世界で最も有名な日本人女性は誰でしょうか。
実はその答えが、クーデンホーフ光子(みつこ)です。

パリにあるメイクアップやスキンケア、フレグランスの老舗メーカーのゲラン社(Guerlain)が販売する香水に、「ミツコ(MITSOUKO)」という製品があります。
世界中で人気を博している香水です。
この「ミツコ」について、ゲラン社のHPに次の記述があります。

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1919年、
ヨーロッパが日本ブームの真っ只中にあり、
極東の文化が人々を魅了していた時代。
ジャック・ゲランは新しく創作した香りを
「ミツコ」と名付けました。
それは小説『ラ・バタイユ』のヒロインの名。
慎ましやかでありながら、
強い意志を秘めた女性をイメージした香りです。
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そしてこの「慎ましやかでありながら強い意志を秘めた女性」という言葉こそ、世界の人々が憧れる日本女性のイメージとなりました。

ちなみに文中にある小説の『ラ・バタイユ』は、日本語に訳したら「戦闘」です。
この小説は、クロード・ファレールが1909年に出版したものです。
1905年の日露戦争が題材で、映画化もされています。
その映画のヒロインの名前が「ミツコ」です。

実はこの「ミツコ」、有名なハンフリー・ボガートと、イングリッド・バーグマンの名作映画「カサブランカ」にも登場しています。
本人ではありませんが、その次男の息子が重要な登場人物となっています。
「カサブランカ」は、アメリカ人男性のリック(ハンフリー・ボガート)が、昔の恋人イルザ(イングリッド・バーグマン)と、偶然の再会をはたすという映画ですけれど、このときイルザの夫でナチへの抵抗運動の革命家である夫ラズロのモデルが、実は、ミツコの次男のリヒャルトです。
ラズロ役のポール・ヘンリードは、リヒャルトに顔立ちが似ているということで起用されでいます。

ちなみにこの映画の企画のとき、配給元のワーナーは、当初、主演をハンフリー・ボガードではなく、若き日のロナルド・レーガンにする予定だったのだそうです。
そうなっていたら、世界の歴史はまた別なものになっていたかもしれませんね。

実在の「ミツコ」の日本名は「青山ミツ」といいました。
そして東京青山の青山通りや、青山霊園なども、実は「ミツコ」が関わっています。
そこで「ミツコ」がどういう女性であったのか、歴史を振り返ってみたいと思います。
時計の針を、129年ほど巻き戻します。

 *

明治25(1892)年のことです。
オーストリアハンガリー帝国から、外交官ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵(はくしゃく)が日本に赴任してきました。
ところが伯爵、冬の寒い日に、乗っていた馬ともども凍った道で滑って転倒して大怪我をしてしまいます。
このとき伯爵の勤務する大使館に雇われていたミツコが、伯爵を献身的に看病したことから、二人は恋に陥りました。

二人は結婚を望みますが、当時の日本は、外国人との結婚は、彼らにあてがわれた「現地妻」という認識が強かった時代です。
というか、そういうケースの方が現実問題として多かったのです。
「どうしても」と結婚を望むミツコは、親から勘当されてしまいます。

当時の日本人女性にとって、親子の縁を切られるというのは、ありえないほど辛いことです。
ハインリヒ伯爵は、なんとかご両親に納得いただこうと、かなりの犠牲を払ったといわれ、そのため後年、光子は日本に帰国しなかったといわれています。
それほどまでに、二人は大熱愛だったわけです。

反対したミツコの父は、青山喜八(きはち)といいます。
喜八はこの頃、骨董道楽が昂じて大借金を重ね、本家から勘当された身の上でした。
ところが、娘のミツコにハインリヒ伯爵が結婚を申し込み、そのために結納金として、かなりのお金を喜八に渡したのです。

