トップの写真はグアムのラッテ・ストーン (Latte stone) です。

ラッテ・ストーンというのは、グアムなどのあるマリアナ諸島に見られる石柱群です。
ところがこのラッテ・ストーン、「9世紀から17世紀にかけて作られた古代チャモロ文化の遺跡らしい」という以外、何に使われたのか、どのように使われたのかなど、まったくわかっていません。

現地の人々は、ラッテ・ストーンには「タオタオモナ」と呼ぶ祖先の霊が宿っているといいます。
「タオタオモナ」が何者なのかは、謎です。

けれど、これをローマ字で書くと「tao tao mona」です。
なんだか「to toi mono(尊いもの)」が転じた言葉のような気がします。
あるいは「tae nai mono(絶えないもの)」かもしれません。
絶えないもの、絶やしてはいけない精霊が宿っている。
あるいは尊いもの、捧げなければいけない尊いものが宿っている等々です。

日本の縄文文化との関わりを指摘される方もいます。
縄文人たちは南米までも交易していたというし、古代から海洋交流をさかんに行なっています。
最新の古代史研究では、どうやら古代倭国は、九州から朝鮮半島南部、琉球、台灣、フィリピンから東南アジア、太平洋から南米まで影響力を持った巨大国家であったとされるようになってきました。

つまり、大東亜戦争の当時に、日本領となっていたエリア、それは地球の3分の1を占める広大なエリアですけれど、それがまさに先史時代には、倭国とその影響下にある巨大連邦だったという説です。

チャモロという音自体、もしかすると「to toi mono(尊いもの)」が転じた言葉なのかもしれません。
なんだか言葉の遊びみたいに思えるかもしれませんが、たとえば中世のインドに「ムガール帝国」という大きな王朝があったことはみなさんご存知と思います。
「ムガール」というのは、「ムガル」つまり、モンゴルが転じた言葉です。
日本では、たとえば東北の方ですと、元寇で攻めてきた蒙古のことを「ムグリ」と発音します。これと似たようなものです。

ひとつの言葉は、それぞれの国や民族の言語に訳されますが、その国の言語によって、いわば「なまり」が生まれ、表記するときに変化します。
ですから、日本は、ヤマトを「日ノ本」と国号しましたけれど、その「日本」は、中国語の発音だと、「ジツ・ポン」です。
その「ジツ・ポン」をマルコ・ポーロが自国語に翻訳したとき、これを「ジパング」と訳しました。
その「ジパング」がヨーロッパ諸国でいろいろに訳されて、英語圏では「JAPAN」となっています。
つまり「JAPAN」は、「日本」という漢字の音読みなのです。
※現代中国語では、日本は「リーペン」と発音します。「ジツ・ポング」と発音したのは14世紀のチャイナです。チャイナは王朝が交替するたびに民族と言語が入れ替わってきた国です。日本語の漢字の音読みが複数あるのはこのためで、呉音、漢音、唐音など、ひとつの漢字に複数の音読みがあります。

さて、グアムのチャモロ人たちが、ラッテ・ストーンが何に使われたものかわからなくなっているのですが、わからなくなった理由は、16世紀にさかのぼります。
ある日、スペイン人たちがやってきて、彼らの持っていた文化を徹底的に破壊してしまったのです。
南米と似ています。
南米も、インカ帝国は、遺跡はあるけれど、それが何のために築かれたのか、どのような文化がそこにあったのか、いまではまったくわからなくなっています。

ちなみに近年では、インドネシアのボロブドゥール遺跡に、アウトリガーの付いた外洋帆船と共にラッテ・ストーンと思われる石柱の上に建造物が乗っている壁画が発見され、このことからラッテストーンは、建造物の土台説が有力となっています。

さて、グアム島を含むマリアナ諸島に人が住みついたのが、紀元前3000年~2000年頃だといわれています。(もっと古いという人たちもいます。)
マレーシアやフィリピン、インドネシアから、カヌーに乗って移住してきたといわれていますが、確証はありません。
一方、魏志倭人伝によると日本は黒歯国といって、どうやら南米のエクアドルあたりまで進出していたようですから、縄文人たちが進出していたのかもしれません。
このあたりはいまとなっては、歴史の闇の彼方のお話です。

ヨーロッパ人がグアムにやってきたのは1521年のことで、マゼランがヨーロッパ人としてはじめてでした。
そしてグアム島は、1565年にスペイン人のレガスピがやってきて、島の領有を宣言し、スペインの植民地となりました。

現地の人とスペイン人との間には、何度となく激しい戦いがあったようです。
しかし、スペイン統治の333年間に、先住民であるチェモロ人の純血種は絶えてしまいました。
現在島にいるのはスペイン人との混血だけです。
そして、チェモロ人たちの文明がどのようなものであったのか、どのような歴史を持っていたの、どのくらいの人口があったのかさえも、いまでは、まったくわからなくなっています。
チェモロの歴史は、完全に絶えてしまったのです。
いまのこっているのは、石でできたラッテ・ストーン、ミクロネシアダンス、庶民の生活、恋人岬の伝説、そしてスペインなまりのチェモロ語など、その痕跡しか残っていません。

