治承8年(1181年)2月のことです。
いまでは神戸(こうべ)と呼ばれているかつての福原(ふくはら)の地でのこと。
人馬が越えることができない鵯越(ひよどりごえ)て進んできた源義経の一行70騎、一ノ谷にあります平家の陣営の裏手にあります崖の上から、一気に平家一門に襲い掛かります。
一方、この月のはじめに後白河法皇から源氏との和平の勧告を受けていた平家一門、戦いを避けようとして海上に浮かぶ船の上に逃れて行く。
このとき少し遅れて船に戻ろうと、海に馬で4〜5段乗り入れていた平敦盛(たいらのあつもり)、練貫(ねりふき)に鶴を刺繍(ししゅう)した直垂(ひたたれ)に、萌黄匂の鎧(よろい)に身を包み、鍬形(すきがた)に打った兜(かぶと)の緒を締めて、黄金つくりの大刀を腰に穿(は)き、切斑(きりまだら)の矢立を背負って、滋藤(じふじ)の弓を手に持つという、美しい姿です。
その様子を見つけたのが、源氏の猛将・熊谷直実(くまがいなおざね)、扇をあげて呼び止めると、
「あれは大将軍(だいしょうぐん)とこそ
見参(みまいら)せ候(そうら)へ。
卑怯にも敵に後ろを見せさせたもうものかな。
返させたまえ!」と声をあげた。
このように言われ、背中を見せるは武門の恥。
やむなく取って返した熱盛を、熊谷直実、馬の上から組み落とし、首を斬ろうと兜を上に持ちあげる。
すると。
そこにあったは、数え年16〜7歳(いまの15〜6歳)の美少年。
顔には薄化粧、歯にはお歯黒を染めている。
見れば、我が子と同じ年頃の少年です。
直実「さてはどのような御方であるか、
お名乗りくだされば、
お命、お助け参らせん」
敦盛「汝(な)は誰(たれ)そ」
直実「物の数に入るような者ではありませぬが、
武蔵の国の住人で、
名を熊谷次郎直実と申す者。」
敦盛「ならば、汝(な)には名乗るまい。
汝がためには良い敵です。
名乗らずとも首をとって人に問え。
きっと私を見知る者がいるであろう。」
これを聞いた熊谷直実、
(さてもさすがは大将軍。
いまこの子を討ち取るも、
すでに勝敗あきらかなり。
いまさら源氏が負けるというものでもない。
我が子・小次郎が軽症を負ってもつらく思うのに、
この殿の父が、
我が子討(う)たれたと聞いたなら
どれほどお嘆きなることか。
ええい、ここはお命、お助け参らそう。」
そのように思って後ろを振り返ると、土肥、梶原らが50騎ほどでやってくる。
直実、こみあげる涙を抑えると、
「貴公をお助けしたいと存ずるが、
我軍、雲霞の如く続いています。
もはや逃げるはかなわぬこと。
人の手にかけられるよりは、
我が手におかけ申して、
後のご供養をいたしましょう」
敦盛「ただ疾(と)く疾く、首を取りまいらせよ。」
日頃豪勇を持って鳴るさしもの熊谷直実も、その言葉あまりにいとしく、もはやどこに刃を立ててよいかもわからない。
それほどまでに前後不覚になってしまったけれど、さりとてそのままでいるわけにもいきません。
やむなく、泣く泣く首を斬って落とします。
「ああ・・・、
弓矢を取る身ほど嫌なものはない。
武家に生まれなければ、
このように辛(つら)い目に遭うこともなかったろうに。
情けなくもお討ち申したものだ」
と、このように繰り返しながら、袖に顔を押し当てて、さめざめと泣いてしまいます。
すこし経って直実が、鎧直垂(よろいひたたれ)を取って首を包もうとすると、錦の袋に包んだ笛が、腰に挿してありました。
「いとしいことです。
先だっての明け方に城の内で管弦されていたのは、
この人たちであったのでしょう。
いま、味方に東国の武者が何万騎あろうとも
戦陣に笛を持ち込む人はよもやあるまい。
貴公子は、なおもおやさしい。」
そう言って首を義経に見せたところ、その場にいた誰もが涙を流したといいます。
あとに聞けばその首は、平修理太夫経盛の子の太夫敦盛(あつもり)17歳とわかりました。
くだんの笛は、笛の名手であった祖父の平忠盛が、鳥羽院から御拝領の笛で。
経盛が受け継いだものを、敦盛が才能があるということで、お持ちになっていたという。
その笛の名が「小枝(こえだ)」。
これより後、熊谷直実の出家への思いはつのり、剛勇で知られた直実は、法然上人もとで出家して蓮生(れんしょう)と号して、幾つもの寺を立てて行きました。
冒頭の写真は、寒椿です。
寒い冬に鮮やかな紅い花を咲かせる寒椿は、室町後期に書かれたとされる『平家花揃』で、平敦盛(たいらのあつもり)に例えらました。
花言葉は、『謙譲』そして『愛らしさ』です。
なみいる源氏の武将たちといえば、豪勇無双な武士(もののふ)どもと思われがちです。
けれど我が国の武人は、ひとえに情を知る者たちでもあったのです。
なぜなら武人といえども、高い教養を持っていた。
それこそ日本の原風景です。
千葉県の龍ケ崎市にある北辰一刀流の道場に「剣胆琴心」という額が掛かっています。
常に剣を肝(きも)に起き、同時に心には美しい琴の音色を持する。それが武人の心得だ、という意味の言葉です。
豪勇無双な武士(もののふ)として知られる我が国の武人ですが、彼らは、ひとえに情を知る者たちでもありました。
大陸や半島では、武人と軍や警察とヤクザと暴徒は、皆、同じものです。
けれども日本の武人は、高い教養を持ち、どこまでも「おほみたから」のために命の限り尽くす、そういう存在でした。
それが日本の国柄です。
トップの写真は寒椿(かんつばき)です。
寒い冬に鮮やかな紅い花を咲かせる寒椿は、室町後期に書かれたとされる『平家花揃』で、平敦盛(たいらのあつもり)に例えらた花でした。
『平家物語』から、敦盛の段、続きはまたの機会といたします。
※この記事は2018年1月のねずブロ記事のリニューアルです。
【剣胆琴心】
日本人としての
心の在り方・持ち方
先人に学べます。