アブダクションというと、すぐに思い浮かぶのは「UFOによってアブダクション(拉致)された」という用語の使い方ですが、実はアブダクション(abduction)には、もう少し違う使い方があります。
アブダクションの語源はラテン語の「abducere」で、もともと「別な側に転じる」という意味を持つ言葉です。
そこから「UFO拉致」の意味にも用いられるのですが、論理学の分野での用語としてのアブダクションは「仮設形成」という意味の言葉になります。

哲学的な思考として昔からよく言われるのは、
 演繹法(デデュケーション/deduction)
 帰納法(インデュケーション/induction)
の2つです。どちらも論理的推論のための手法です。

演繹法(deduction)は、17世紀にフランスの哲学者ルネ・デカルトが提唱した論理的思考方で、複数の事実を足し合わせることで結論を導きます。
(結論)日本人はK-POPが好きである。
(理由)なぜなら日本人のA子もB子もC子もK-POPが好きだと言っているから。

演繹法は一般的な法則から特定の結論を導こうとします。
ですから一般的法則が先にあり、結果が後付けになります。
演繹的思考に思考の発展はありません。
なぜなら先に結論があるからです。
現実にはK-POPが好きではない日本人もいるのです。

帰納法(induction)は、具体的な事例から一般的な法則や原則を導き出す考え方です。
(理由)日本人のA子もB子もC子もK-POPが好きだと言っている
(結論)日本人はK-POPが好きである。

一読して、これが詭弁であることは、すぐにわかることです。
いくら事象を並べてみたところで、世の中には例外もあるからです。
帰納法的展開は、データに基づくシミュレーションにも応用されますが、実際にシミュレーション作った方はおわかりになるかと思いますが、基本的なパラメーターは、すべて「エイヤッ!」で決められていたりします。
そしてパラメーターが変われば、導き出される答えは真逆になります。

有名なランチェスターの法則は、10人と100人が戦えば「√(100−10)=9.49)となり、10人が全滅したとき、100人の側は95人が生き残ると計算されます。
けれど、10人の側がプロの格闘家、100人の側が小学生の子供達であったなら、10人の側が勝利したとき、100人の側が全滅しているかもしれません。
あるいは100人の側が逃げ出すかもしれない。
我が国には、1500人の追っての軍団を、イザナギがたったひとりで桃の実を3個使って撃退したという神話があります。
世の中、なかなかランチェスターの法則通りにはならないのです。

演繹法とか帰納法とか、何やら難しい用語で誤魔化されていますが、簡単に言えば、この両者はそれぞれ、
演繹法=結論の決めつけ
帰納法=結論への誘導
です。

これに対し、もうすこしマシな第三の思考方法があるのではないかと言い出したのが、アメリカの哲学者のチャールズ・パース(1839年〜1914年)です。
彼は存命中はまったく評価されなかったけれど、いまでは「アメリカが生んだもっとも偉大な論理学者」と言われています。
まあ、世の中を良い方向にひっくり返すような偉大な人物というのは、存命中はあまり世間から評価されないものです。
だいたい死んだ後に、高く評価される。
ゴッホしかり、セザンヌしかり、モーツアルトしかりです。

このパースの唱えた思考方法が「アブダクション(abduction)」です。
「アブダクション」は、日本語では「仮定的推論法」と訳されます。
演繹、帰納と異なり、次のような論理展開になります。

(現象1)コリアは、反日である。
(現象2)A子、B子、C子はK-POP好きである。
(仮説)もしかすると文化は政治の対立を乗り越えることができるかもしれない。

つまり「アブダクション(仮定的推論法)」は、演繹法のように「はじめに結論ありき」でもなければ、帰納法のように結論を求める(解を求める)ものでもなく、あくまで「事実に基づいて」、「もしかして」と「仮説」を立てようとするわけです。

そして仮説が立てられることによって、「ではそのために何ができるのか」といった次のステップが生まれてきます。
まさに語源となっているラテン語の「abducere」の意味である「別な側に転じる」ことができるわけです。

神話を読んだり、古典を読んだりするときに、あらかじめ与えられた読解に基づいて、あくまでその範囲で読むのは演繹的な読み方です。
たとえば、アメノウズメが、天の岩屋の前で、裸になってカンカン踊りをして八百万の神々が大喜びしたという、従来どおりの解釈に基づいて、その範囲でなければ古事記を読むことが許されないというのは、演繹的な思考です。

