天保年間というのは、その前の時代が文化文政時代で、これは世にいう「化政時代」、元禄が上方(関西)文化が花開いた時代なら、化政時代はまさに江戸庶民文化が花が咲いた時代です。

天才歌舞伎役者の7代目市川団十郎が、市川家の名を不動のものにした時代であり、絵画では、フルカラーの印刷技術が確立し、版画を用いて作られた当時の新聞(かわら版)がフルカラーとなり、東海道五十三次の安藤広重や、歌麿、北斎が活躍したのもこの時代、本居宣長が古事記全巻の通釈本を出し、杉田玄白らが解体新書を出版し、十返舎一九が東海道中膝栗毛を書いたというのも、この時代です。

だいたい江戸中期を描いた映画作品などが舞台にしているのも、まさにこの時代といった方がイメージをつかみやすいかもしれません。

それだけ江戸庶民文化が華やいだ背景には、第11代将軍徳川家斉がわりと派手好きで、江戸の貨幣経済をおおいに発展させた、という背景があります。
ところがこのことが、同時に大きな問題を起こしたのも、化政時代であったわけです。

どういうことかというと、もともと徳川幕府というのは、税を米で収めさせたり、武士の給料(俸禄)を米で支払ったりと、物を買うことよりも、人が食うことを国の中心・柱とした政治体制です。
だから贅沢よりも質素を好み、道徳規範を大切にして、みんなが食えるための共同体としての統治を国政の中心に据える社会を築きました。

そこに徳川家斉という、貨幣経済大好き、贅沢大好きという将軍が登場したのです。
しかもまる50年、統治者となりました。
家斉という人は、たいへんな円福家でした。
なんと側室40人、できた子供が男28人、女子27人と、都合55人もの子を儲け、あまりに夜な夜な励むので、松平定信から、
「あまりに回数がすぎるとお体にさわりますぞ」
と注意をされるほどだったといいます。
ある意味、たいしたものです。

女性好みの激しい統治者の世というのは、贅沢を好むようになりがちです。
そして政府がお金をたくさん使うようになると、民間にお金がまわるようになります。
つまり大都市の住民は、貨幣経済の進展によって、好景気を満喫し、庶民文化が花開くわけです。

ところがこのことは、農村部を著しく疲弊させます。
なぜなら農家は、農作物を育てた分の、決まった収入しかありません。
他方、都会人は、こうして全国で生産さえれた米を動かすだけで、大金が転がり込んでくる。
貨幣経済は、一次二次産業より、三次四次産業を発展させるわけです。

一次二次産業と三次四次産業の違いは、アップルパイを作る人と、できあがったアップルパイを奪い合う人にたとえることができます。
経済が「生産や製造」から、「財貨の奪い合い」に移行すると、たまたまアップルパイをたくさん得ることができた人が、極端なお金持ちになっていきます。
すると相対的に生産者や製造者は貧しくなります。
つまり格差社会が形成されます。

都市部の金持ちだけがいい生活ができて、人の世で一番大切な食(農業)の生産者の生活が圧迫される。
日本の八百万の神々は、こういうことがお嫌いなようで、経済がそのような状況になると、古来、天罰が下ります。
それが文政4(1821)年3月の蔵王山の大噴火でした。

この噴火はものすごい大噴火で、噴煙が全国に広がり、これが冷夏を招き、農作物が大凶作となりました。
さらに文政7(1824)年には、大洪水、翌文政8年にはふたたび大凶作に見舞われます。
この年、もっとも経済が華やかなはずの大阪でさえ、約5000人の餓死者が出ました。
翌天保9年には仙台藩で大飢饉が起こって約20万人が死ぬという悲惨な出来事が起きています。

文化文政時代最後の年、文政13(1830)年には、再び蔵王山が大噴火しました。
噴煙が日本の空を覆い、貨幣経済によって疲弊した農村部では、肝心の農作物そのものが採れなくなりました。
村々は大凶作にみまわれました。
そして全国的な大飢饉が起きました。

こうした凶作は、寒冷地である東北地方では特に大きな打撃となります。
そもそも米は熱帯性植物で冷害に弱いということに加えて、平野部が少ないから、生産高自体が少ない。
しかも東日本は年一期作です。収穫が年一度しかない。(西日本は二期作)

