インパールの戦いは、日本の正式な作戦名を「ウ号作戦」といい、昭和19年3月から同年7月初まで継続した戦いです。
この戦いに参戦した日本軍兵士は、およそ9万人。
帰還できたのは、そのうちの約1万2千人です。

この退却戦で、陸空から英国軍の攻撃を受け、さらにマラリヤや赤痢が日本の兵隊さんたちを襲いました。
退路となった街道には、延々と餓死した日本兵の腐乱死体や白骨が横たわり、その有様から、この街道は「白骨街道」と呼ばれました。

街道で亡くなった兵隊さんの数は、およそ4万人に達するといわれています。
亡くなって一週間程度の屍には、どす黒い汁が流れ、黒い大型のピカヒカ光る蠅が群がり、黒い大きな固まりがそこにあるように見えたそうです。
なにかの拍子に蠅が飛び上がると、遺体がもぞもぞと動いて見えたそうです。
大量の蛆が、遺体を食べながら動いているのです。
腐臭もすさまじいものであったそうです。
けれどその遺体は、ひとつひとつが、歓呼の声に送られて出征した、笑顔さわやかな頼もしい皇軍兵士たちです。

生きて生還できた小田敦己さんの談話には、次のような記述があります。

 *
 半日前とかー時間ほど前に
 息を引き取ったのか、
 道端に腰掛けて休んている姿で
 小銃を肩にもたせかけている屍もある。

 また手榴弾を抱いたまま爆破し、
 腹わたが飛び散り
 真っ赤な鮮血が
 流れ出たばかりのものもある。

 そのかたわらに
 飯盒と水筒はたいてい置いてある。
 またガスが充満し
 牛の腹のように膨れている屍も見た。

 地獄とは、まさにこんなところか・・・・
 その屍にも雨が降り注ぎ
 私の心は冷たく震える。

 そのような姿で屍は道標となり
 後続の我々を案内してくれる。
 それをたどって行けば
 細い道でも迷わず
 先行部隊の行った方向か分かるのだ。

 皆これを白骨街道と呼んだ。
 この道標を頼りに歩いた。
 ここらあたりは、
 ぬかるみはなく
 普通の山道で緩い登り下りである。
 雨があがり晴れれば
 さすかに熱帯
 強い太陽か照りつける。

 暑い。
 衰弱しきった体には
 暑さは格別厳しく感じられる。

≪一兵士の戦争体験ビルマ最前線白骨街道生死の境 小田敦己≫
http://www.geocities.jp/biruma1945/index.html

 *

英国軍は、この退路にも、しばしば現れて、容赦なく銃弾を浴びせました。
撃たれて死んだ者、伝染病に罹患して餓死した者の遺体や動けなくなった兵は、集団感染を恐れて生死を問わずガソリンをかけて焼却したといいます。

この戦いを指揮した牟田口中将は、戦後、
「戦場でもっとも大切な
 兵站を無視した無謀な戦いをした」
「牟田口中将はバカである」
「はじめから意味のない戦いだった」
等々、あらんかぎりの罵声を浴びせられました。

実際、日本兵9万が出撃し、3万名が戦死、4万名が戦病死したのです。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」は世のならいです。
まして多くの味方の人命が奪われる負け戦では、それを指揮した将校は、後々の世までボロかす言われる。
それはある意味しかたがないことかもしれません。

しかし、思うのです。
負けた戦いを、単に「負けたからアイツはバカだ」というのは簡単です。
けれどそんな「評価」をいくらしたところで、失われた人命が帰ってくるわけではありません。
後世を生きる人間にとってたいせつなことは、そのように歴史を「評価」することではなく、歴史から「何を学ぶか」にあるのではないかにあります。

インパールの戦いについてみれば、後世の我々からみて不思議なことがいくつかあります。

昭和19年といえば、もはや戦局は厳しさを増してきているときです。
日本は、全体として防衛領域の縮小を図ろうとしていた時期にあたります。
にも関わらず牟田口中将は、なぜあらためてインドへ向けて出撃しようとしたのか。