そこで古事記の解説書を、たくさん集めてきて、それぞれの解説書が、この場面をどのように解釈しているのかを取りまとめるのが、帰納法的アプローチです。
けれど、そこで集めてきた資料のことごとくがカンカン踊り説ならば、結論はカンカン踊りにしかなりません。
とりわけ我が国の場合、まともな書籍はGHQの焚書で、みな燃やされてしまっているわけですから、まともな研究文献を引用したくても、現実には引用自体が不可能であったりもするわけです。

そこで原点に戻って、つまり本当にそうなのか、古事記の原文立ち返って、そこに書かれている文を読んでみます。
すると次のように書かれています。
「為神県而、掛出胸乳、
 裳緖忍垂於番登也。
 尓高天原動而、八百万神共咲。」

「掛」という字は手偏で、手で胸を出したということです。
けれど、続く「裳緖忍垂於番登也」というのは、ハカマの腰紐を前に垂らしたという意味です。
つまり別に裸になったわけではなくて、前に垂らしたハカマの腰紐を揺らしながら踊ったと書いているのです。
別に裸になったわけではないとわかります。
ここで、これまでの「カンカン踊り説」は全否定されます。
帰納法的に結論を得ようとして、関連書籍を集めて、ひとつひとつを精査してきたすべての努力が水の泡になるのです。

現実には、すべての書籍を集めて、そこにどのように書かれているのかを調べることは、不可能です。
だからその不可能なことのために、延々と時間だけを費やす。
結果、何の意味もないまま、ただ学問のためにするためだけの学問、もっというなら、教授の趣味に付き合うだけのゼミになってしまうわけです。
そして、そこから何も得ることはできない。

これはもったいないことです。
ではどうしたら良いのかといえば、たったひとつのことをするだけです。
それは、
「別な解釈があるのではないかと考えて
 原典に帰って一から読み直してみる」
たったそれだけのことです。
もっというなら、
「原典に還って自分の頭で考える」ということです。

そもそもそこでカンカン踊りとすることに、何か意味があるのか。
子供にも読ませるような神話に、カンカン踊りを登場させることに、そもそも意味があるのか。
ほんのすこし常識を働かせて考えれば、すぐにおかしいと気づくことができます。

この「常識を働かせる」ということが、新たなな仮説を導きます。

古典に限ったことではありません。
営業成績をどうしたら向上させることができるのか。
人間関係のつまづきを、どのように解決したら良いのか。
恋愛の悩みから、どうしたら抜け出せるのか。

そうした悩みや疑問について、事実に基づいて、もしかするとこうなのではないか、と推論を重ね、別な側に転じる。
これがアブダクションです。

解がある演繹法でもなければ、解を求める帰納法でもありません。
原典に還って別な側に転じるのです。
これまでと同じ行動をしているだけなら、あたりまえのことですが、
「同じ行動からは同じ結果しか生まれない」ません。
だから、
「ちょっと見方を変えてみる」
たったそれだけのことです。

そして新たな仮説を立てる。
これがアブダクション(abduction)です。
こうすることで、「もしかして」と、「別な側に転じる」のです。

アブダクションによって得た結論は、必ずしも正しいものとは限りません。
しかし、そこで得ることができる新しい見解の創造は、新たな可能性と、未来に向かう建設性を招きます。

もともと日本人にたいへんに人気のあった秀吉は、近年のドラマなどでは、まるで悪の権化のように描写されています。
これは半島系の方が、「自分たちは秀吉によって侵略された」という歴史観を持つからだと言われています。
つまり思考が演繹的です。

これに対し、歴史的事実をひとつづつ挙げて、反証が行われたりします。
つまり帰納法的な反論が行われるわけです。
けれど演繹的に信じ込んでいる人たちは、論理では説得できません。
つまり帰納法的展開では説得できないのです。

アブダクションの場合、まったく違った展開になります。
そもそも「⚪︎⚪︎された」と言い張るのは、被害者でいることに彼らがメリットを感じているからです。
そうであれば、被害者であることに何のメリットも経済的利得もない社会を築くためにどうするか。
つまり別な側に転じる。
この思考がアブダクションです。

※この記事は2021年2月のねずブロ記事のリニューアルです。

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