清水次郎長といえば、幕末から明治にかけて、東海道だけでなく全国に名を轟かせた大親分です。
石松の三十石船で有名な広沢虎造の浪曲をはじめ、かつては映画やテレビで繰り返し取り上げられ、日本中、知らない人はいないってほとの人物でした。
ところが残念ながら、こんにちにおいては、若い人に清水次郎長と言っても、知っている人のほうがはるかに少ない。
メディアの影響とはいえ、残念なことです。

清水次郎長は、文政3(1820)年1月1日に、いまの静岡県清水市に生まれた人で、この当時、元旦の生まれの子は極端に偉くなるか、とんでもない悪い奴になるかのどちらかと相場が決まっているとされていて、ならばしっかりとした人に育ててもらわなければならないだろうということになって、生後まもなく母方の叔父で米屋を営む甲田屋の主(あるじ)山本次郎八のもとに養子に出されました。

清水次郎長の本名は山本長五郎ですが、その「山本次郎八さんの家の長五郎」が詰まって、次郎長と呼ばれるようになったのだそうです。
ところがその養父の次郎八が逝去し、若くして次郎長が甲田家を継いだのが次郎長15歳のとき。
この頃の清水港は、小さな廻船港で、富士山の脇を流れる富士川を利用して、信州や甲府で集められた年貢米をいったん清水港に集め、そこから年貢米を江戸に海上輸送していました。
甲田屋は、そんな米の輸送業を営むお店で、その後次郎長は結婚もして家業に精を出すのだけれど、天保14(1843)年、ふとした喧嘩のはずみで、人を斬ってしまう。

そこで次郎長は妻と離別し、姉夫婦に甲田屋の家督を譲って、江尻大熊らの弟分とともに清水港を出て、無宿人となって諸国を旅してまわります。
これが凶状旅(きょうじょうたび)と呼ばれるもので、罪を背負った人が、あちこちの親分さんのところを回り、一宿一飯の世話になりながら、全国行脚する、ということが行われていました。

江戸時代は、各藩がいわば独立国のような存在でしたから、駿府で犯罪者となっても、国を出れば捕まらない。
そこで時効が確立するまで、名だたる親分衆のところを全国行脚して男をみがく、といったことが行われたわけです。
この「犯罪者であっても、自分をみがくことに意義が見いだされていて、それが社会の常識となっていた」という点は、江戸時代における日本の一般庶民を理解する上で、とても大事な要素です。

これは神話からくる思想で、我が国は宝鏡奉斎といって、鏡は天照大御神から渡された神聖なものです。
「かがみ」は、「か《見えないちから》」と、「み《身》」との間に「が《我》」が入った言葉です。
ですから「かがみ」の前で「が《我》」を取り払えば、それが「かみ《神》」になります。
そして鏡は、ほっておけば曇ります。
ですから鏡は、常に磨かなければなりません。
これと同じように、生涯をかけて自分を「みがく」こと、磨き続けることが、とても大切なこととされていたのです。

まして事情があったとはいえ、凶状持ちとなった身です。
全国の名だたる親分さんたちをめぐり、教えを請うて、より一層自分をみがく。
そしてその土地の神社をめぐり、神様とのご縁を深めていく。

こうした旅は、いわば自分から進んで行う懲役刑のようなものといえます。
懲役を、役人の手をわずらわせるのではなく、むしろ自分から懲役を(自分の意志で)実行する。
そうすることで犯罪を犯した過去の自分よりも、さらに一層進歩した磨かれた自分に成長して、国に帰るのです。
そういうことが、人生修行としての、「みがき」だと考えられ、常識化していたのが、江戸時代の文化です。

もちろん、悪事を働くことや、ましてや人を殺めることは、決して褒めた話ではないし、してはいけないことです。
けれど、それをしなければならなくなった自分というものは、もういちど魂を根底から磨き直さなければならない。
そのためには、お上の手をわずらわせるのではなく、自分から進んで魂みがきの旅に出る、ということが行われていたわけです。

ちなみに(ここも大切なことなのですが)、凶状持ちの犯罪者は、全国どこの都市でも、長屋(ながや)などに住むことはできませんでした。
長屋というのは、いまでいうアパートや賃貸マンションのことですが、長屋に入居するためには、誰か身元保証人が必要です。
しかしそれだけではなく、仮にもし、その長屋から犯罪者が出たり、あるいはその長屋が犯罪者をかくまっていたと知れた場合には、その長屋はお取り潰し、つまり完全撤去されるのみならず、向こう三軒両隣は、以後許可が出るまで、通常の三倍課税、長屋の大家は逮捕遠島、長屋の地主もまた遠島を命ぜられました。
要するにものすごく厳しい制裁が課せられていたのです。

ですから清水港で失敗したからといって、安易に江戸や大阪などの大都市に移り住むとかいうことなどまったくできなかったし、だからこそ、親分衆のもとを転々とするしかなかった。
そしてそのことを逆に利用して、より魂を磨こうとした人たちがいた・・・と、そういう社会文化が人々の間に定着していたのです。

ひるがえって現代を見るに、果たして庶民の安全は図られているといえるのか。
犯罪者でさえも、自ら自分を罰し、自ら魂を磨くという考えに至ることが常識となっているといえるのか。
あまりにも江戸文化、あるいは古くからの日本の文化を、軽くみすぎてきてはいないか。
いまの日本で、果たして江戸時代のような、自ら懲役を科すこと、およびそのことに民衆が理解を示し、かつ歓迎することは、果たして可能でしょうか。

日本は、意外にすごい国なのです。
そんな日本を、もう一度、しっかりと見直してみるということは、とても意義のあることではないかと思います。

※この記事は2020年2月のねずブロ記事のリニューアルです。

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