兵站が不足していることは、行く前からわかっていることです。
にもかかわらず、敢えて、出撃したのはなぜか。
無謀な作戦、意味のない作戦だったというけれど、それならなぜ、英国軍はインド方面の総力ともいうべき15万の大軍を出撃させてこれを迎え撃とうとしたのか。
意味がないなら、迎撃する必要さえないはずです。

そしてまた、英国軍15万に対し、日本軍は9万の兵力です。
日本側には、インド国民軍の兵士4.5万人がいたけれど、なぜか日本軍はインド国民軍を6千名しか戦いに参加させていません。
4万のインド国民軍を温存したのです。
どうしてインド国民軍を、厳しい戦いとなることが分かっているこの戦いに参加させなかったのでしょうか。

そしてこの戦いは英国軍15万対日本軍9万という歩兵陸戦の大会戦です。
世界史に残る有名な歩兵大会戦といえば、ナポレオン最後の戦いといわれるワーテルローの戦い(フランス軍12万、英欄プロイセン連合軍14万)、明治3(1870)年のセダンの戦い(フランス軍12万とプロイセン軍20万の戦い)、日露戦争の奉天戦(日本軍25万、ロシア軍31万)などがあげられます。
インパールの戦いは、これに匹敵する大規模な陸戦です。

その戦いに英国は勝利したのです。
にも関わらず英国は、このインパール会戦について、「勝利を誇る」ということをしていません。
それは何故でしょうか。

このブログで、武道の心について何度か書かせていただいています。
欧米における格闘技は、敵を殺し、倒すためのマーシャルアーツです。
ところが日本武道は、試合や勝負における「勝ち」を、からなずしも「勝ち」としません。

スポーツにおける「勝ち」は、試合に勝つことです。
そのためには、体を鍛え、技を磨きます。

日本武道における勝ちは、試合に勝てばよいという考え方をとりません。
試合というのは、どんな場合でも、単に「模擬戦」にすぎないからです。
本当の勝利は「克(か)つこと」にあります。
その場の勝ちだけでなく、最終的、究極的な勝ちをもって、勝ちとする。

たとえば、小柄な男性が、好きな女性とデートの最中に、大男に囲まれて、女性を差し出せと要求される。
小男が拒否する。
小男は、ハンゴロシになるまでボコボコに殴られる。
寝転がって「うう・・」となってしまう。
しかし「心・技・体」、「心」を鍛えたこの小男は、殴られても殴られても何度も立ち上がる。
気を失っても、まだ立ち上がる。
いいかげん気持ち悪くなった大男たちは、帰っていく。
女性は暴行されずに助かる。

殴り合いの勝ち負けでいったら、このケンカは、大男の勝ちです。
小男は負けです。
けれど大好きな女性を護りきったという意味においては、目的を達成したのですから小男は「勝ち」です。
どっちが勝ったといえるのかといえば、両方勝った。
それが武道の心です。

武家に生まれたら、たとえ武芸に秀でていなくても、たとえ小柄で非力でも、たとえそのとき病んでいたとしても、すでに老齢になっていたとしても、戦うべき時には戦わなければなりません。
相手が野盗の群れのような大軍だったら、戦えば必ず死にます。
しかし、たとえ自分が死んだとしても、野盗が盗みをあきらめて帰ってくれれば、みんなの生活の平穏が保たれるのです。
そのために自分が死んだとしても、みんなを護るために戦い、死ぬ。
戦いでは「負け」たかもしれないが、それによってみんなを守ることができたなら、それは武士にとっては「勝ち」です。

マンガ「明日のジョー」で、矢吹ジョーが、ホセ・メンドーサと試合します。
殴られても殴られてもジョーは立ち上がる。
ホセは、いいかげん気味悪くなって、さらに矢吹ジョーをボコボコに殴る。
ジョーは、もはやガードの姿勢をとることすらできない。
それでも立ち上がる。何度も立ち上がる。
普通、常識でいったら、タオルがはいって、試合はジョーの負けです。

