「一隅を照らす」という言葉があります。

伝教大師が桓武天皇に宛てて記した「山家学生式(さんげがくしょうしき)」にある言葉で、そこには

「径寸十枚、是れ国宝にあらず。
 一隅を照らす、
 是れ即ち国宝なり」

と書かれています。
意味は、
 直径3センチもある宝石十個(金銀財宝)が国の宝なのではない。
 世の中の一隅で暮らす人々が、その場所で精一杯努力して光りを放つこと。
 それこそが国の宝である。
といった意味になります。

よく講義などで、
「ねずさんの話を聞いて感動したけれど、
 自分でどうしたら良いのか、
 何をしたら良いのかわからない」
といったご質問をいただきます。

答えは、「一隅を照らす」です。

何か大きなことをするとか、世直しをするとか、そんな大きなことではないのです。
それはあくまで結果であって、我々が日々すべきことは、その日その日に自分なりにできる一隅を照らすことです。

人間誰しも、すごい人なんて思っていません。
いわゆる成功した人であっても、本人は迷いや悩みや試練の連続であって、そのなかで毎日、四苦八苦して日々を送っているものです。
それがたまたま、結果だけ見れば、経済的成功であったり、名声であったりするけれど、世の中は上を見ればきりがないのです。どんな人でも、いま自分がいる位置から、まだまだこれから、今日もこれから、と思っているものです。

もちろん、世の中は広いですから、なかには「俺はすごい奴だ」なんて鼻高々になり、謙虚さを失っているような人もあるかもしれません。
はっきりいって、そういう人とはあまりお友達になりたくない(笑)

人生を成功させた歴史上の人物として、徳川家康があります。
家康が築いた個人資産は、今のお金に換算して、およそ800兆円にのぼるのだそうです。
ビル・ゲイツの個人資産が8兆円と言われていますから、家康のすごさがわかろうというものです。

けれどその家康は、自分の人生のことを、
「重き荷を背負って、坂道を登るがごとし」
と述べています。
平坦な道ではないのです。
デコボコで、しかも急な坂道です。
それを、毎日、一歩一歩、愚痴を言わず、文句を言わず、ただひたすら登り続けただけだと言っているのです。

我々にできること、すべきことも同じだと思います。
私達は太陽ではないのですから、あまねくすべてを照らすなんてことはできません。
身の回りで、自分にできる一隅を照らす。

太陽は、毎日欠かさず昇ってくれます。
それと同じように、私達もまた、毎日、ほんのすこしで良いから、より良く生きようと努力し、一隅を照らす。

それは、何か特別なことをするということではなくて、お仕事をしておいでの方であれば、その仕事を通じて、主婦であれば、主婦としての仕事を通じて、学生であれば、日々の勉強や運動の中で、なにかひとつでも毎日、どこか一隅を照らすように努力する。

その積み重ねだと思うのです。
ひとりに照らせる量なんて、しれてます。
けれど、そんな一隅を照らす人が、5人になり、10人になり、百人、万人、億になれば国が変わります。
80億になれば世界が変わります。

気の短い方は、「そんなに待っていられねえよ。いますぐ動くんだよ」とおっしゃいます。
「立ち上がれ!」とおっしゃいます。
けれど、どんなに正しい決断であっても、衆愚であっては、ろくな結果にならないことは歴史が証明しています。

代表例がフランス革命です。
世界は、民衆制→寡頭制→独裁制→民衆制と、歴史を繰り返してきました。
しかし結果は、常に欲の奪い合い、殺し合いにしかなりませんでした。

いまも、同じ歴史が繰り返されています。

根本がずれているのです。
そこに「世の中の一隅で暮らす人々が、その場所で精一杯努力して光りを放つことが国の宝なのだ」という概念がないのです。

子や孫のために、より良い世界を築きたい。
ならば、いま必要なことは、一隅を照らすこと。
そんな仲間を増やしていくことです。

現状を憂い、現在ある不条理に積極的に戦うことを否定しているのではありません。
両方必要だということを申し上げています。

現状否定、不条理への戦い。それは必要なことです。
ただし、それだけでは片手落ちだと思うのです。
どのような未来を築きたいのか、どういう未来にしたいのかという、ポジティブで具体的な方向性が定まらなければ、ただの不平不満になってしまうということなのです。

現代の日本(日本だけでなく世界で同時に起きていることですが)、強大な資本を背景に、いわば世界的文化大革命が進行中であると言われています。
ごく一握りの人たちが、まさに世界を牛耳ろうとしているわけです。
日本も、それに取り込まれています。
あるいは日本の歴史伝統文化を否定するという活動も、本格的に行われています。
そうしたものに対して、怒りを感じ、怒り、「違う!」と声を上げることは大切です。

けれど、それだけではダメなのです。
どのような未来を築きたいのか、我々が求める未来とは、どのような未来であるのか。
彼らは彼らなりに、その青写真を持って粛々と行動しています。
しかも、強大な資本をバックにしている。
資本というのは、財力のことであり、財力資力は、そのまま権力です。
つまり、日本を壊そうとする人たちは、権力を持っています。

これに対して戦いを挑もうとするとき、最大の障害となるものは何でしょう。
それは、民度の低下です。

古代エジプトにおいて、奴隷たちは何百年も、奴隷のままの状態でした。
モーゼが立ち上がって、奴隷たちを開放し、エジプトから連れ出しましたが、その後の彼らの旅が苦難の連続となったことは、皆様御存知の通りです。

