どんなことでもそうですけれど、すべてのことの成り立ちには、その理由と歴史があります。
日本における大調和の精神というものも、はじめからあったわけではなくて、時代ごとに様々な経験をしながら、そのなかで必死に調和の道を模索し続けた結果が現代に至っているものです。
とりわけ信仰上の対立となると深刻で、まさにいまでもそのために戦争が起きています。
さらにこの「信仰上の対立」に、「有力者の経済的得喪」が絡んでくると、事態は更に深刻で、国際外交であれば戦争に至るし、国内問題であればほぼ間違いなく内乱になります。
そして、乱や戦争が起きれば、都度、犠牲になるのは一般庶民の若者たちです。
元海軍航空隊松本裕昌氏は、次の言葉を著書の『我が予科練の記』で述べられています。
我々は、今後決して、
権力者の野望を満たすために、
若者のエネルギーを、命を、
奪ってはならないし、
また奪われてはならない。
この言葉の通りなのです。
内乱や戦争のようなものは、その背景に必ずといってよいほど、権力者の損得勘定があります。
これがなければ、人類史上の戦役の、おそらく99%は防ぐことができたであろうものと思います。
なかでもとりわけ深刻な、信仰と利害が結びついた古代の紛争を、私達の祖先は、どのようにして乗り越えてきたのでしょうか。
第30代敏達天皇の即位14年春2月24日のことです。
この日、蘇我馬子が流行病に倒れました。
そこで占い師に問うと、
「父のときに祀った仏を放置した祟り」
との卦が出ました。
蘇我氏は大臣(おほおみ)です。
公人なのですから、結果は天皇にも奏上されました。
すると天皇は
「卜者の言葉に従って、
父の神(=稲目が祀った仏)を祀りなさい」
と詔(みことのり)されました。
このときの病は、実は国中に広がって、多くの民が亡くなっていました。
そのような情況の中で、天皇が「仏を祀れ」と詔されたと聞いた物部守屋大連(おほむらじ)は、3月1日、中臣勝海とともに禁裏にまかりでました。
そして主上に
「なにゆえ
我らの言葉を
用いないのでしょうか。
父天皇であられる欽明天皇から、
陛下(敏達天皇)の時代に至るも
病が流行して、
国の民の命が絶たれています。
それは蘇我臣が
仏法を興しているからで
ございます」
と奏上します。
天皇は
「それが明らかならば、
仏法を止めよ」
と詔されました。
こうして3月30日には、物部守屋は自ら寺に詣出て、床几(しょうぎ)に座ると、寺の塔を切り倒し、これに火をつけ、仏像と一緒に焼き払いました。
さらに焼け残った仏像を取って、難波の堀江に捨ててしまいます。
この日は雲が無いのに風が吹き、雨が降っていました。
物部守屋は雨衣を被りながら、蘇我馬子に従う仏僧らを詰問しました。
さらに蘇我馬子が供えた尼たちを呼び寄せると、彼女たちを牢屋に預けました。
牢番たちは、尼たちの三衣(さむえ)を奪い、縛り上げて市販の馬を叩く棒で、楚撻(そうち=鞭打)ちました。
(便奪尼等三衣、禁錮、楚撻海石榴市亭)
ところがそうまでしたのに、一向に疫病がおさまる気配はありません。
蘇我馬子は、
「これは
物部氏が
仏像や仏僧らに
ひどい仕打ちをしたから、
仏罰が下ったのだ」
と言い出します。
こうして、6世紀の日本は、蘇我氏と物部氏の相克の時代となっていきました。。。。。と、以上は日本書紀にある物語です。
結局、587年の丁未の乱で物部氏は滅ぼされ、蘇我と物部の対立に決着が付きます。
ひとつ、偉いと思うことがあります。
この乱を通じて、物部守屋は、仏像を焼き払うときも、捨てるときも、そして蘇我馬子に屋敷に攻め込まれたときも、常に自分が先頭に立って指揮し、弓を射、常に最前線にあり続けたことです。
これに対して蘇我の側は、大将は常に戦いの最後尾にありました。
このことが意味することは重大です。
なにか大きな衝突が起きたとき、
衝突を仕掛ける側と仕掛けられる側があれば、
仕掛けられた方は、たいていの場合、大将自らが先頭に立って戦うし、
仕掛ける側は、大将は後ろに隠れて前線には出てこないものだということだからです。