マンガの試合結果がどっちだったかは忘れてしまいましたが、なんとなく覚えているのは、この試合でホセは、ジョーに対するあまりの恐怖のために、髪が真っ白になり、現役を引退してしまう。

リングの上の勝負ではホセの勝ちですが、結果、ホセは引退し、ジョーは、次の対戦に臨む。
ホセも勝った。ジョーも勝った。
どちらも勝ちです。

そして「勝ち」は「価値」と同音です。
さらにおもしろいのは「徒士(かち)」も同音です。
古くは「徒歩」と書いて「かち」と読みました。
つまり大和言葉の「かち」というのは、目的に向かって一歩ずつ前進することを意味します。
そしてそのことが最も貴重で大切なこと、つまり「価値あること」とされてきたのが日本です。

試合の「かち」は、その場の勝敗ではなく、その試合を一歩として、さらに次の一歩のための自己鍛錬に励む。
そこに「価値」があるとされてきたのが日本です。
そうした日本文化からインパールの戦いを考えると、巷間言われている筋書きとはまったく別なストーリーが見えてきます。

インパールの戦いは、インド・ビルマ方面における、日本軍のほぼ全軍と、英国のインド駐屯隊のほぼ全軍が会戦した大会戦です。
繰り返しになりますが、英国はインパールに15万の兵力を展開し、対する日本軍は9万です。
この時点でビルマにいたインド国民軍4.5万を合わせると、兵力はほぼイーブンになるのに、牟田口中将は、インド国民軍の本体をインパールに参戦させていません。
そして、約4.5万のインド国民軍の兵士のうち、どうしても一緒に戦いたいと主張して譲らない6千名だけを連れてインパールへ出撃しました。

インド国民軍を合わせれば、兵力はイーブンになるのに、わざわざインド国民軍をおいてけぼりにしているというのは、ふつうに考えて、あり得ないことです。
ただでさえ、火力が足らないのです。
これにさらに兵力不足が重なれば、これはもう、わざわざ負けに行くようなものです。

しかも補給がありません。物資がないのです。
食べ物すらありません。
インパールは補給を無視した無謀な戦いだったとよく言われますが、補給物資がすでにないことは、牟田口中将以下、軍の参謀たちも、参加した兵たちも、みんなはじめからわかっていたことです。
補給路の確保とかの問題ではありません。そもそも補給すべき物資がハナからないのです。

それでも日本軍は、ジャングルのなかを、遠路はるばる出撃しました。
そして2か月を戦い抜きました。
2か月というのは、ものすごく長い期間です。
かのワールテルローの戦いだって、たった1日の大会戦です。

補給がないということは、単に食料や弾薬がないというだけにとどまりません。
医薬品もありません。
場所はジャングルの中です。
山蒜(ひる)もいるし、虫もいる。
マラリアもある、デング熱もある、アメーバー赤痢もある。
日本の将兵たちは、敵と戦うだけでなく、飢えや病魔とも闘わなければならなかったのです。

そして戦いの早々に、日本軍の指揮命令系統は壊滅します。
それでも、ひとりひとりの兵たちは、ほんの数名の塊(かたまり)となって、英国軍と戦い続けました。
日本軍と撃ちあった英国軍の将兵は、銃声が止んだあと、日本の兵士たちの遺体を見て何を感じたのでしょう。

英国の兵士は、栄養満点の食事をとり、武器弾薬も豊富に持っています。
そして自分たちのために戦っています。

ところが日本の将兵は、他国(インド)のために戦い、武器・弾薬も不足し、食料もありません。
ある者はガリガリにやせ細り、ある者は大けがをしている。
遺体は、まるで幽鬼のような姿です。

ガリガリに痩せ細り、まるでガンの末期患者の群れのような少数の兵士が、弾のない銃剣を握りしめて、殺しても殺しても向かってくる。
最初のうちは、英国の将兵たちも、勝った勝ったと浮かれたかもしれません。
しかし、それが何日も続く、何回も続く。