おかげで、喜八は一夜にして大金持ちになりました。
そして自分が生きている間に、都内の霊園に、バカでかい自分のお墓を作りました。
このお墓があまりに大きかったことから話題を誘い、その霊園に向かう道が、青山さんのお墓のある霊園に向かう道として「青山通り」、ついにはその霊園の名前までいつしか「青山墓地」と呼ばれるようになりました。

翌、明治26(1893)年、ミツコはハインリヒ伯爵と正式に結婚しました。
ちなみにこれが実は、日本政府に届け出された正式な国際結婚の第一号です。

この時代、日清戦争が翌1894年ですから、まだまだ日本は極東の貧乏な小国とみなされていた時代です。
そしてミツコは、そんな日本の、しかも平民の出身の女性です。
一方、ハインリッヒ伯爵は、当時のヨーロッパにあって、伝統あるオーストリアハンガリー帝国の高級貴族です。
まるでシンデレラか、ポカホンタスのようなことが現実になったわけです。

この結婚に際しハインリッヒ伯爵は、東京・横浜に居留する全ヨーロッパ人に次のような宣言を伝えたそうです。
「もし、わが妻に対して、
 ヨーロッパ女性に対すると
 同等の取り扱い以外を示す者には、
 何人を問わず、
 ピストルによる決闘を挑む。」

実に立派な男です。

ベルギー公使のダヌタン男爵は、次のように日記に記しています。
「決闘は一回も行われなかった。
 だれも彼も
 この新しいオーストリアの外交官夫人の
 優美と作法に魅了された。
 外交団全体が
 彼女に対して尊敬の念を示した。」

ミツコは当時の日本人女性としては長身です。
しかも美人で日本舞踊の素養があったことから、立ち振る舞いが非常に優美だったのです。
それにしても上の写真、洋装もよくお似合いになります。
お二人は、東京で、長男ハンス光太郎、次男リヒャルト栄次郎の2人の子をもうけました。

明治29(1896)年、ハインリッヒ伯爵は足かけ5年に及ぶ日本滞在を終えて、帰国することになりました。
このとき、お正月の宮中参賀に、お二人は招かれました。
このときミツコは、皇后陛下から次のようなお言葉を賜わりました。

「遠い異国に住もうとなれば、
 いろいろ楽しいこともあろうが
 また、随分と悲しいこと
 つらいこともあろう。
 しかしどんな場合にも
 日本人の誇りを忘れないように。
 宮廷衣装は、
 裳を踏んで転んだりすることがあるから
 気をつけたがよろしい」

なんとミツコをやさしく気遣い、思いやりにあふれたお言葉なのでしょう。
そしてこのお言葉は、ミツコのヨーロッパでの生活に勇気を与えした。

ハインリッヒ伯爵の家はボヘミアとハンガリーにまたがる広大な領地をもつ伯爵家です。
二人は、現在はチェコに属するボヘミア地方の広大な領地の丘にそびえる古城ロンスペルグに落ち着きました。
夫ハインリッヒは、父が他界したことから、外交官生活から退き、一族の長となって、大地主の貴族として領地の管理に専念することなったのです。 ロンスペルク城

上の写真がそのロンスペルク城ですが、それにしても、すごいお城です。
ところが、夫の一族のひとたちは、東洋の未開国から連れられてきたアジア人女性に冷たい目を向けました。
光子の着こなしや立ち居振る舞いという末梢的なことを、チクリチクリとあてこすったのだそうです。
いまふうにいうなら、イジメです。
いつの時代も、どこの国でも、人の社会は同じです。

ミツコも、そんな陰湿なイジメがつらく、何度も日本に逃げ帰ろうと思ったそうです。
しかし、そんなときにミツコを支えたのが、まさに
「日本人の誇りを忘れないように」
という皇后陛下のお言葉でした。

ミツコは「裳を踏んで転んだりすることのないように」という一見些末な注意が、貴族社会で生きていく上で、いかに大切なことか、身にしみて分かったと、後年述懐しています。

