舒明天皇から天智天皇、天武天皇、持統天皇までの流れを概括してみたいと思います。

聖徳太子がお隠れになったとき、太子の死をすべての人が嘆き悲しみました。
年老いた者は我が子を失ったかのように。
若者は父母を失ったかのように、泣きむせぶ声が満ちあふれたと記録されています。

その聖徳太子の没後、再び蘇我入鹿が専横をしはじめます。
朝廷は、聖徳太子の子である山背大兄皇子に天皇になってもらおうとしますが、これを察知した蘇我入鹿は、643年、武力をもって山背大兄皇子を襲いました。
このとき、逃げ落ちるように説得する家来たちに、山背大兄皇子は、戦いによって多くの臣民の命が失われることを偲ばれて、自害して果てます。
こうして聖徳太子の子孫は絶え、蘇我氏が専横を極めるようになっていきました。

「このままではいけない」
そう思って立ち上がったのが中大兄皇子(後の天智天皇)です。
中大兄皇子の父は舒明天皇です。

舒明天皇は、我が国の理想を歌に詠みました。
それが『万葉集』にある「天皇、香具山に登りて望国くにみしたまふ時の御製歌」です。

 山常庭    やまとには
 村山有等   むらやまあれど
 取与呂布   とりよろふ
 天乃香具山  あめのかくやま
 騰立     のぼりたち
 国見乎為者  くにみをすれば
 国原波    くにはらは
 煙立龍    けぶりたちたつ
 海原波    うなばらは
 加万目立多都 かまめたちたつ
 怜忄可国曽  うしくにそ
 蜻嶋     あきつのしまの
 八間跡能国者 やまとのくには

この歌は拙著『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』でご紹介した歌です。
意味は概略すると次のようになります。

「恵みの山と広い原のある大和の国は、村々に山があり、豊かな食べ物に恵まれて人々 がよろこび暮らす国です。天の香具山に登り立って人々の暮らしの様子を見てみると、 見下ろした平野部には、民たみの家からカマドの煙がたくさん立ち昇っています。それはま るで果てしなく続く海の波のように、いくつあるのかわからないほどです。大和の国は民衆の心が澄んで賢く心根が良くて、おもしろい国です。その大和の国は人と人とが出 会い、広がり、また集う美しい国です。」

天皇のお言葉や歌は「示し」と言って数ある未来から、ひとつの方向を明示するものです。

よく戦略が大事だとか、戦術が大事だとか言いますが、戦略も戦術も、そもそも仮想敵国をどこにするのかという「示し」がなければ、実は戦略の構築のしようがありません。
その意味で、トップの最大の使命は「戦略に先立って未来を示すこと」です。
舒明天皇は、我が国の姿を、
「民衆の心が澄んで賢く心根が良くて、おもしろい国」
と規定された(示された)のです。

ちなみにここでいう「おもしろい国」という言葉は、我が国の古語における「感動のある国」を意味します。
昨今では、吉本喜劇のようなものをも「おもしろい」と表現しますが、それでも例えばとっても良い映画を観た後などに、「今日の映画、おもしろかったねえ」と会話されます。
この場合の「おもしろい」は、「とてもよかった、感動的した」といった意味で用いられます。

「民衆の心が澄んで賢く心根が良くて、おもしろい国」というのは、聖徳太子がお隠れになられたときの民衆の反応に見て取ることができます。
人々が互いに助け合って、豊かで安心して安全に暮らすことができる国だから、素直な心で、いろいろなことに感動する心を保持して生きることができるのです。

特定一部の人が、自分の利益だけを追い求め、人々を出汁(だし)に使うような国柄であれば、人々は使役され、収奪されるばかりで、安心して安全に暮らすことはできません。
とりわけ日本の場合、天然の災害の宝庫ともいえる国ですから、一部の人の贅沢のために、一般の庶民の暮らしが犠牲にされるような国柄では、人々が安全に暮らすことなどまったく不可能であり、さらに何もかも収奪されるような国柄では、とても人々はなにかに感動して生きるなど、及びもつかない国柄となってしまいます。

