サイパン戦は、昭和19(1944)年6月から7月にかけて行われた戦いです。
サイパン島の日本の守備隊は、陸海合わせて31,629名。
そこに、ホランド・スミス中将指揮のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団、66,779名が襲いかかりました。

島には、まだ約2万人の在留邦人が残っていました。
実は、サイパンでは、戦いの4カ月前の2月から、兵員増強のための輸送船の帰り船を利用して、女性や老人、子供たちの日本への帰国を推進していたのですが、3月には帰り船が米潜水艦に撃沈され、500名の民間人全員が死亡してしまっています。
サイパン島の周囲は、既に米潜水艦隊が包囲網を完成させていたのです。

島から脱出しようとした船舶は、民間船に対しても無差別の攻撃を加えました。
この結果、島にはまだ婦女子を含む在留邦人が2万人も残っている状況下で、戦いの火ぶたが切って落とされたのです。

6月11日、アメリカ軍艦載機1,100機がサイパンを奇襲ました。
13日には、戦艦8隻、巡洋艦11隻、ならびに上陸用船団を伴った艦隊がサイパンに接近し、小さなサイパン島に、なんと砲弾合計18万発もの艦砲射撃が加えられました。
この攻撃で日本側の陣地は壊滅し、航空機150機のすべてが失なわれました。
それでも日本軍は、物資の乏しい中を必死の防戦図り、なんとまる一ヶ月も米軍をサイパンに釘付けにしています。

戦死25,000名、自決5,000名。
7月7日午前3時、約3千名の日本兵が、最後のバンザイ突撃をして玉砕しました。

平成14(2002)年5月のことです。
作家、重松清さんのもとに、NHKの渡辺考ディレクターから、一本のメールが届きました。

当時NHKが、サイパン戦の検証番組を作るために、ワシントン国立公文書館に保存されていた機密扱いのサイパン従軍日本兵の手紙や日記を翻訳した20あまりの文書を用意していたのです。
そのまま手帳などが残されているものもありますが、大半は米軍が日本研究のために原文を英文に訳したものです。
原文自体はほとんどが破棄されてしまっています。

その中に、ナガタカズミ大佐が激戦のさ中に戦況を克明に綴った日記がありました。

 *

「ナガタカズミ海軍大佐の日記」

七月四日
命令に従い、私は艦隊司令部に出頭した。
いまや司令部は前線と化し、空襲の真っただ中にある。
生きて帰れるかわからなかったが、任務終了後、無事に戻ることができた。

とうとう最後の抵抗をする判断が下された。
ひと月にわたる激しい戦艦の砲撃と、絶え間ない空襲に対抗し、前線のわが軍人、兵士達は立派に戦った。

このように絶望的な状況下で戦えるのは日本人だけであろう。
しかし敵の圧倒的な火力を目のあたりにして、さすがの大和魂も歯が立たない。
サイパン島は小さすぎる。
身長150センチと小柄な私でさえ隠れることが困難だ。

七月五日
あと一日か二日で最後を迎える。
何も思い残すことはない。
出来る限りのことは行った。
私の心はおだやかで満ち足りている。
これが運命だ。こうなることが決まっていたのであろう。
どのように名誉ある最期を迎えられるかのみを考えている。

わが妻、シズエへ。
何も言い残すことはない。
君と結婚して十七年がたった。

幸せな思い出に満ちた十七年だった。
来世への思い出でこれ以上のものはないだろう。
君になんとか恩返しをしたかった。
感謝の気持ちでいっぱいだ。

私のぶんも、子供たちを可愛がってほしい。
私が至らぬために、子供たちに迷惑をかけるかと危惧している。

これまで過ごした年月に対し、君になんと礼を言えばいいのかわからない。
体を大切にして、末永く充実した人生を送ってほしい。

今後日本は、本当に困難な時期を迎えるだろう。
日本は、あらゆる勇気を奮い起して困難を乗り越えねばならない。

君は優しすぎる。
父親を亡くした息子たちのよい相談相手になってやり、彼らを強く、廉直な日本人に育ててくれ。

日本がある限り、暮らしに困ることはないだろう。
万一の時が来たら、日本人として名誉ある最期を迎えてほしい。
高宮の父、兄姉、そして板付の義母、義兄、それから「てつお」にくれぐれもよろしく伝えてくれ。