不思議なことなのですが、日本で(これは日本に限らないことなのかもしれないけれど)神様に通じるような人の言葉というのは、不思議とこのように未来を予見したり、心を救うもとになったりすることがあります。
世の中に偶然はないといいますが、やはり神々というのはおいでになる。そんな気がします。

二人は、その後、三男ゲオルフほか4人、合わせて7人の子宝に恵まれました。
夫のハインリヒは、子供たちが完全なヨーロッパ人として成長することを望み、日本人の乳母を帰国させ、光子に日本語を話すことを禁じました。

子供達への教育については、もちろん光子も納得したことです。
けれど多忙な夫以外に、心を打ち明けられる人がいない光子は、この頃、強烈なホームシックにかかります。
いまのように飛行機でひとっ飛びという時代ではありません。

夫のハインリヒも日本への里帰りを計画してくれたのですが、当時は船旅です。
アフリカ大陸の南端の希望峰をまわり、インド洋を延々と航海して、日本まで渡るわけです。
それは、まる半年がかりの旅です。
そんなに長い間、幼い子供たちを放置することはできません。

夫婦仲は良かったけれど、問題もありました。
充分な教育を受けた夫と、骨董屋の娘で尋常小学校を出ただけの妻では、まるで教育レベルが違ったのです。

ある日のことです。
子供が教科書を開いて自習していたとき、
「お母様、これは何でしたっけ」と聞きました。
ところが光子には答えられない。

「これではいけない」と光子は思ったそうです。
ヨーロッパ人の母なら当然心得ている事を自分が知らないでは済まされない。
そこで光子は、自分も家庭教師について、子供より先に勉強して、子供から何を聞かれても答えられるようにしておくことにしたそうです。

次男のリヒャルトは、自伝でこう回想しています。
「母は一家の主婦としてよりも、
 むしろ女学生の生活を送っていて、
 算術、読み方、書き方、ドイツ語、英語、
 フランス語、歴史、および地理を学んでいた。
 その外に、母はヨーロッパ風に座し、
 食事をとり、洋服を着て、
 ヨーロッパ風に立ち居振る舞いすることを
 学ばなければならなかった。」

それは、寝る時間を削ってまでして行う勉強でした。
立派な母親となるために勉強に打ち込むミツコの姿は、子どもたちの心に深い影響を与えています。
子は親の背中を見て育つといいますが、こういう光子の態度は、本当に立派だと思います。

実際、考えてみれば、親がひとつも本も読まない、勉強もしていない、そんな姿見たことない、なんていう状況下で、子供に「勉強しなさい」と言ったところで説得力はありません。
東大出の政治家のお子様が、やはり東大に入るということはよくある話です。
それもそのはず。
親が本を読み、勉強している姿を子供たちは幼い頃から見ているのです。
親の部屋に入れば、そこには山のように読み終わった本がある。
数々の洋書もある。

そのような環境で育てば、やはり子も優秀になるのであろうかと思います。
是非、お子様やお孫さんのいらっしゃるご家庭では、ねずさんの本を大人が率先して読まれると良い。
って、これはただの宣伝です(笑)。

自伝を残している次男のリヒャルトは、実は、いまのEU(ヨーロッパ連合)実現に向けて、終生たゆみない研究と運動を続けた人です。
そして彼の理想は、いま、欧州連合EUとして立派に実っています。

明治38(1905)年に日露戦争に日本が勝利すると、欧州においての日本の国際的地位は劇的に高まりました。
そしてこのことは、光子への偏見も和げました。
東洋の未開の蛮族たちの小国の娘ではなく、西欧人と対等な堂々たる大国の女性に変化したのです。

こうしたことは、実は国際社会においては、とっても大切なことです。
日本が馬鹿にされ、貶められいていては、海外にいる日本人は個人の資質がいかなるものであったとしても、馬鹿にされ、みくびられるのです。

