足利義満が明国皇帝から「日本国王」の称号をもらうよう運動を始めたのが応永7年(1400年)です。
これにより日本には、旧来の天皇を中心とする天下と、明国から任じられた日本国王を中心とする経済大国であるという、異なる二つの価値観が生まれ、それが価値観の混乱となって戦国時代が始まりました。
応仁の乱が起こったのが、その66年後の応仁元年(1467年)のことです。

最終的にこれを鎮め、日本がふたたび天皇を中心とする天下として、天下布武(天下に武(たける)を布(し)く)ことが、弾正家である織田信長によって明言され、その信長が天下をほぼ平定し、続く秀吉が関白に任じられたのが天正13年(1585年)です。
それは義満の時代から185年目のことです。

信長の天下統一は、当時にあっては「弾正家が立ち上がった」というものといえます。
戦国大名たちの、自国経済優先、そのためには戦いも辞さずという時代下にあって、多くの庶民が、武者となって信長のもとに馳せ参じて信長の軍団に参加し、また信長とともに戦う道を選んだのです。
これは、多くの庶民の中に、古くからある日本的価値観を取り戻すべきという明確な意思が生まれていたからです。

これはそう解釈するしかないのです。
なぜなら、信長の軍団に入っても、武者たちは土地を与えられるわけでもなく、ただ「兵」として戦わされるだけなのです。
特別な贅沢ができるわけでもない。
特別たくさんの賃金がもらえるわけでもない。

もちろん働き口を求めてという人も中にはいたでしょうけれど、当時にあって土地をもらえない(耕作地を与えられない)にも関わらず、そこに多くの人材が集まり、大軍団が構築されたということは、そこに
「個人の損得を超えた何か」
がなければ、そのようなことは起こり得ないのです。

長く続く戦乱の世を終わらせたい。
平和な国にしていきたい。
そのために自己の命を犠牲にしてでも、
歴史の中の一員として、自己の最大を尽くしたい。
そう思う人達が、信長の軍団に、自ら手弁当で参加した、そうした人たちが圧倒的多数になった、そういうことでもなければ、信長の軍団が大軍を常時構成し続けることができないのです。

そもそもこの時代、土地を持たず、耕作期に縛られずに、一年中戦うことができる軍団を持つことができたのは、信長だけです。
信長は、チャイナやロシアのように、村に兵がやってきて、無理やり若者を兵として拉致するようなことなどしていません。

また、信長のもとに諸国から陸続と武者が集またことを、
単に腕自慢の乱暴者たちが集っただけだとか、
諸国で食いっぱぐれた盗賊団のような浪人者(乱暴者)たちが集まっただけ
などと解釈することは無理があります。
志を持つ若者が集ったのです。
だから信長の軍団は強かったと解釈する他ないのです。

ここがポイントです。
我が国の歴史は、庶民によって築かれてきたのです。
この視点を忘れてはいけないのです。

信長による天下統一の事業は、信長の野心によって、無理やり村から兵を集めてきて、戦(いくさ)に狩り出すというものではありません。
むしろ事実は逆で、
・戦国乱世を終わらせるために自分もなにか貢献したいと思う教養ある若者達が全国に現れはじめ、
・そういう若者たちを支援する大人たちがいて、
・その若者たちが世を正すべき弾正(弾正というのは、宮中にあって不条理を正す役割を与えられた官職)が立ち上がったことを好感して信長の元に集った。
・だから信長の軍団は肥大化し、強力な天下布武が実現されるに至った、
と、このように歴史を解釈するしかないのです。

日本には、上に立つ人が勝手な采配をふるって、世の中を変えるという慣習がありません。
チャイナや欧米は逆で、上に立つ人が、強大な武力や財力を背景に、自己の権力や財力を背景に、無理やり世の中に仕掛けを行って、時代を前にすすめるということが、歴史を通じて行われてきました。
ただ、この場合、上から命令されたことを、下の人たちが(多くの場合)自己の意に反して実施しますから、仕事が粗い。
ですから、手口が見え見えだし、個々の仕事が乱暴で、そこいらじゅうに穴が空きます。

これに対し、庶民の側が中心になって、自らの思いを実現しようと馳せ参じる我が国は、ひとりひとりが完璧な仕事をしようと努力しますから、いきおい個々の仕事が丁寧に行われます。
そうして丁寧に行われた仕事の集大成が、世を動かす力となる。

これは、
・庶民が先か
・権力者が先か
という問題です。

誰もそんなことをする気がないのに、権力者が権力にものをいわせて、無理やり時代を前にすすめる。
このやり方は、短期間に事を成就できる魅力があります。
しかし下の人達の気持ちが付いて行かないため、結局は、また新たな権力が誕生すると、それによって滅ぼされるという情況が生まれます。
世界の王朝の多くが、まさにこの形です。
「多く」というより、「全て」と言い換えたほうが良いかも知れない。

日本は違います。
まずは庶民の気根が整うこと。
ことを前に進ませるためには、とにもかくにも大勢の庶民の中に共通の問題意識が育たなければなりません。
これにはものすごく時間がかかります。
けれども多くの庶民がひとつの方向に目覚めたとき、
そこから生まれる未来は、まさに
「庶民のための未来」
となります。
これが日本の歴史と世界の歴史の違いです。

こういう話をしますと、すぐに「いや、フランス革命は庶民の革命だった」などと言い出す人がいます。
けれど実際にはフランス革命は、
 ルイ16世に替わって政権を取りたい貴族と、
 米国の独立戦争をフランス王朝が支援することで、結果として北米を失うことになった英国が
 米独立戦争で財力が疲弊したフランス王室を倒すという意図的な工作のもとに
パリ市民が扇動されたのです。
扇動された市民に武器を渡せば、それは必ず暴徒化します。
その武器は、無料(ただ)ではないのです。

結果フランス革命は、パリ市民の、みずからの考えではなく、ほかから与えられ、扇動された革命だったから、王を倒したあとに殺し合いが起こっています。
断頭台に消えた命は、65万人です。
この数は、当時のパリの推定人口は55万人弱です。
そう考えると、65万人という数字がどれだけ恐ろしいものか、理解できようかと思います。
よそから与えられた革命が、どれだけ大きな社会的混乱を生むのか、我々は再確認する必要があるのです。

さて、義満から秀吉までが185年と書きました。
黒船がやってきて、日本が欧風化をすすめることになったきっかけとなるパリ万博への参加と、開国派の堀田正睦(まさよし)の老中就任が安政元年(1855年)のことです。
それから180年後なら、2035年です。

日本は確実に変わっていくし、変わり続けていくものと思います。
そしてその変わる方向が、単に一部の権力者や金持ちにとって都合が良いだけの、西洋やチャイナのような歴史にするのか、それとも、庶民が主役となって、庶民の、庶民のための、庶民の国を築くのか。
後者の庶民の国を築きたいなら、庶民が目覚め、庶民が誇りを持ち、庶民が理性で論理的に考え、行動できる国になっていかなければなりません。

日本の未来を築くのは私達、いまを生きる日本人です。
その未来を、より良い未来にしたいのなら、私達自身が、より良い未来のために、建設的な意思を持つ必要があります。
誰かがやってくれるのを待つとかいった他力本願ではなく、私達自身が歴史の当事者として目覚めていく。
そこに、私達庶民のための未来が拓けるのです。

※この記事は2023年1月のねずブロ記事の再掲です。

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