明治の頃、宮城県大崎市に、鎌田三之助という衆議院議員がいました。
その三之助がメキシコに視察にでかけているとき品井沼の排水工事をめぐって、工事推進派と中止派がそれぞれ対立して、住民を二分してしまうという、たいへんな騒動が起こりました。
三之助が急遽帰国して現地に向かうと、品井沼の排水工事は、三之助が一年前にメキシコに向けて出発したときからまったく進んでいません。
三之助がいなくなったあとに、それぞれの村の意見が対立してしまったのです。

品井沼の干拓工事について、そもそも工事自体が不要と言い出す者、干拓そのものが不可能だと言い出す者、決まったことだからやろうという者、それぞれ目先の利害で対立してしまっていて、どうにもならないのです。
宮城県の亀井県知事が仲裁に出張って調整にあたっても「聞く耳持たず」で、まったく問題が解決しない。

三之助は帰郷するとすぐに村に向かいました。
そもそも品井沼は、四方を山に囲まれていて、排水ができません。
そこに水の出口となる排水路を築けば、広大な沼が1000ヘクタールの水田に生まれ変わるだけでなく、周囲800ヘクタールの土地を水害から守ることができます。

けれどそのためには、岩盤でできた急な斜面に穴をうがって、トンネルにし、そこからさらに水路を伸ばしていかなければなりません。
いずれも山中での工事です。
たいへんな難工事です。
工事が完成すれば、そこに住む人々の暮らしは、まちがいなく豊かになります。
だから三之助は、私財を使い果たしてでも村を水害から守ろうと、この計画を推進していたのです。

村に向かった三之助は、反対派の人々の家を一件一件訪問しました。
そしてひとりひとりを粘り強く説得しました。
こうして村の意見がひとつになり、反対派の人々も納得して、みんなが一致団結して工事を行うことになりました。

品井沼の干拓のために力をつくした三之助は、明治四十二(1909)年、村人たちの強い願いで鹿島台村の村長になりました。
元国会議員が村の村長です。見栄っ張りな人にできることではありません。

けれど三之助にとっては、見栄など、愚の骨頂でした。
三之介にとってたいせつなことは、村の人々が、いまよりもすこしでも豊かに安心して安全に暮らせるようにしていくことです。
そのための政治なのです。

なぜ三之助はそこまでしたのでしょう。

それには理由があります。
日本人だからです。
それでわからなければ、日本では、民こそが国家最高権威である天皇の「おほみたから」だからだと申し上げます。
天皇は神々の直系のご子孫であり、中つ国である地上社会を代表して神々とつながるお役目です。
民衆は、その天皇のたからものです。
政治は、天皇の下にあります。
つまり政治家が行うべきことは、天皇のたかものである民衆が、より豊かに安全に安心して暮らせる社会を築くことです。
これを古い言葉で「シラス(知らす、Shirasu)」といいます。

だから政治は、「おほみたから」のために、自分にできる最大限の仕事をする。
それが日本における「忠義」だからです。
「忠」と書いて、大和言葉では「まめなるこころ」と読み下します。
「義」と書いて、大和言葉では「ことはり」です。
義は、羊に我と書きますが、大昔は羊は神々への捧げ物です。
たいせつなもののために、我が身を捧げるのが「義」です。
その字に、大和言葉の「ことはり」を当てています。
「ことはり」というのは、条理・道理のことです。
条理・道理のために、打算や損得抜きの「まめなる心」で「我が身を捧げる」のが、日本的「忠義」です。
そしてそれこそが武士の道、武士道です。

これは、儒教における「忠・義」、言い換えればChinaやKoreaにおける「忠・義」とは、使っている漢字は同じでも、意味がまったく異なるものです。
彼らの文化における「忠」や「義」は、上司上長のために命を捧げることです。
上長が嘘やデタラメをしていても、それをかばいだてするのが、彼らにとっての忠義です。
これは我々日本人の感覚では、受け入れ難いものです。

要するに忠義を尽くすべき相手が違うのです。
日本では「民衆のために」忠義を尽くします。
近隣国では「上役のために」忠義を尽くします。
これは文化の違いです。

日本におけるご政道は、民衆が豊かに安心して安全に生きることができるようにしていくことです。
だから鎌田三之介は、そのために全力を傾け、忠義を貫いたのです。
それが日本における政治家、つまり皇臣民のなかの臣としての生き様です。