慰安婦を性奴隷にしただとか、ChinaやKoreaを侵略しただとか、あるいはそれらの地で非道な振る舞いを繰り返していただとか、そういうデタラメが吹聴され、日本が貶められれば、海外にいる立場の弱い人、とりわけ女性や子供達に、そのしわ寄せが行きます。
現に、「日本人になど産まれたくなかった」、「お母さん、外で絶対に日本語を使わないで」と泣く日本人の子らがいるのです。
これこそ政治の問題です。
日本に住む日本人が誇りを失うことが、結果として同胞の心を傷つけ、それが子供達の心なら将来にむけて取り返しのつかない傷を負わせているのです。
まるで他人ごとのように「日本人なんて」とニヤニヤしながら語るテレビの評論家さんたちは、そういうことへの責任など、まるで感じない無責任な人達と断じたいと思います。

日露戦争における日本の勝利によって、あらためて立場が強化された光子ですが、残念なことに、翌明治39年5月に、夫ハインリヒが心臓発作で急死してしまいます。
わずか14年の夫婦生活でした。

異国に一人残された光子は、今まで二人で築いてきた世界が足もとから崩れ去っていくような気がしたそうです。
わかる気がします。

けれど、光子に、悲しみに浸っているひまは与えられません。
夫は遺書で、長子ヨハンをロンスペルグ城の継承者とする他は、いっさいの財産を光子に贈り、子どもたちの後見も光子に託されるべし、と書き残していたのです。

広大な領土と厖大(ぼうだい)な財産です。
その一切の管理を、
「未開国から来た一女性に任せるなどとんでもない」
「日本人に先祖伝来の財産を奪われてなるものか」
と、ミツコは親戚一同から糾弾されてしまうのです。

しかしこのとき、ミツコは断固として言いきったそうです。
「これからは自分でいたします。
 どうぞよろしくご指導願います」

日本女性がこのような任につくには不適当だと、ミツコは裁判まで起こされています。
しかしミツコは、弁護士を雇い、何年もかけて、とうとう訴えを退けています。
覚悟というのは、そういうものです。

問題は他にもありました。
遺産を相続したということは、その経営も受け継いだということです。
ミツコは、法律や簿記、農業経営などを、必死で勉強することで、領地財産の管理を自ら立派にこなしました。
馬鹿では勤まらないのです。

さらに亡夫の精神に沿って、立派なヨーロッパ貴族として子どもたちを育てようと、育児にも打ち込みました。
このとき、長男ハンスは13歳、次男リヒャルトは12歳でした。
表面はけなげな伯爵未亡人として、領地の管理や育児に忙しい毎日を送っていたミツコも、望郷の念はやむことがありません。
それでも、「日本に帰ることは子どもたちが成年に達するまであきらめよう」と心に誓いました。

光子は、ときおり日本の着物を着て、ひとりで何時間も鏡の前に座ることがあったそうです。
それは、望郷の念に駆られて、ひとり涙を流していたときだったのかもしれません。

次男のリヒャルトは、後年、
「そんなときの母が、最も美しく見えた」と回顧録に書いています。
リヒャルトが部屋にはいってきたとき、きっと光子は息子に澄んだやさしい笑顔を向けたのでしょう。
悲しみを知るものは、やさしさを身につけることができるからです。

光子は、涙を我が子に見せなかったそうです。
そんな光子の気持ちを思うと、こちらが泣けてきます。

光子は、正座して毛筆で巻紙に両親宛の手紙を書くことが唯一の楽しみで、毎週一通は出していたそうです。

 年老ひて髪は真白くなりつれど
 今なほ思ふなつかしのふるさと

これは、光子の老年になってからの和歌です。
「私が死んだ時は、日の丸の国旗で包んでもらいたい」
それが、光子の遺言でした。

大正3(1914)年、第一次世界大戦が始まりました。
このとき、オーストリアハンガリー帝国と日本は敵国になりました。
両国間で実際の干戈を交えることこそなかったものの、開戦当時はヒステリックな反日感情が沸き上がりました。