宮城県にある白石藩といえば、もともと仙台藩伊達氏の家臣の片倉氏が代々藩主を務めた名門です。
ここでは度重なる飢饉から人々を救うために、藩のお蔵にあるお米を供出し、新田として開墾できる平野部も、ことごとく開墾して、必死で農産物を増やして、藩の人々の食と生命を守ろうと努力していました。
ところが相次ぐ凶作、相次ぐ飢饉で、もう藩の金庫は空っぽ。なんにもない。
それでも、藩内の人々の命を守るためには、なんとしても、あと一歩、食糧生産高を上げなければならない。
そしてこの時点で、白石藩に、新田開発場所として藩内に残された場所は、蔵本村周辺の一か所だけでした。

蔵本村あたり一体は、農地に適した平野部です。
ところが水路がないのです。
巨大な岩盤が邪魔して、水を運んでくれない。
水がなければ稲は育ちません。
けれど、水さえひければ、そこは広大な農地になります。

そこで白石藩では、白石川の上流から蔵本まで水路をひくことで、なんとか蔵本村一体を農地にしたいのですが、困ったことに、蔵本村は、いまでいうゼロメートル地帯です。
大雨が降って水かさが増すと、堰が切れて地面に水が噴出するのです。
すると農作物が全部やられてしまう。
堰(せき)の修繕費も藩の財政を圧迫するし、農作物の被害は、住民の生活を圧迫する。
まさに二重苦だったのです。

残る方法はただひとつ。
蔵本村にたちはだかる巨大な岩盤に穴をあけ、そこに水を通すことです。
穴は、ふさげば、水量の調節ができる。
そうすれば、広大な農地を守ることができます。
農地が広大な分、農作物の取れ高があがり、庶民を飢えから救えます。
堤防修繕という余計な出費も免れることができます。

なんとか岩盤に穴をうがって、水を通すことはできないものか。
けれどそれには莫大な藩費の出費と、相当な年月がかかります。
当時は穴掘り、岩盤堀りは、全部手作業の時代だったからです。

藩のフトコロは、これまでの飢饉対策で、もはや空っぽです。鼻血も出ない。
完成した水路の受益者となるべき蔵本村側も、米は作れぬ、仕事はないで、岩盤くりぬき工事ができるような余裕はどこにもありません。
まさに、藩も、村も、身動きがつかない、出口の見えない苦境に陥っていたのです。

そんな中で、第十代藩主の片倉小十郎宗景が、かねてより蔵本村の岩盤に穴をうがつという案を藩に提案していた片平観平を城に呼びました。

藩の窮乏を救うために、なんとかして蔵本村の新田を守り開拓しなければなりません。
そのためには、片平観平の岩盤に穴を開けて水を通すという案しか、もはや手立てはない。
けれども、相次ぐ飢饉対策で、もはや藩には財政上の余力がない。
どのようにしたら良いか。
殿は、そう正直に片平観平にご下問しました。

このとき観平が、なんと答えたか。
それが、
「私が行いますれば」
です。
全工事を私費で行うと殿に返答したのです。

無茶な話です。
いまで言ったら、何十億円に相当する工事を、サラリーマンの、しかも貧乏な侍が、私費で行うというのです。
無茶な話です。
けれど、なんとかしなければならない。
ほかに藩を救う手立てはない。
目の前にいる大事な、そして優秀な武士がひとり、ただ腹を斬るだけでなく、一族郎党を路頭に迷わせてまでも、その工事をやってのけると宣言しているのです。
藩主、片倉宗景は、涙をのんで、観平に許可を与えました。

工事は、ひとりではできません。
片平観平は村々をまわり、人々を集め、岩盤をくりぬくトンネル工事の必要性を訴えました。
膝をつめて説得にあたりました。

村人たちも、納得してくれました。
なにより片平様が、ちゃんと給金を出してくれるという。
飢えて死ぬのを待つのではなく、末代までみんなが豊かな生活ができるように、力をあわせるのです。
そりゃあ、うれしいことです。

けれど、神々は観平に試練を与えました。
工事を素直に完成させてくれなかったのです。
岩盤を掘削し、ある程度トンネルを掘り進むと、その都度大水を起こって川が氾濫し、せっかく掘ったトンネルを、落盤と土砂で埋めてしまうのです。