軍としての統制と機能は、とっくに壊滅しているはずなのに、ひとりひとりが戦士となって向かってくる。
降参も呼び掛けましたが、誰も降参しない。
弾の入っていない銃剣ひとつで向かってくる。
そんな戦いが60日以上も続いたのです。
人間なら、誰もがそこに「何か」を感じるのではないでしょうか。
まして騎士道の誇り高い英国の兵士たちです。

ようやく日本軍は潰走をはじめます。
街道を撤退しはじめました。
マラリアに犯され、敵弾を受けて怪我をし、食い物もないガリガリに痩せ細った姿で、街道をよたよたと下がり始めました。
そこには、日本の将兵の何万もの遺体が転がりました。

インパールの戦いについて不思議なことがあります。
それは、現在にいたるまで、英国軍が日本軍を打ち破った誇りある戦いとしてインパールを「誇って」いない、ということです。

戦いのあとインドのデリーで、英国軍が戦勝記念式典を開催しようとした事実はあります。
英国軍に「よいしょ」するインド人たちが、おめでとうございますと、戦勝記念式典を企画したのです。
ところが、当時インドに駐留した英国軍の上層部から、これに「待った」がかかりました。
結果として、戦勝記念式典は、行われていません。
15万対9万の陸戦という、ヨーロッパ戦線おいてすらあまりなかったような世界的大会戦だったのです。
それに勝利したなら、盛大なパレードと、飲めや歌えやの大祝賀会が開催されたっておかしくないことです。
けれども、祝賀祭も、パレードも開催されていないのです。

この戦いに参加した英国の将兵にしてみれば、とてもじゃないが、この戦いを「勝った」と誇る気分にはなれなかったのかもしれません。
実戦に参加せず、安全な場所にいて指示だけ出していた連中が、得々と戦勝記念祭を開催しようとしても、実際に戦った英国軍の将兵たちは、それをこころよしとしなかった。

英国軍は、なるほどインパールの戦闘に「勝ち」ました。
しかし戦いに参加したすべての英国軍将兵たちにとって、その戦いは、ひとつも気持ちの良いものではなかった。
どうみても「大勝利」したはずの戦いなのに、彼らは自分たちの「敗北感」をひしひしと感じていたのかもしれません。
すくなくとも、騎士道精神を誇りとする英国の将兵には、それが痛いほど感じられたのではないでしょうか。
なぜなら彼らも「人」だからです。

牟田口中将以下の日本の将兵は、戦いに負けることはわかっていたのかもしれません。
補給さえないのです。
そして牟田口中将は「皇軍兵士」という言葉を多発しています。
戦いの相手は、騎士道精神を持つ英国軍本体です。
ならば「かならず伝わる」、そう思えたから、彼らは死を賭した戦いをしたのではないでしょうか。

だから「負ける」とわかって敢えて臨んだのだし、最初から死ぬつもりで出撃したのかもしれません。
なぜなら、当時生き残った日本兵が書いたどの本を見ても、戦いの最初から最後まで、日本兵の士気は高かったと書いているのです。

たとえば、社員数10万人の大手の企業で、負けるとわかっている戦いをした。
実際会社はそれで給料も払えずに倒産したら、そりゃあ社長はボロカスに言われます。
しかしひとりひとりの社員が、あるいは社員全員とはいいませんが中間管理職のみんなが、「自分たちのしていることは、社会的に意味のあることだ」という信念を持ち続け、最後のさいごまで、日々の業務に誠実に取り組んだら、おそらくその会社は倒産しても社員たちは、それでも製品を作り続けるだろうし、士気も高い。

まだ建設談合があった頃のことですが、公共工事を請け負った会社が、工事途中で倒産するということが、度々発生しました。
工期なかばで、会社が倒産してしまうのです。
建設現場で働く人たちは、当然、倒産のその日から現場に来なくなると思いきや、会社がなくなっても彼らは、黙々と工事を続行しました。

