現代の世相は、有名人や著名人に少しでも非があると、というより非があろうがなかろうが、事実をでっちあげてでも、特定個人を寄ってたかって叩き、潰しまくるという世相です。
松本人志氏しかり、政治家しかりです。
ひとたび標的にされると、その人物の良いところはすべて帳消しになり、徹底的に叩かれます。

その一方で、本当に悪い連中(たとえば世界を牛耳るネオコンや国際金融資本など)はあまり騒がれません。
それは「誰が」が不明確であるというこもあるでしょうが、巨悪はあまりに標的が大きすぎて、一般の民衆にはよく見えないし、日頃、誰かを叩きまくっているような人であっても、巨悪が相手となると、怖くて手が出せない(笑)。

そこで手近な標的を作って、みんなが叩いているから俺も叩く、とばかりに、叩きの連鎖が行われています。
これが現代日本の世相です。
そして世相というのは、言い方を変えると現代日本の「集合的無意識」ということになります。

日月神示などによれば「一厘の✔(神)493(仕組み)」によって、これから大転換が起こるのだそうです。
転換後の未来は、とても良い未来なのだそうです。
もしそうであるとするならば、その良い社会を構築するための、今とは異なった社会哲学が、これは「必ず」必要になります。

その文化は神仕組みによって形成される文化なのですから、他人を叩きディスるだけの文化でないことだけは、確かなことだといえそうです。
いま起きていることは、そのための準備なのだとすれば、現代の「叩き」は、集合的無意識が、新しいリーダーを選ぶための「ふるい」であると見ることもできます。

本物だと感じられるから叩かれるのです。
本物の側の心が、叩かれて折れてしまったり、くじけてしまうようなら、それは「本物ではない」ことになります。
つまりいま、集合的無意識は、無意識のうちに、本物の出現を探している、ということになります。

人間に100%クリーンな人などいませんから、何か社会的に良い影響を与えるようと志して名前が売れれば、必ず叩きの標的にされます。
叩けるところは、どんな人でも探せばいくらでも出てくるからです。
孟子の言葉に「天のまさに大任をこの人に降さんとするや、必ずまずその心志(しんし)を苦しめ」という言葉がありますが、目立つ人は、必ず「徹底した潰しの洗礼」を浴びるのです。

ということは、いま集合的無意識という「天」が求めているのは、そうした「徹底した潰しの洗礼」に打ち勝ち、これに打ち勝つことができるツワモノだということになります。
そしてそのツワモノは、本当に民衆の幸せを願い、良い未来を積極的に、そして建設的な意見を述べて民衆をリードする人ということになります。

悪所を指摘されても開き直って言いたい放題を言うような人物ではありません。
潰しの洗礼を受けながらも、情熱を失わずに真っ直ぐに生きることができる人物です。

これでもかというほど叩かれ、身内からさえもボロカスに言われながらも、堂々と正義を主張し、笑顔で邁進する。
しかもいま、何を改革しなければならないのか、どうすれば良いのか、日本をどのような国にしたいのかという哲学をしっかりと持っている。
そういう人物であればこそ、いま集合的無意識は、そうした人物に徹底した「洗礼」を与えています。

一方、人というのはおもしろいもので、良いときにはあまり学ぶことがありません。
現状維持でうまく行っているのですから、同じ路線を継続するだけです。
ところが、これで上手くいくと思っている矢先、突然、地獄の底に叩き落されます。
人生、七転び八起きといいますが、あとで振り返ってみると、いちばん学んでいるのは、常に「たいへんなとき」です。
人は、「たいへんなとき」に成長するのです。

ということは、理想を持って行動している人がいま叩かれるのは、まさに本物のリーダーになるための集合意識からの薫陶だということになります。
どんなに叩かれても、決して心が折れることなく、笑顔で邁進することができる。
そういう強さこそ、いま日本に、そして世界に求められている人材です。

巨悪というものがあります。
その巨悪は、世間の多くの人々を不幸に陥れ、命さえも奪い、自分たちの繁栄を謳歌しています。
私達がいま戦う相手は、まさにそんな巨悪、しかも世界的な巨悪です。
その巨悪と戦うリーダーは、巨悪に良心で対抗するのです。
その良心は、大誠意から生じます。
そんな大誠意を得るには、世間の非難という強大なふるいが必要なのです。

どんなに叩かれても、大誠意を貫く。
どんなに叩かれても、笑顔を失わず正義を貫く。
集合的無意識は、まさにいま、そういう人材を育てようとしています。

なるほど巨悪は放置されています。
叩かれもしていません。
けれど巨悪を潰せば世の中が良くなるのかというと、世の中はそう単純なものでもないのです。
なぜなら、現代の巨悪は、経済的繁栄とセットになっているからです。

世の中の経済的繁栄を保持しながら、巨悪を潰していく。
それが「一厘の✔(神)493(仕組み)」とするなら、これを実現するためには、ただ巨悪の行動を指摘したり叩いたりするだけでなく、巨悪が生まれる原因そのものである「世の中の仕組み」を抜本的に転換していかなければならないのです。

そのために必要になるのは、世の中の仕組みの根幹となる社会哲学や社会思想の大転換です。
なぜならたとえ「一厘の神仕組み」が実現したとしても、これを受け入れる民衆の機根が整っていなければ、それは社会に受け入れられないからです。

もちろん、上からの強制という方法もあるでしょうけれど、日本にこれは適用されません。
なぜなら日本は民衆が八百万の神々と規定された国だからです。

集合的無意識が求めているのは、新しい社会の「仕組み」であり、そのための「哲学」であり「思想」であり、それらを広げる社会のリーダーです。
だから集合的無意識は、リーダーと思しき人物を徹底攻撃し、ふるいにかけています。

この流れは、神仕組みそのものです。
そして、ふるいを跳ね除けて笑顔で堂々と生き残った人物が、新たな時代のリーダーとなるのです。

では、そうして生き残る本物と、生き残っている偽物とをどのように見極めたら良いのでしょうか。
答えはひとつです。
それは、無私であるかないかにあります。

「無私」だからといって、自分がまったくないわけではありません。
大人であれば、家族もあるし、責任もある。
そもそも食べたり眠ったりだって、私があるからです。
では、何に対して無私なのかといえば、それは自分が果たすべき使命に対して、です。
使命の前に無私であるかどうか。
ここに焦点があります。

集合的な無意識の世界に「主語」はありません。
善意の人を攻撃すれば、その攻撃は必ず攻撃した人自身に跳ね返ります。
一方、みんなのためにと、周囲を尊敬し、敬意を払い、精一杯の誠実を尽くしていくとき、それはそのまま成長となります。
自分だけではなく、みんなとともに成長するのです。

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