掘っては、大水で埋められる。
また掘っては大水で埋められる。
工事は、この繰り返しとなりました。
そしてなんと、十年の歳月を要する大工事になってしまったのです。

工事費用は全額片平観平の自費です。
彼は一文無しになりました。
ご先祖伝来の書物から骨董品、刀剣類から、最後は衣類までも売り払い、それでも資金が足りなくて借金に借金を重ねました。
それでも彼は、穴掘りに働く人々への給料を、一度も溜めたことはありませんでした。

ようやくトンネルが開通しようというところまで工事が進んだ、ある日のことです。
前日になって、暴風雨が白石藩を襲いました。

観平はトンネルが崩れ、工事が遅れてしまうことを心配して、大雨の中を、トンネルの様子を見に行きました。
暴風雨で、ずぶぬれになりながら、祈るような気持ちで、今度だけは、今日だけは、トンネルを守ってほしい、あと少しで完成なのだ。そうしたら、多くの人が助かるのだ。この世に神がおわすなら、どうか、どうか、このトンネルを守ってほしいと祈りました。

激しい雨の中、濁流のそばで、そう祈り続ける観平に、一緒に働く仲間たちが、風邪をひきますぞ。あなたがいなくなっては、工事は完成しなくなるのです、と彼を家に帰しました。
心配で心配で、一睡もできなかった観平は、翌朝、雨が上がり、雲間が切れて太陽の光が射す中、再び現場を見に行きました。

すると、なんということでしょう。
まだつながっていないはずの切通しに、満々と水が流れているではありませんか。
前夜の暴風雨で勢いを増した水が、
それまで観平たちを困らせ続けた濁流が、
逆にトンネルの最後の行程に穴をうがち、貫通させ、
トンネルを開通させてくれていたのです。

この光景を目た観平は、呆然と水の流れる様子を見つめていました。
その目には、滂沱の涙があふれました。

こうして俵縁から松ヶ淵まで、約250間(約450メートル)の、蔵本大堰切通しが完成しました。
観平のこうした努力に、藩主の片倉宗景は、藩費のなかから、莫大な報奨金を観平に与えました。
けれどその報奨金を、観平はまるごと愛宕山の水源地を守るための数万本の植林の費用に遣ってしまいます。

こうして蔵本村は、水害を心配することなく、莫大な米の生産を可能にし、以降の白石藩の人々の生活を助けてくれました。

観平は、全財産を使い果たし、殿からいただいた報奨金さえも植林に捧げ、何もかも遣い果たして、70歳でこの世を去りました。
彼は、儲けどころか、全財産を失っても、人々のために生涯を捧げるという道を選びました。

片平観平の生涯は、経済人としては、まるでダメ男といえるかもしれません。
けれど、古来日本人は、公のために生きるということを、もっとも大切なこととしてきました。
そしてそういう人には、天はかならず大きな試練を与えました。
それでも最後までやり抜く。

「天の将に大任を是の人に降さんとするや、
 必ず先づ其の心志を苦しめ、
 その筋骨を労し、
 その体膚を餓やし、
 その身を空乏し、
 行ひ其の為すところに払乱せしむ。
 心を動かし、性を忍び、
 その能はざる所を曾益せしむる所以なり」

孟子の言葉です。
実は同じことが、日本書紀の神武天皇記にも書かれています。
神武天皇は、国が荒れ人口さえも減少したときに、稲作の普及のために日向(宮崎)を兄たちとともに出発されるのですが、畿内で敵に襲われ、兄たち全員がお亡くなりになり、持っていた備蓄食料もすべて海に流され、部下たちは病に倒れます。
しかし、そのときに、天の神は神武天皇に、叢雲の剣を授け、八咫烏を派遣するのです。

天が大任を与えようとするときには、強烈な試練を与えます。
試練に負けず、めげず、怖(お)じず、そして逃げずに、たゆまず雄々しく前に進もうとするとき、はじめて天はその人に任を与える。
逆に言えば、いまとってもつらいことであっても、途中でめげたら次はない、ということです。
名もない民草(たみくさ)であったとしても、どこまでも、いつまでも正しい心で前に向かって歩み続ける。
それが日本人の日本人的生き方です。

片平観平が、トンネルを完成させたのは、天保11(1840)年のことです。
いまから180年以上も昔です。
それでも、彼は、いまも水路とともに、人々の心の中に生き続けています。

この記事は2011年1月のねずブロ記事のリニューアルです。

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