理由のひとつには、公共工事には必ず工事の請負業者に、工事完成の保証を行う建設会社が付いたということもあります。
けれども、その保証会社が、倒産した会社の職人さんたちに給料を払うかどうかはわからないのです。
それでも彼らは、工事を続けました。
多くの場合、保証会社は、その職人さんたちの請負を継続しましたし、職人さんたちへの支払いも代行したものですが、そもそも最初の建設業者が倒産寸前かどうかは、すでに工事請負の段階で、狭い日本です。知られていたのです。
それでも、良い工事を遺したい。
ひとたび請け負った仕事である以上、親受け会社が倒産しようがしまいが、工事は最後までキチンと行う。
それが日本の職人さんたちの誇りであり、意地でもあったのです。

インパールの戦いも、もともとは「インド独立運動を支援する」ために組まれた作戦です。
その頃の日本軍は、すでに退勢にたたされていたのであって、戦線は縮小の方向に向かっていました。
にもかかわらず、インドという大陸に進撃しました。
インドの独立のために。
自らを捨て石とするために、です。

大切なことがあります。
餓鬼や幽鬼のような姿で街道を引き揚げた日本の将兵たちは、誰一人、街道筋にある村や家畜、畑を襲っていない、ということです。
お腹も空いていた。
病気にもかかっていた。
怪我もしていた。

そんな状態の日本の兵隊さんたちの退路の街道筋には、ビルマ人の民家が点在しています。
そして街道筋を見れば、街道の両側こそ林になっていますが、その林の外側には、農地が広がっているのです。
そして民家では、時間になれば、かまどに火がはいり、おいしそうな食事のにおいがあたりをおおいます。

民家には屋根があります。
熱帯ですから、猛烈な暑さだけでなく、雨季ですから湿度も高い。スコールも降ります。
怪我をした体に、屋根はありがたいものです。
けれど、誰一人、民家を襲うどころか、畑にたわわに稔った作物を奪っていないし、民家の家畜を殺して食べるようなこともしていないのです。

退路を引き上げる日本人の兵隊さんたちは銃を手にしていました。
弾はすでに使い果たしていました。
けれど銃剣は付いています。
武器を持たない現地の民家を脅せば、飯も食えるし、屋根の下に寝ることだってできたはずです。
怪我の治療薬を奪うことだってできるかもしれない。
腹いっぱいになったら、その家の娘や女房を強姦することだってできたかもしれない。

世界では、銃を持った敗残兵が、民家を襲ってそのようなことをするのは、いわば「常識」です。
自分が生き残るためなのです。
しないほうが、おかしいといって良いくらいです。
けれど、約6万人が通り、うち4万名が命を落とした街道筋で、日本の兵隊さんに襲われた民家というものが、ただの1件もありません。
それどころか、あまりに襲うことがない日本の兵隊さんたちに、地元の農民たちは、食料を与えようとさえしてくれていました。

けれど、日本兵は受け取らない。
やむなく彼らは、屋台を出して、お店として食料を日本人に与えるという工夫までしてくれました。
支払いは軍票で良いという。

生きて帰還できた日本の兵隊さんの多くは、たまたま運良く、こうして屋台の食事を食べることができた兵隊さんたちでもありました。
そしてその生き残った兵隊さんたちが、様々な数多くの手記を遺しているのですが、その手記になんと書いてあるかというと、
「あのとき支払った軍票は、戦後、全部ただの紙切れになってしまったので申し訳ない」
です。

一方、「俺は民家を一度も襲わなかった」などと書いてあるものは皆無です。
なぜなら、そんなことは「あたりまえ」のことにすぎなかったからです。

インパールの戦いについて、いろいろな人が、いろいろなことを書いています。
それに対して、インパールの戦いに参加し、生き残った人々からは、なんの反論もされていません。
しかし、ひとついえることは、インパールの戦いを生き残った人たちは、インパールの戦いを、「インパール作戦」と書いている、ということです。

