トップの画像は7世紀に造られた日本最古のダムによってできたダム湖(狭山池・大阪府)です。
さて、文字や文章の形態の変更は、歴史と文化を喪失させる働きをします。
チャイナもまた、中国共産党によって簡体字が普及させられて、古い文化を失っています。
コリアも同じで、漢字文化だったものが、ハングルのみを使用するようになることで、歴史と文化(果たしてそういうものが過去にあったといえるのかどうか議論は別として、過去を失なっています。
東南アジアの多くの国々もまた、英語表記となることで、自国の文字が失われようとしています。
日本もまた、明治以降二度にわたる文字と文章の喪失が行われました。
日本語の表記は、何千年という歳月をかけて形成されてきた文化です。
ところが日本は、実は三度にわたる文字文化の変更が行われています。
ひとつは、明治期のものです。
いわゆる武家文化としての候文(そうろうぶん)が廃止となり、また手書き筆文字から活字に変わることで江戸時代の文化が失われていきました。
これは、徳川時代にあったすべてを否定しようとした明治政府の意向であったともいわれていますし、仮にそこまで行かなかったとしても、西洋かぶれによる文化変更がかなり露骨に行われたのも事実です。
もうひとつは戦後です。
GHQは、日本語の漢字表記を簡略化させるという方針を打ち出し(これを言い出したのは戦前の共産主義系の学者たちですが)、これによって「当用漢字」が生まれました。
「当用漢字」というのは、「当面用いる漢字」のことで、では当面用いたあとはどうするのかというと、当初の計画では、日本語を全文ローマ字化し、その後、日本語を廃止して公用語を英語にしてしまうというものでした。
これによって、たとえば「聯合艦隊」は「連合艦隊」と表記されるようになりました。
また文章のスタイルも、文語調から、口語体に変化させられました。
少し詳しく言うと、「連」は「シンニュウ」に「車」で、シンニュウは「辵(ちゃく)」という「走る」という漢字がもとになっています。
つまり「車」が「走る」さまをもって、連続している姿をあらわし、つらなるという意味に使われます。
幹線道路では、自動車がまさに連なって走っていますが、あのイメージです。
「聯」は「耳へん」に糸を密接に組み合わせた字です。
もともとの意味は残酷なもので、大昔のチャイナでは、戦いの際に敵の遺体の耳を切り取って糸でつなぎ、これを持っていくとその数に応じて報酬がもらえた、という歴史があります。
そこで耳が密接に糸でつながれている様子から、「聯」は、ひとつひとつが密接につながって相互に連携して活動する意味に用いられるようになった字です。
ですから、これを艦隊にあてはめると、
「連合艦隊」なら、ただ艦隊がつらなって航行しているだけの姿を現します。
「聯合艦隊」なら、すべての艦が有機的に結合し、機能的に活動する艦隊という意味になります。
日本海軍が「れんごう艦隊」を構築するにあたり、何に意図をおいたのか、まさに一目瞭然です。
礼儀作法の「礼」も同じです。
旧字は「禮」ですが、みての通りで、相手にわかるようにはっきりと豊かに示すから「禮」です。
そうとわかれば、おはようございます、こんにちは、さようなら、よろしくお願いしますといった挨拶ひとつだって、ちゃんと大きな声と、はっきりとしたお辞儀で示すことになります。
「恋」も、昔は「戀」です。
上の部分の「糸+言+糸」は、糸がもつれているさまです。
ですから「戀」は、「相手のことを思って、心が思い乱れるさま」です。
これが「恋」となると「亦+心」ですから、「亦=ひたすら」な「心」です。
簡単にいえば、ただ一途に想うのが「恋」。
好きな人のことを思って心が千路に乱れる心がが「戀」。
もっとも「亦」には、二股の「また」の意味もありますから、はたしてどこまで一途やら・・・。
学校の「学」は旧字が「學」です。
この字は、上部が複雑になっていますが、両側の記号が大人を意味し、上部真ん中の✗✗の部分が、その大人たちの腕を意味します。
その下に校舎があって、そのなかにひとりの子がいます。
つまり、複数の大人たちが、ひとリの子を立派な大人に引っ張り上げるのが「學」の意味です。
それが「学」になると、単に子が学ぶもの、といった意味になります。
教育を考えるとき、どうしたら大人たちが、子を立派な大人に育てることができるのか、という概念と、ただ、子供に「学ばせる」という概念では、その「はじめの一歩」が大きく異なります。
戦後教育は、良く言えば「子が主役」ですが、人間は大人も子供も元来なまけものなのです。
であるとすれば、戦後教育は、ただなまけものを育成するだけのものに成り下がったことになります。
権力の「権」も、昔は「權」と書きました。
「權」の中に「ロロ」がありますが、これが木の枝に停まっている猛禽類のミミズクの目です。
その下にある「隹」は「雀(すずめ)」を略したものです。
要するに、ミミズクが隙きあらば取って食べてしまおうと上からスズメたちを監視しているのが「權」の意味です。