ウィーンにいた日本人の外交官や留学生などは、みな国外退去しました。
光子は、広大なオーストリアハンガリー帝国に、ただ一人残る日本人となりました。

日露戦争の時は、オーストリア・ハンガリー帝国はロシアに威圧されていたので、日本の連戦連勝に国中がわき上がっていたものです。
ですから仲間の貴族や領民たちは、次々と光子のもとにお祝いにかけつけてくれました。
けれど今度は敵国です。
人々は警戒の目を向ける。

そんな中で光子は、長男と三男を戦線に送り、自らは3人の娘を連れて、赤十字に奉仕しました。
黒い瞳の光子やその娘たちの甲斐甲斐しい看護に、人々は好感を抱きました。

さらにこのとき、光子は領地の農民を指揮して、森林を切り開き、畑にして大量の馬鈴薯(ばれいしょ、じゃがいものこと)を栽培しています。
そして収穫した馬鈴薯を、借り切った貨車に詰め込み、男装して自ら監督しつつ、国境の戦線にまで運びました。
前線でロシア軍に苦戦していたオーストリア・ハンガリー帝国軍の兵士達は食糧難に悩まされていたのです。
そんな光子の姿に兵士達は、「生き身の女神さまのご来臨だ」と、塹壕の中で銃を置いて、光子を拝んだといいます。

敵国の女性でありながら、神様とまで慕われる。
ほんとうにすごいことです。
光子の馬鈴薯作りは終戦まで続き、周囲の飢えた民を救うのにも役だっています。

大正7(1918)年に戦争が終わったとき、次男のリヒャルトが13歳も年上の女優イダ・ローランと結婚すると言い出しました。
光子は反対しました。

するとリヒャルトは家を飛び出してしまいました。
飛び出したリヒャルトは、「汎ヨーロッパ主義」という本を著し、一躍ヨーロッパ論壇の寵児となりました。
長男ハンスも平民のユダヤ人女性リリと結婚し、ピクシーという女児をもうけて家を去りました。

実は光子は、子供たちに日本風の躾(しつけ)をしていました。
その躾があまりに厳しかったために、成長した子供たちが光子のもとを去っていったという説もあるくらいです。
その光子の躾について、こんな話があります。

子らが学校に行くようになると、友達との間でそれぞれの家の躾の様子などを話し合います。
ヨーロッパの貴族の家庭では、どこのご家庭でも、子供への躾は厳格です。
ほとんどの日本人なら、西洋貴族の家庭内における躾の厳格さは、おそらく常識的な知識であろうと思います。

ところが、リヒャルトは、そんな貴族の子弟たちと話し合った時、どの家よりも光子の躾が厳しかったと自伝に書いています。

ここは、たいせつなポイントです。
光子は日本では貧乏長屋に住む平民の娘です。
親も、事業で失敗する等、決して安定した家庭環境にあったわけではありません。
ところがそんな家庭内で躾を受けた光子が、ヨーロッパの高級貴族の家庭で、自分が子供の頃に受けた躾を、そのまま普通に子に行ったら、それが厳しいと評判のヨーロッパの貴族の、どの家庭の躾よりも厳しいものであったというのです。
つまり、平民であっても、当時(明治の頃)の日本の家庭内の躾は、それだけ厳しかったのです。

相当左翼の人でも、明治の日本人が「強い気骨を持っていた」ということは認めています。
けれど、そうした「明治の気骨」は、実は、それだけ厳しい躾を、どこのご家庭でも行っていた結果です。
現代日本人に欠けているもの、あるいは現代日本人が忘れている根幹が、この「気骨」であるように思います。
そして「気骨」は、教育によって形成される。
これもまた大切なポイントであると思います。

さて、子供たちが次々と去っていく光子に、追い打ちをかけたのは、第一次世界大戦におけるオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊でした。
この敗戦によって、クーデンホーフ=カレルギー家も、過半の財産を失ってしまいます。

光子は、大正14(1925)年に、脳溢血で倒れました。
なんとか一命はとりとめたものの、右半身不随となりました。
以後の光子は、ウィーン郊外で唯一の理解者であった次女・オルガに介護してもらいながら、静養の日々をすごしました。