舒明天皇の時代は、強大な軍事帝国の唐が朝鮮半島に影響力を及ぼし始めた時代であり、内政面においては蘇我氏の専横が目に余る状態になってきていた時代でした。
そんな時代に、舒明天皇は、「うし国ぞ、大和の国は」と歌を詠まれたわけです。
それは、舒明天皇が示された我が国の未来の姿です。

そんな父天皇を持った中大兄皇子は、そこで宮中で蘇我入鹿の首を刎ねます。
これが乙巳の変で、645年の出来事です。

蘇我本家を滅ぼした中大兄皇子は、皇位に即(つ)かず、皇太子のまま政務を摂ります。
これを「称制(しょうせい)」と言います。
我が国では、天皇は国家最高権威であって、国家最高権力者ではありません。
このことは逆に言えば、天皇となっては権力の行使ができなくなることを意味します。
ですから中大兄皇子が、大改革を断行するにあたっては、中大兄皇子が皇位に即(つ)くわけにはいかなかったのです。

そして同年、中大兄皇子が発令したのが「公地公民制」です。
これによって、日本国の国土も国民も、すべて天皇のものであることが明確に示され、またその天皇が、あえて権力を持たずに国家最高権威となられることで、民衆こそが「おほみたから」という概念を、あらためて国のカタチとすることを宣言したわけです。

このことは、当時の王朝中心主義の世界にあって実に画期的なことであったといえます。
なにしろ、21世紀になったいまでも、日本の他には、国家最高の存在が国家最高権力者である国しかないのです。

ところが中大兄皇子は、重大な失点を犯してしまいます。
朝鮮半島への百済救援のための出兵です。
倭国は勇敢に戦いましたが、気がついてみれば、百済救援のために新羅と戦っているはずが、百済の王子は逃げてしまうし、新羅は戦いが始まると逃げてばかりで、まともに戦っているのは、倭国軍と唐軍です。
これでは、何のために半島に出兵しているのかわからない。

そこで唐と和議を結んで、倭国軍が撤兵しようとした矢先の白村江で、すでに武器を収めて帰ろうとしている倭国軍に、新羅が突然攻めかかり、倭国兵1万が犠牲になってしまいます。
亡くなった倭国兵たちは、その多くが倭国の地方豪族の息子さんと、その郎党たちです。
この禍根は、実はずっと尾を引きました。

我が国が天皇を中心とする国家であることは、誰もが認めるし、納得もできるのです。
そして天皇がおわす朝廷の存在によって、いざ凶作となったときには、全国的な米の流通が行われて、村の人々が飢えることがないようにとの国家の仕組みも納得できるのです。
けれど我が子が死んだ、中大兄皇子の撤兵指示によって、結果、白村江で多くの命が失われ、そのときに我が子が死んだという、この感情は、どうすることもできません。
理屈ではわかっていても、感情は尾を引くのです。

この禍根は、天智天皇から数えて三代後の持統天皇の時代にまで続きました。
持統天皇が行幸先で、誰とも知れぬ一団に襲撃を受け、矢傷を受けられるという事件も起きているのです。
国内的には、まさに分裂の危機であり、その分裂は、そのまま唐による日本分断工作に発展する危険を孕んだものであったわけです。

こうしたなかにあって、兄の天智天皇から弟の天武天皇への皇位の継承が行われました。
なるほど表面上は、天武天皇が軍を起こして天智天皇の息子の大友皇子を襲撃したことになっています。
しかし、よく考えてみると、これはおかしな歴史の記述です。

天智天皇は大化の改新によって、実に革命的に多くの改革を行いました。
当然、そうした改革は、ものごとが良い方向に向かうようにするために行われるものです。
しかし、短兵急で強引な改革は、必ず改革によって不利益を被る者を生じさせるのです。