ですから「權力」と書けば、天が人を監視する力。
「人權」ならば、人が人を監視監督する力です。
「人權」は、英語の「Right(らいと)」を翻訳した幕末の翻訳語ですが、「Right」は神の意思を示しますから、人が神の意思を代行して監督するのが人権です。
人が自由でいられるのも、神が与えた自由の範囲のものでしかないというのが「Right」であって、これに最も近い漢字としては、やはり「權」だったのだろうと思います。
ところがそうした深い意味が、「権」と書いたらすべて失われる。
意味を失うということは、人がそれだけ馬鹿に近づくということです。
みっつめの表記の変更は7世紀のものです。
かなり古いです。
それまでの日本語表記は、神代から続く神代文字によるものでした。
神代文字は一字一音一義です。
50の音がありますが、その音ごとに意味が当てられていました。
理由は簡単で、神代文字はもともと鹿骨占いで焼いた骨に入ったひび割れのパターンを示すものであったからです。
占いの結果を得るには、そのひび割れのパターン化と意味付けが必要になります。
その記号ごとに、一音が与えられ、それが長い歳月の間に、言葉の表記にも用いられるようになりました。
ところが、長い歳月というのは、さまざまなバリエーションを生みます。
いまでいうなら、流派のようなもので、もとはひとつでも、それが何百年の間にはさまざまな流派や門派となっていきます。
これと同様で、しかも何百年どころか万年の単位で伝承されたものなのですから、途上において様々な記号が考案されました。
ひび割れの形そのものを、どう理解するかにもバリエーションが生まれ、
また、ひび割れのパターンが、「/」や「「\」だけでは、意味がわからないので、その意味を説明するための記号も生まれました。
これらの記号のすべてをあわせて、神代文字といいます。
一説によれば、縄文式土器として、ただの縄目模様といわれている土器の模様も、実は文字であると言われています。
これを「結縄文字」といいますが、「結縄文字」には、本当に縄を結んだだけのものと、それを記号化した模様のようなものがあります。
『隋書倭国伝』(隋書巻 81 東夷伝倭国条)には、倭人の風俗として「無文字,唯刻木結繩」との記述がありますが、これは「文字は漢字だ」と思っている古代チャイナの人達からみて「無文字」ということであって、まったく考え方の異なる文字があったということが、そこに書かれていることになります。
縄文式土器は、土器の周囲に、紐状にした泥を巻きつけて焼くために、縄文式土器と呼ばれるのですが、その紐状のものは、さまざまな模様を描いています。
これが文字だということで、いまでは海外の古代文字研究家達の研究対象になっているのだそうです。
要するに紙に書いてあるばかりが文字ではなくて、まだ紙がなかった時代には、その文字は岩に刻んだり、土器や装身具に描いたりしていたのかもしれない。
学問するということは、そういった見方や思考の柔軟性を持つということであろうと思います。
ところが、そうした記号(文字)が、日本が歴史の古い国であるがゆえに、全国の豪族たちによって、それぞれ違う。
同じ血縁関係にあることは明白なのに、言葉も文字も違うわけです。
けれどしばらく話していると、なんとなく意味が通じる。
このことは、青森弁と沖縄弁で会話しても、はじめのうちはまったく通じないけれど、しばらくすると、互いに会話が成り立つようになることを考えれば容易に理解できることです。
ところが663年の白村江の戦い以降、唐が日本に攻め込んでくるという情報もあり、日本は外圧の前に、どうしても国をひとつにまとめる必要が生まれました。
このときに、史書の編纂をしようと詔(みことのり)されたのが天武天皇で、これを漢字を用いて記すことで、一文字ごとに、もっと深い意味をもたせようとされたのが、第41代の持統天皇です。
要するに、中央から新たな文化を発信することで、教育と文化によって日本を統一国家にしようとされたのが、まさに持統天皇であった、ということです。
これは偉大なことです。
たとえば大和言葉で「しらす」といえば、天皇が民衆をおほみたからとすることですが、これを漢字で「知(しらす)」と書けば、世間一般に知らしめる意味になるし、「治(しらす)」と書けば国家統治の根幹の意味になります。また「道(しらす)」と書けば、それが人の道であるという意味になります。
つまり大和言葉の表記に、漢字を併用することで、言葉にさらに深みを持たせることが可能になる。
これを中央からの文化発信とすることで、日本を教育と文化の香り高い国にした。
それが持統天皇であられたわけです。
過去の文化を失わせてはいけない。
ならばそうならないように史書を遺し、文化を伝承する。
そのために書かれたのが日本書紀であり、万葉集です。
このことを理解すると、破壊ではなく、常に創造を重んじた日本の文化の根幹が見えてきます。
※この記事は2020年1月のねずブロ記事のリニューアルです。