この頃の光子の唯一の楽しみは、ウィーンの日本大使館に出かけて大使館員たちと日本語で世間話をし、日本から送られてくる新聞や本を読むことだったそうです。

昭和16(1941)年8月、第二次世界大戦の火の手がヨーロッパを覆う中、光子はオルガに見守られながら67歳の生涯を閉じました。
渡欧して45年、結局、光子は一度も祖国の土を踏むことはありませんでした。

さて、光子のもとを飛び出した子供たちですが、本人たちが母の厳しい躾を嫌がった割には、彼らは光子の日本式の厳しい躾と教育によって、全員、それぞれ立派な大人に成長しました。
なかでも東京で生まれた次男の「リヒャルト・栄次郎・クーデンホーフ・カレルギー伯爵」は、その著作で「欧州統合」を主張し、先ほども書いた“EU”の概念を打ち立てています。

第一次大戦後、「民族独立」のスローガンの中で、オーストリア・ハンガリー帝国は分断され、ハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビアなどが新国家として独立し、ポーランドやルーマニアにも領土を割譲されて、解体されてしまいました。
大戦で疲弊した上に、28もの国がアメリカの2/3ほどの面積でひしめき合ったのです。

民族対立の火種を抱えたままでは、いずれヨーロッパに再び大戦が起こり、世界の平和が脅かされます。
ならば、逆に欧州は統一した連邦国家となるべきではないか。
リヒャルトのこの大胆な提案と思想は、敵対と対立、対立と闘争という概念を煽られ、それしか知らなかった当時の欧州において、日本的な「和の精神」をもたらそうとしたものです。
そして、リヒャルトの母が日本人であるという事実に、さまざまな新聞が当時、光子に新しい名称を贈りました。

その一例を示すと、
「欧州連合案の母」
「欧州合衆国案の母」
「パン・ヨーロッパの母」等々です。

リヒャルトの生涯をかけたた理想と運動は、その後もヨーロッパの政治思想に大きな影響を与え、第2次大戦後のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)、ヨーロッパ経済共同体(EEC)、そして現在のヨーロッパ連合(EU)に至っています。

リヒャルトは母・光子についてこう述べています。

「彼女の生涯を決定した要素は
 3つの理想、すなわち、
  名誉
  義務
  美しさ
 であった。
 ミツコは自分に課された運命を、
 最初から終わりまで、
 誇りをもって、
 品位を保ちつつ、
 かつ優しい心で甘受していたのである。」

名誉と義務と美しさと、誇りある品位。
これらは日本人が日本人であるがゆえの美質です。
そしてそれは、世界が求める万国共通の美質でもあります。

「名誉と義務と美しさと品位」
そんな日本を取り戻したいと思います。

それにしても・・・
幕末から明治にかけての一介の長屋住まいの町民の娘の子供の頃の躾(しつけ)が、西欧貴族社会のどの家庭の躾よりも厳しかったという事実。
そしてそんな日本は、西欧社会の日本に渡航してくるような当時のVIPたちからみて、「日本人ほど子供を可愛がる国はない。日本の子供たちは実に伸び伸びしている」と言わせた事実。
このことが示す意味は、とても大きいと思います。

昨今では、子供たちにガマンすることを教えません。
たとえば逆上がりができなければ、「できる子もあるし、できない子もある」と放置されます。
けれど私たちが子供の頃までは、できなければ、できるまでやらされました。
放課後に残ってでもやらされました。

狼に育てられた子供は、狼のままで人に戻ることはありません。
人は、人として躾(しつ)けられて、はじめて人になります。
人とのしての躾のない者は、人ではなく「人の皮をかぶったケモノ」です。
現代日本人は、いま国をあげてケモノつくりに励んでいます。

教育は人を育むものです。
本来の日本の教育を、しっかりと取り戻したいものです。

※この記事は2009年10月の記事のリニューアルです。

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