他の戦いは、たとえば硫黄島の戦いにしても、拉孟(らもう)の戦いにしても、「戦い」です。
真珠湾は「攻撃」です。
しかし、インパールは「作戦」です。

敵と交戦することを「戦い」と言います。
しかし、インパールは「作戦」です。
「作戦」は、目的をもってこちらから仕掛けるから、戦いを作るのです。
だから「作戦」です。

その目的は「インドに独立をもたらすための火を灯(とも)すこと」です。
インパールの作戦には、ですから当初、大本営はガンとして反対していました。
それに対して、「どうしても実行を!」と迫ったのは、当時日本に滞在していたチャンドラ・ボーズです。
チャンドラ・ボーズは、インド独立の志士です。
そして大本営は、チャンドラ・ボーズの意思を受け入れ、「作戦」の実施を牟田口中将に命じます。

牟田口中将以下のビルマ駐屯隊の将官たちは、それが「どういう意味を持っているか」、その「作戦を実施」することが、自分たちの運命をどのようなものにするかを理解しました。
彼らは戦いのプロです。
瞬時にしてその「意味」も「結果」も悟ったであろうと思います。

そして、すべてをわかった上で、作戦を実行しました。
だから彼らは、インド国民軍の主力をまるごと温存したのです。
「自分たちは、ここで死ぬ。
 あとは君達で頑張れ」

普通なら、世界中どこでもそうであるように、この種の戦いでは、むしろインド国民軍を先頭にします。それが世界の戦いのセオリーです。
なにせ、インドの独立のための戦いなのです。
インド国民軍を先頭に立てて、なにが悪い。
しかし、牟田口中将以下の日本の将兵は、それをしませんでした。
自分たちが戦いの先頭に立ちました。

軍だけではありません。
個別に数名のインド兵を率いた日本の下級将校たちも、みんなそうした。

「この戦いで、日本は負けるかもしれない。
 しかし戦った日本兵の心は、
 インドの人々の心に残り、
 かならずやインドの人々の
 決起を促すであろう」

インパールの戦いは、まさに「肉を切らして骨を断つ」という戦いでした。
だからインパールは「作戦」です。
そして「作戦」は見事に成功しました。
なぜなら間もなくインドは独立を果たしているからです。

このお話には、さらに後日談があります。
英国にも日本の武士道に匹敵する騎士道精神が息づいています。
命を賭けた日本の将兵の戦いぶりに接したとき、たとえそれが国益であったとしても、英国の将兵たちは、果たして自分たちがインドを治めていることに、なんの意味があるのか、そんな気にさせられたのではないか、ということです。
作戦の全体を見る者、実際に日本兵と干戈を交えた英国の騎士たちは、インパールで日本の武士たちが示した、その「心」に気付いてしまったのです。

実際、インパールの戦いのあと、英国のインド駐屯隊が示したインド人の独立運動(英国軍に対する反乱軍)への対応は、当時の世界の常識からみて、あまりにも手ぬるいものとなりました。
まるでやる気が感じられないのです。

ガンジーたちの非暴力の行軍に対して、銃を構えたまま、ほとんど発砲すらせずに、これを通しています。
それ以前の英国軍なら、デモの集団のド真ん中に大砲を撃ち込んでいます。

そして大東亜戦争のあとに行われた東京裁判では、なんと英国は、まだ独立も果たしていないインドから、わざわざ代表判事を送り込んでいます。
そうです。
パル判事です。
そしてそのパル判事が日本を擁護する判決付帯書を書くことについて、当時の英国はまったくこれを容認しています。

なぜでしょうか?
どうして英国はパル判決を黙認したのでしょうか。
そもそも、植民地のカラード(有色人種)を、わざわざ判事に指名してきたのは、英国だけです。
その英国は、米国と同盟関係にあります。
ですから東京裁判にも、英国判事を出しています。

けれど英国は、自国の判事だけでなく、わざわざ有色人種のパル氏を判事として東京裁判の裁判官に名を連ねさせました。
およそ企業でも軍隊でも、用兵というものは、どういう人物を起用するかで、ほぼ決まるものです。
インド独立を希求するパル氏が判事となった場合、どういう判決を書くかは、裁判が始まる前から「わかる」話です。