大東亜の戦いで散っていった英霊たちも同じです。
彼らは祖国の自由と独立自存のために戦い、かつまた植民地政策による支配と隷属の関係に置かれた東亜の諸民族のために戦いました。
世界中、どこかの国や地域を征服したら、その国の民を先兵にして敵と戦わせるのが常識であった時代に、彼らは、むしろ現地の人々を激戦地から避難させ、より厳しい戦場へと出向いて行きました。

同じく散っていかれた英霊のなかに、戦地で散華された多数の女性看護婦たちもいます。
彼女たちは、傷病兵のためにと、戦況厳しい前線へと出向き、そこで多く命が失われました。
なぜ彼女たちはそこまでしたのか。
彼女たちもまた、民衆こそ「おほみたから」とする日本に生まれ育ち、日本人として生きたからです。

自分に火の粉がかからない安全な場所と時代にいて、厳しいという言葉では言い尽くせないたいへんな戦場にいて、少しでも誰かの役に立とうと戦い、散っていかれた英霊たちです。
これを貶めるような発言をする者は、およそ人の心を失った人非人です。

悪口を言うのは、個人主義の世の中では、なるほどそれは個人の勝手かもしれません。
しかしひとついえることは、お互いに非難や中傷をあびせあうだけでは、この世は決して良くならないということです。

私たちは、大人も子も、右も左も、みんなが「おほみたから」であるのだという自覚と誇りを取り戻さなければならないと思います。
なぜならそれこそが「神々の御意思」だからです。

日本は先の大戦で敗れました。
しかし日本は、いまも日本でいます。
いろいろ失ったものはあります。
けれど、多くの日本人の心に、世界の諸国の国々にはない、思いやりの心ややさしさが遺っています。

戦後の日本は壊れたといいます。
けれど日本は、いまでも世界の大国の一角です。
東京に至っては、世界の都市別のGDPランキングで、なんと世界一です。
ロシアが大国と思っている人もいるようですが、2013年でいえば、ロシアのGDPは2兆626億ドルで、日本(4兆4097億ドル)の半分以下です。

日本が見事に復活した理由もまた、日本が「民こそをおほみたから」とするシラス国だからです。
国土が焦土となったとき、政治では◯◯闘争と呼ばれる対立や紛争が次々と起こりました。
けれど多くの民衆は、そんな「政治遊び」などに付き合っているヒマはないと、仕事の席では政治の話は御法度にして、みんなで力を合わせて町を復興させ、企業の業績を伸ばしていったのです。
皇民教育を受けていない戦後世代が社会の中核を担うようになって30年。
相変わらず政治闘争は激しく行われていますが、日本の成長は停まったままになっています。

世界中、どこの国のどの民族であっても、誰もが人生において「愛と喜びと幸せと美しさ」を求めます。
けれど、そのために必要なことは、庶民がたいせつにされていることです。

それなら「民主主義」があるではないかという人もいることでしょう。
けれど「◯◯主義」という言葉は、いつの世においても「ないものねだり」です。

米国は自由と民主を求めて建国された国です。
これが米国民の基本理念です。
けれど現実は、1%の人たちが全米のGDPの50%を所得にしています。
政治もまた、ごく一部の大金持ちの利権のために動きます。
そのどこが民主主義といえるのか。

日本には、もともと「◯◯主義」という言葉はありません。
代わってあるのが「民衆こそがおほみたから」という概念であり、それが日本建国の理念です。
結果として日本では、一般の庶民が、人としての愛と喜びと幸せと美しさを普通に求めて生きることができます。
このことははるか万葉の世界においても明らかといえます。

「そんなことはない。日本には様々な問題がある」という方もいるかもしれません。
しかし問題があるということは、問題を自覚できる感覚があるということです。
そして自覚ができることならば、それは改善し、乗り越えれば良いだけのことです。
それは神々が我々に与えてくれた改善のチャンスです。

チャンスは、いつの時代にも、どんな場合にも「苦難」の形をとって目の前に現れます。
それを乗り越えていくことが、生きるということなのだと思います。

人類が「愛と喜びと幸せと美しさ」を求める限り、
日本は永遠に不滅です。

お読みいただき、ありがとうございました。

※この記事は2018年1月のねずブロ記事のリニューアルです。

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