代表する私塾の塾生です。
おすみは宿場の飯盛り女です。
飯盛り女というのは要するに、私的売春婦です。
あまりにも身分が違うのです。

さらに何カ月かたった、ある日のことです。

おすみの住む宿屋に、立派な身なりをしたお侍さんが駕籠に乗ってやって来ました。
そして、宿屋の主人に、
「おすみさんはいますか?」
とたずねました。

呼ばれて奥から出てきたおすみは驚きました。
あのみすぼらしかった松五郎が、見違えるような立派な姿で、そこに立っているではありませんか。

松五郎は、懐から六両のお金を出しました。
「いままでお世話になりました。
 これはお借りしたお金です」
そう言って、おすみにお金を渡しました。
「ようやく塾を卒業し、
 掛川藩に教授として
 召し抱えになりました。
 これから掛川に向かいます。
 いままで本当にお世話になりました。
 ありがとうございました」

そしておすみに、こう言いました。
「あなたさえよければ、
 私の妻になってください」

その後、二人はめでたく祝言をあげました。
まるでリチャード・ギアが主演したハリウッド映画『愛と青春の旅立ち』そのもののようなストーリーですが、こちらは実話です。

ここで大事なことが二つあります。
ひとつは、掛川藩にお抱えになったばかりの松五郎が、売春婦であるおすみを妻に迎えているという点です。
もし日本人が、売春婦を卑しい職業と考えていたのなら、松五郎がおすみを妻にすることはありえません。
これから藩の若侍たちに学問を教える人物が、卑しい職業の女性を嫁にするなど、許されることではないからです。

ところが掛川藩は、松五郎の妻のことを全く問題にしていません。
それどころか藩の重要な任務となった朝鮮通信使の通訳兼交渉役にさえ、松五郎を抜擢しています。

もうひとつの大事なことは、おすみが宿屋の売春婦でありながら、松五郎に仕送りしたり、ならず者にからまれてカツアゲされたときに、そのお金を代払いしている点です。
戦後の時代劇などで、売春婦たちは子供の頃に女衒(ぜげん)によって連れてこられ、売春宿の主人に借金漬けにされ、年季があけるまで無理やり働かされたという設定がなされています。
要するに、そういうのは全部噓っぱちだ、ということです。

女衒に買われてきたのは事実です。
仕事ですから、つらいこともあったでしょう。
けれど経済的には、彼女たちは実に豊かでした。

当時の売春婦というのは、十七歳から二十七歳くらいまでしか働かせてもらえません。
それ以降は、それまでに貯めたお金で、自分で小さなお店を開いたりしました。
売春婦たちには、それくらいの稼ぎと経済的余裕が、実はあったのです

お店に買われてきたのは六〜七歳のときです。
店に出るまでの10年は、お店がその娘に徹底した教育を施しました。
和裁、着付け、三味線に小唄に長唄、読み書きそろばん、日本舞踊、太鼓、琴、小料理など、女性が生きるのに必要なあらゆる分野の教育が行われました。
幼い頃から雇い入れ、申し訳ないけれど商売に使わせていただく。
その代わりに、彼女たちが一生食うに困らないだけの貯えと、教養と技能を、しっかりと身につけさせようというのが日本の風俗の伝統であったのです。
そのために、店に出るまでの10年間、店のお金で徹底した教育が施されたのです。

商売以上に、人を大事にする。
それが、私たちの日本です。
これを可能にしたのは、権力者の上位に、天皇というありがたい存在です。
権力者は天皇の民である私たち民衆を私物化することができない。
これが日本古来の国のカタチ(構造)なのです。

その後、松五郎は、松崎慊堂(まつざきこうどう)と改名して、日本を代表する学者になりました。
その弟子が、渡辺崋山や、高野長英など、江戸後期の名だたる学者たちです。
その学者たちが、まだ学生だった頃、その子達の生活の面倒の一切をみたのが、おすみでした。
おすみは、育った学者たちから、一生を通じてまるで母のように慕われ、この世を去りました。

日本人は、どのような社会的立場にあっても、あるいはどのような職業に就いていても変わらない「人としての矜持(きょうじ)」を大切にします。
職業には貴賤があっても、その職業を行う人の魂に貴賤はない、というのが日本人の古来の思考です。

日本人はどのような職業であれ、どのような社会的立場であれ、魂を高貴なものに保つことを大切にしてきたのです。
なぜならそれが日本人にとっての矜持(きょうじ)だからです。

※この記事は2014年刊行の拙著『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人! 』第二巻に掲載したお話です。

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