コン、マサ、ヤスへ。
強い正直な日本人になってくれ。
将来の日本を担ってほしい。
兄弟どうし、互いに協力しあい、全力を尽くしてお母さんを助けてあげてくれ。

コンとマサ、君達は兄としてヤスの面倒をよく見てやってくれ。

この日記を託す森海軍中佐は、瀬尾の同級生である。
機会が出来次第、瀬尾に会いに行き、何が起きたのか細かい事情を聞いてほしい。

敵の戦闘機の砲撃や空襲が頭上を飛び交っている。

これまで過ごしてきた年月に対し、君になんと礼を言えばいいのかわからない。
体を大切にして、末長く充実した人生を送ってほしい。

カズミより
ナガタシズエ様
(昭和十九年七月五日)

 *

この日記(遺書)は、家族には届けられませんでした。
全員玉砕してしまったため、届けられる人がいなかったのです。

取材班は苦労の末ナガタさんの遺族を見つけました。
妻の静江さんは、95歳でご存命でした。
静江さんに、60年前に夫が残した最後の手紙を渡しました。

静江さんは、静かに日記を読み始めました。
「敵の戦闘機の砲撃や空襲が飛び交ってる・・・」
大変な状況やったんやな・・・

そのあと、静江さんは声を立てて泣き崩れました。
大粒の涙がぽろぽろとあふれていました。

「これまで過ごした年月に対し、
 君になんと礼を言えばいいのかわからない。
 体を大切にして、
 末永く充実した人生を送ってほしい。
 和美より
 長田静江様」

静江さんは、和美さんの遺書を読んでいたのです。
静江さんは、日記を読み終えた後も泣き続けました。

重松氏が、沈黙を破るように口を開きました。
「静江さん、ひとつ教えてください。
 ボクは、この日記を持ってきてよかったですか?
 本当は持ってくるべきではなかったかもしれないと思っていました。
 迷いがありました。」

それは事実でした。
ここに来るまで重松氏は、他人の古い悲しみを呼び覚ますだけではないのかと、その権利が戦後生まれの自分にあるのか。
どうしても届けたいと思うのは、自分のエゴじゃないのか、と真剣に迷っていたのです。
そして、いま、目の前で泣き続ける老婆を目の前にして、重松氏は自分の選択に自信がなくなっていたのです。

静江さんは、声を震わせながら、重松氏を見つめました。
「夫がそんな気持ちであったかと思うと、
 ありがたい気持ちでいっぱいになりました。
 見せてもらって、
 ほんとうによかったです。
 ありがとうございました」

静江さんは、サイパンへ出征する和美さんを見送った日の光景をはっきりと記憶していました。
それは昭和19年2月のことでした。
静江さんは、線路沿いの道端で、列車を待っていました。

「ここでよいと言われて
 家の前で別れたのですが、
 私はもう一度姿を見たいと思って、
 いちばん下の康をおんぶして、
 日の丸の小旗を手に、
 近くの国鉄の線路まで急ぎました。