このことは洋の東西を問いません。
古代ギリシャのレオニダス王は、100万のペルシャ軍に対してテルモピュライの戦いで、まさに先陣を切って果敢に戦い、300人の将兵ともども全滅しました。
その勇気の戦いは、二千年経った現代においても、西欧では勇気の物語として語り継がれています。
しかし、レオニダス王の戦いよりも、はるかに深刻な戦いを、我が日本軍はあちこちで展開していました・・・とまあ、そのお話は置いておいて・・・現代でも、さかんに攻撃を受けている政党などがありますが、攻撃されている側は、代表自らがその矢面に立って戦っています。
一方、攻撃を仕掛ける側に、裏で情報等を提供している人も、攻撃資金を出している人も、決して表舞台には登場してきません。
さて、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼしますが、それでも仏教と、日本古来の神道との間には、その後も軋轢がきしみ続けます。
そうした時代下にあって、593年、推古天皇が御即位され、聖徳太子を摂政に親任されました。
聖徳太子は、翌年2月1日に『三寶興隆の詔(仏教興隆の詔』を推古天皇の御名で発しました。
「三寶」とは仏法僧のことです。
「三寶興隆の詔」の具体的文言等は伝わっていません。
ただ、この詔によって、当時の貴族たちが競って親の恩に報いようと仏舎を造営しました。
そしてこの仏舎のことを「寺」と呼ぶようになったと記されています。
(原文=是時、諸臣連等各為君親之恩競造佛舍、即是謂寺焉。)
聖徳太子もまた、国の寺として、飛鳥寺、法隆寺(斑鳩寺)、中宮寺(中宮尼寺)、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺(葛城尼寺)、叡福寺、野中寺、大聖勝軍寺などを次々に建立していきます。
こうして仏教の興隆を十分に図ったあと、『三寶興隆の詔』の13年後に、聖徳太子は、
607年2月『敬神の詔』
を推古天皇の御名で詔するのです。
そこには以下のように書かれています。
「古来わが皇祖の天皇たちが、
世を治めたもうのに、
つつしんで厚く神祇を敬われ、
山川の神々を祀り、
神々の心を天地に通わせられた。
これにより陰陽相和し、
神々のみわざも順調に行われた。
今わが世においても、
神祇の祭祀を
怠ることがあってはならぬ。
群臣は心をつくして
よく神祇を拝するように」
(原文=朕聞之、曩者、我皇祖天皇等宰世也、跼天蹐地、敦禮神祗、周祠山川、幽通乾坤。是以、陰陽開和、造化共調。今當朕世、祭祠神祗、豈有怠乎。故、群臣共為竭心、宜拝神祗。)
つまり、神々を敬い祀るのは「神々の心を天地に通わせるため(幽通乾坤)」と詔されたのです。
ここにある「幽」という漢字は、糸が燃えている様子の会意象形文字ですから、そのようなかすかな灯りを頼りに天神地祇とつながるのです。
かすかな灯りは、たいせつにしないと消えてしまいます。
そしていつの世においても、庶民の声は、国政の前には常に「かすかな灯り」です。
つまり「かすかな灯り」を大切にするということは、そのままひとりひとりの民草をたいせつにしていくということでもあるのです。
道とは、生活習慣のことです。
ですから生活習慣としての祭祀を「怠ってはならぬ」と述べているのです。
神々の御心をしっかりと通していく道が、陰陽調和の道であるとされたのです。
仏教に帰依し、信心することも大切です。
同時に幽通乾坤のための祭祀も大切です。
前者は信仰であり、後者は生活習慣です。
対立する必要はないのです。
こうして我が国は、神道と仏教を見事に大調和させていきました。
後年の歴史において、我が国ではこの詔の後、仏教宗派同士の衝突は起きていますが、神社間の争いはおろか、神社とお寺の対立や闘争は、ひとつも起きていません。
このようにして、我が国は大調和の精神を熟成してきた歴史を持つのです。
※この記事は、2023年2月のねずブロ記事を大幅にリニューアルした記事です。