そうした反天智天皇派の人たちの期待は、当然のように弟の大海人皇子の皇位継承に集まります。
そして大海人皇子が軍を起こして、天智天皇の息子の大友皇子を追い、みずから天武天皇として即位するとします。

反天智天皇派の人たちは、よろこんで天武天皇に従ったことでしょう。
そして天武天皇が即位されると、もともと天智天皇派だった人たちは、もとよりご皇室中心の日本を大切に思う人達なのです。
このことが意味することは重大です。
つまり、天武天皇の旗揚げ(壬申の乱)によって、実は国がひとつにまとまるのです。

正史は、天智天皇亡き後、天武天皇が兵を起こしたことになっています。
そして天智天皇の子の大友皇子は、人知れず処刑されたことになっています。
けれど、大友皇子の処刑を観た人はいないのです。

天智天皇の崩御にも疑問が残ります。
天武天皇の正妻は、持統天皇です。
その持統天皇は、天智天皇の娘です。
そして天武天皇が、皇位に即位されたあと、事実上の政務の中心となって改革を継続したのが、その持統天皇です。
しかも持統天皇は、なぜだか31回も吉野に行幸されています。

これは正史には書かれていないことですが、個人的には、おそらく天智天皇は生きておいでであったのだろうと思います。
生きていても、当時の考え方として、出家されれば、この世のすべてを捨てて、今生の天智天皇としては崩御したことになるのです。
そして吉野に隠棲し、そこで僧侶となる。

弟の天武天皇に皇位を継承させるためには、天智天皇に集中した国内の不満分子を、まるごと天武天皇が味方に付けてしまうことが一番の選択です。
そして皇位継承後は、娘の持統天皇が、皇后として政治に辣腕を揮う。
幸い、きわめて優秀な高市皇子が、政務を執るのです。
天智、天武、持統、高市皇子のこの強い信頼関係のもとに、あらためて日本は盤石の体制を築いたのではないか。
そのように個人的には観ています。

天智天皇と天武天皇が兄弟であったことさえ疑う意見があることも承知しています。
しかしそのことを示す史料はなく、この不仲説の根拠となっているのは、万葉集における天智天皇、天武天皇、そして天武天皇の妻であり一女まである額田王の歌が、根拠となっています。
しかしその根拠とされる歌も実は、その意味をまるで履き違えた解釈によって、歪められていたという事実は、このたびの拙著『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』で詳しく述べた通りです。
(まだお読みでない方は、是非、ご購読をお勧めします)

不幸なことに、天武天皇のまさかの崩御によって、鵜野讚良皇后が持統天皇として即位されます。
そして持統天皇が、敷いたレール、それは、反対派を粛清したり抹殺したりするのではなく、文化と教養によって、我が国をひとつにまとめていくという大方針でした。

万葉集も、そのために持統天皇が柿本人麻呂に命じて編纂を開始させたものです。
こうして我が国の形が固まっていきました。
それは高い民度の臣民によって培われた、民度の高い国家という形です。

我が国が、国家形成の揺籃期に、このような素晴らしい天皇をいただいたことは、我が国の臣民として、たいへんに幸せであったことだと思います。
爾来1300年、我が国は、庶民の高い民度によって支えられる盤石の国家が築かれてきました。

すなわち、私達が取り戻すべき日本というのは、民度の高い国家です。
いまのメディアのように、庶民を見下し、デタラメを刷り込もうとするような存在は、我が国には馴染まない。

お読みいただき、ありがとうございました。

※この記事は2020年1月のねずブロ記事のリニューアルです。

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舒明天皇から天智天皇、天武天皇、持統天皇までの流れの概括” に対して1件のコメントがあります。

  1. 吉野が前から疑問です。吉野は、良き野です。現実の吉野は、魚は、新宮、米は、五条からといわれ、良き野ではありません。原吉野は、名張市夏見あたり、夏見廃寺あたりでは、ないでしょうか。名張は隠です。もしよろしければ、お返事いただければ嬉しいです。

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