 そして線路わきに立っておりました。

 間もなく通りかかった汽車の窓に
 目を凝らしておりましたら、
 主人はこぼれるような笑顔で、
 デッキに立っていました。

 ふだん笑顔なんか
 見せたことがないので、
 私はびっくりしました。

 軍服姿で、
 白い歯を出して、
 こちらに笑いかけたのです。

 主人は軍の帽子を
 頭の上で高く
 大きく回しながら
 振っております。
 いつまでも
 いつまでも
 振っておりましたよ。

 そしてその線路が
 まっすぐなんですよね。

 笑顔は見えなくなり、
 帽子もだんだん小さくなり、
 最後、
 鉛筆の芯ほどの
 黒い天になって
 消えて行きました。

 私は夢中で小旗を振りながら、
 熱い涙を
 こらえることが
 できませんでした」

静江さんは立ち上がると、重松氏と渡辺氏に深々と頭を下げていいました。

「思い出をいただいて、
 こんな嬉しいことはありません」
「最高の宝物をいただいた思いです」

重松氏は、長田邸を出たあと、長田家の墓へ向かい、和美さんの霊につぶやくように報告しました。
「長田さん、
 日記、
 お届けしましたよ」

参考・引用「最後の言葉」戦場に残された二十四万字の届かなかった手紙
https://amzn.to/49ocLLK
著 重松清・渡辺考 講談社

この本をもとに、junhagemayさんが、この物語を動画にしてくださいました。

国旗の重み ~六十年の時を経て届いた手紙~
https://youtu.be/MFOt5TqOKFs?si=GuZCNWMw26n2VPas

もしこの記事をNHKの職員の方で読まれた方がおいでなら、ひとことメッセージを伝えたいと思います。

あなたがたNHKは、インターネットで「NHKオンデマンド」というサイトを持っています。
そこでは、過去の様々な放送の視聴ができますね?
そこで過去、上記の物語、NHKハイビジョンスペシャル「最後の言葉 作家・重松清が見つめた戦争」が視聴できたようなのですが、いまは観れなくなっています。
下の方に、「該当データがありません」と小さく表示されています。

「最後の言葉」の言葉の本を読んだらわかりますが、あなたがたNHKのスタッフは、当初、露骨に日本軍がサイパンで民間人を追い込み、死に至らしめたという内容の番組を作ろうとしていたようですね?
はじめから故意に意図を持った番組を計画していた。

しかし実際に番組収録をはじめたとき、番組スタッフたちが、ひとりひとりの人間の最後の言葉の重みに気付き、番組は当初の企図をはずれて、まったく別な「真実」を伝えるものになった。

オンデマンドでの視聴をできなくしたのは、そういうことからなのですか?
だとしたら、それはとても残念なことです。

長田大佐の死を前にした言葉の重みと、60年目にして手紙を届けてもらった奥様のお言葉の重みの前に、あなた方NHKの企図がけしとんだのではないですか?

公共放送に携わる者として、1万遍の嘘は、一片の真実に及ばない事実を、あなた方は見せつけられたはずです。

だからといって、そういう番組が過去あったという事実を隠ぺいするのは、公共放送に携わる者として、恥ずかしくないのですか?

あなた方も、同じ日本人です。
妻を愛し、子を愛する、普通の人間です。
そして、戦争でなくなられた兵士や一般の方々も、
やはり同じ、妻や子を愛する同じ日本人であったということを、
もういちど思いだしていただきたいのです。

あなた方NHKのみなさんは、かつて戦後60年経った遺書を、ご遺族の方にお届けするというやさしさと良心を持った。
そういうやさしさと良心こそが、国家の公共放送局のスタッフとして、あるいは局として、いちばん大切なものなのではないですか?

※この記事は2010年2月のねずブロ記事の再掲です。

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六十年の時を経て届いた手紙” に対して3件のコメントがあります。

  1. 長島金さん より:

    アメリカから見れば日本は世界で1番強い恐ろしい国、白人以外は人間扱いしない、先住のインデアンを見ればわかる、原爆投下、東京大空襲など、皆さん拡散して下さい。小名木先生ありがとうございます。尊敬しております。

  2. 鉄太郎 佐藤 より:

    遺言にある、強く正しい日本人の一人になります。合掌。

  3. 和久田日出夫 より:

    悔しいけれどただ涙するだけです。公職者を追放して公職に就いた3流の共産主義の連中が日本を壊してしまいました。小名木様の日本人の魂を取戻す活動に感謝いたします。

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