奴隷が奴隷のままでは、実は立ち上がれないし、たとえ英雄が現れたとしても、その後に苦難の道が待っていることを私達は歴史から学ぶことができます。

では、500年続いた欧米列強の植民地支配から、どうして東南アジアの諸国は、立ち上がり、植民地支配から脱却し、独立することができたのでしょう。
それは、日本軍よる教育があったからです。
日本人が、彼らの独立後の姿を明確にしてみせ、彼らに教育を施したからです。

このとき、日本軍の教育によって、国民全員の民度が上がったわけではありません。
けれども、立ち上がろうと決意し、その決意を持った人たちが、幾万と生まれたからこそ、彼らは戦い、独立を手に入れることができました。
そして彼らは、近代的国家としての独立を手に入れることができました。

結局の所、人間は、社会も個人も、「頭の中にある未来しか築けない」のです。
不平不満からの対立と闘争だけなら、フランス革命です。
その後何年もの間、殺し合いが続くことになりました。

欧米に追いつき追い越せという、お手本を持った日本は、高い民度、高いレベルの教育によって、世界の大国の仲間入りをすることができました。
そしてその教育も、それ以前に、江戸時代の高い民度があったからこそ、実現できたことを、私達は歴史から学ぶことができます。

つまり、高い民度があり、「誰もが豊かに安全に安心して暮らせる未来」を、多くの人々が希求する、それが常識化することが、実は最も安全に、そして確実に未来を変える力となるのです。
しかも幸いなことに、このことには、莫大な資力も、権力も必要ありません。
正しいことをする、神々の御心に適ったことをする、陛下がお嘆きにならないよう努力を重ねる。

そういう基本的な活動の上に、高い民度が育成され、それが時代を良い方向に変えるエネルギーになります。

おそらくいまの日本において、あるいは百年後の日本において、国内で武力革命を願う人は、きわめて少ないものと思います。
もっと人々が安心して、安全に、そしてよろこびを持って、より良い国にしていくこと。
そういうことこそが、多くの人々に望まれているのだと思います。

ならば、いまこの瞬間においても、人々が安心して、安全に、そしてよろこびを持って、より良い国にしていくことができるように、行動し、発信していく。
それが、中今(なかいま)に生きる、ということです。

理想的未来を描いて、世界革命を起こそうとしたのが共産主義です。
けれど、それが失敗に終わったことは、皆様御存知の通りです。
未来に、ユートピアなんてないのです。
いつだって、人々は苦悩し、苦労し、泥まみれになって悩みながら、苦しみながら世をすごすのです。
なぜなら、人の世は、そのための魂の修行の場だからです。

けれど、全体としてみたとき、平和で、豊かで、戦争もなく、真面目にコツコツと働けば、誰もが必ず一定の生活水準を保つことができる。それに、そこそこその自由が与えられている。
そういう時代、そういう国こそ、理想国家であると思います。

その意味では、現代日本は、まさに理想国家に近いカタチになっているということができます。
ただ、このままでは、崩壊が見えている。
なぜなら、日本人としての道徳観が失われ、価値観も失われようとしているからです。
ならば、あらためていま、日本の本来の底力となっている、日本の歴史伝統文化の中にある日本の道徳観、価値観を再確認し、再発見し、それを常識化していく。

これは、具体的にそれをやっている人があるなら、その人に付けば良いことです。
けれど、誰もやっていないなら、自分でやる。
自分たちでやる。
そこで学んだ人たちそれぞれが、一隅を照らすべく、それぞれの置かれたポジションで頑張る。

豊かな未来、安心して暮らせる子供達の未来は、その延長線上にのみ存在します。
だからこそ、

 一隅を照らす

日々是新(ひびこれあらた)に、照らし続けるのです。

なぜ、そのようなことをするのか。
それは、ひとりひとりの力は、小さいけれど無力ではないからです。
ひとりひとりが小さな力で一隅を照らす。
ひとつひとつの明かりは小さくても、それが何千、何万と集まれば、巨大な光源になるのです。

悪について、古事記に面白い記述があります。
天照大御神が天の石屋戸にお隠れになられると、

「さばえなすみち よろずのあやし ことごとにはつ」
 原文(狭蝿那須満、万妖悉発)

現代語に訳したら「一匹いるだけでもうるさい蝿が、狭いところにたくさん飛んでいるかのような騒々しさの中で、様々な怪しい出来事が、これでもかというほど起きた」と書かれているわけです。
ところが、天照大御神が岩戸からお出ましになられると、そうした「あやし」は、一瞬にして霧散してしまいます。

このことが示していることは、いわゆる悪事というものは、見えないところでうごめくものだ、ということです。
コオロギだの種子だの迷惑駐車だのといったことは、誰が仕掛けているのかわからないようにやっているかわからないし、本当のことがわからないままだから、暗闇の中で仕掛けが動いているわけです。

ところが人々の光が集まると、それは強い光となります。
そして光の前には、そのような悪は霧散するのです。

このことが顕著になるのが2024年から2025年です。
今年、世界は、人々の一隅を照らす力によって、激変するのです。

※この記事は2022年1月のねずブロ記事のリニューアルです。

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