英国にしてみれば、もし、英国領インドから送り出した判事が「気に入らない」なら、いつでも首をすげかえる、誰かに交代させることができたはずです。
けれど英国は、東京裁判という茶番劇(あえてこう書きます。はじめに結論ありきなら、それは裁判の名にさえ値しないからです)において、英国人判事には、米国との同盟関係に配慮して、連合国万歳の判決を書かせたけれど、植民地支配するインドの代表判事には、ちゃんとした「事実と正義」を判決として書かせています。
そこに、英国の「何か」を感じることはできないでしょうか。

インパールの戦い当時の英国のインドのトップは、英国王室の人物です。
世界がどんなに歪んでも、わかる人にはわかる。
パル判決書は、インパールでメッセージを受け取った英国王室と、戦い、散って行った日本の武士たちがこの世に送りこんだ、正義の書といえるのではないでしょうか。

おそらく、パル判事や、牟田口氏、インパールの戦いの英国側指揮官ウィリアム・スリム中将に、「そうなのではないですか?」と問うたとしても、彼らは、笑って何も語らないと思います。

なぜなら彼らは、まさに武士であり、騎士であるからです。
そして武士であり、騎士であるからこそ、敵味方の将兵に多くの死者を出したことへの悔いを持ち、それがあるから、いっさいの言いわけをしない。

しかしだからと言って、彼らの行った事実を、うわっつらだけみて、安全な場所にいるわれわれ後世の人間が、感謝こそすれ、評価するのは間違いだとボクは思います。
それは卑怯者のすることです。

インパールの戦いは、まさに世界史に残る「男たちの戦い」であったのです。
すくなくとも騎士道を持つ英国陸軍には、それがわかったのです。
わかったから彼らは、世界史に残る大会戦であるインパールの戦いについて、それを無用に誇ったり、記念日を作って祝ったりしなかったのです。

最後にもうひとつ。
インパールの戦いの退却行は、誰ひとり民家を襲うような非道な真似をしなかったのだけれど、そのことを誇るような記述をした人は、戦後、誰もいない、ということは、見過ごせない部分だと思います。

誇るどころか、関係のない民家を襲わないなんて、そんなことは「あたりまえ」のことにすぎない。
それが日本人だ、ということです。
そして、そうやってきたのが私たちの祖父の若き日であった、ということです。

世界では、襲うのがあたりまえで、襲わないことがありえない。
日本では、襲わないのがあたりまえで、誰ひとりそのことを誇ろうとさえしない。

さらにいえば、あの苦しい退却行において、生き残った人たちの手記を読むと、途中でビルマ人の青年に助けてもらった、あるいは民家の人たちが沿道で食事を振る舞ってくれたということに、心からの感謝を捧げている。
それが、若き日の、私たちの父の姿であり、お爺ちゃんの若き日の姿なのです。

なお、インパールの戦いについて、本文では、「負けるとわかって戦った」という一般の考察をそのまま記載させていただきましたが、異説もあります。
それは、インパール戦が、前半まで圧勝であったという事実です。
日本軍は、インパール街道の入り口をふさぐコヒマの占領に成功している。
コヒマの占領は、味方の補給ラインの確保を意味します。
従って、この段階では、日本軍側に補給の問題はなく、戦線は日本側有利に動いています。

このあと、牟田口中将は、近くにある敵の物資補給の要衝であるディマプールをつこうとしてます。
これが成功していれば、インパールの戦いは、日本の勝利に終わっています。
そのことは、戦後になって敵将が、はっきりと認めています。

戦後左翼のああだこうだの評論よりも、戦った相手の言う事と、その後、何が起こったのかをきちんと見ることの方がよほど真実に近いのではないかと思う次第です。

【参考記事】
◆勇敢で高潔で、誰からも好かれた日本軍人
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-712.html

◆チャンドラ・ボーズ
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-668.html

※この記事は2011年2月のねずブロ記事のリニューアルです。

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