植民地になる、他国に占領される、それはそうなることを意味します。
日本もかつて占領統治を受けました。

それでも私たちが日本文化をいまだに失わずにいるのは、ABC級戦犯などという汚名を受け、多くの人が殺されながらも、生き残った人たちが日本人であることの誇りを失わず、占領統治下にあっても、武器を言論に置き換え、またなによりも国土の保全と復興のために真剣に真面目に取り組んでくださったおかげです。

戦争は、銃を手にしてドンパチすることだけが戦争ではありません。
占領統治も戦争です。

昭和27年のサンフランシスコ講和条約で、条約上は戦争が終結しています。
けれど米軍基地が日本に置かれているということは、日本はいまだ占領統治化にあることを示します。
つまり日米は、ドンパチをしていない、むしろ協力しているというだけで、政治的行政的にはいまだ占領下、つまり戦争状態にあります。

占領に流され、日本を見失い、おかしな政治思想に流された人もたくさんいましたが、それでもなお、日本が日本でいられるのは、終戦後も、日本を守るためにたくさんの血を流してまで戦い続けてくださった諸先輩方の凄味のおかげです。決して戦後生れの現代人のおかげではないことに、我々は気づく必要があります。

さて、グアムを植民地にしていたスペインは、1894年にアメリカと米西戦争を起こしました。
戦いは米国の勝利となり、グアムはアメリカに割譲されました。

初代総督の米海軍大佐レアリーは、グアムの英語化を指示しました。
その内容は、住民が英語でサインができればOKというものでした。
サイン以外の、住民に対する教育には、アメリカはまるで関心を持ちませんでした。
ここは大事なポイントです。

現地の人たちはチェモロ語しか話せないし書けないのに、公用語は英語なのです。
役所関連の仕事は、英語でなければいっさいできない。
ところがその英語を教えてくれる人はいない。
英語教育の制度もない。
当時の現地の人たちの苦労が偲ばれます。

一方、1914年にはじまった第一次世界大戦の結果、1919年のパリ講和会議で、日本は、ドイツ領だったミクロネシアと、北マリアナ諸島をドイツに代わって統治することになりました。
日本統治になることで、ミクロネシア、北マリアナはみるみる発展していきます。

ここでおかしな現象がおきます。
大国が勝手に決める国境とは別に、島の人々は、相互に交流しているわけです。
米国領であるグアムのチャモロ人が、日本領になった近隣の島々を訪問すると、そこで日本統治による発展を目の当たりにするわけです。
チャモロ人たちが、日本人に対し尊敬と賞賛の気持ちを抱いたのは、当然の帰結だったろうと思います。

そして、1941年12月8日、日米が開戦となりました。
日本は、真珠湾攻撃の5時間後、米領グアムへの攻撃を開始し、わずか1日で米軍の軍事施設を陥落させました。そして12月10日には米領グアムの占領を宣言しています。日本軍は、めちゃくちゃ強かったのです。

日本によるグアム統治は、その後、約2年7か月続きました。
日本は、グアムを「偉大なる神の居る島」を意味する「大宮島」と改名しました。
そして学校、医療、道路などの社会的インフラを整備しました。
同時にチャモロ人に対して、住居・信仰・言論の自由等を保障しました。

現地での教育は日本語で行いました。
本当はチャモロ語で教育したいところですが、社会用語や科学技術用語は、全部日本語です。
ですから現地の社会制度を確立し、技術振興を図るためには、日本語で教育するしかなかったのです。

国民皆教育制度は、日本統治下の「大宮島」時代になってようやくグアムで確立されました。
日本語での教育なのですが、島の人々はとても勤勉で、また日本語での教育を受けることをたいへんに喜びました。

米国統治時代には、名前が英語で書ければ十分だったけれど、日本は、学校を作り、語学、算数、理科、社会をきちんと教育してくれたのです。
いまでは学校教育を面倒に感じる人も多いかと思いますが、それは戦後教育にある一定の歪みが生まれたためです。
本当は、知識を得るということは、とても楽しくエキサイティングなことです。

そのことは、戦前戦中の学校と、いまの学校を比べたら一目瞭然です。
いまは、学校が徒歩五分のところにあっても、学校に通うことを喜びにしている生徒は、あまりいないようです。
けれど戦前戦中は、遠い子は毎朝5キロも10キロも歩いて登校したのです。
雨の日も、雪の日も、です。
なぜでしょう。
学校が楽しかったのです。
そこに志と希望、そして何より知的興奮となる学ぶことの楽しさがあったからです。

当時を知るチェモロ人たちも、当時の日本語の学校の思い出が、まさに人生の宝だといいます。
そういうものが、本来の教育というものなのだろうと思います。

ですからグアムには、いまでも、当時世話になった日本人の名前をもらい、自分の家族名にしている人たちがたくさんいます。
日本統治時代の教育が、いまでの彼らの誇りなのです。

ところで、グアムが日本の統治下になるということは、米国にとってグアムは「敵に占領された米国領土」となります。
米軍は、日本本土攻略のための基点として、そのグアムの奪還と占領を目論みます。

1944年、米軍は先ず戦艦による艦砲射撃と空母艦載機及び陸上爆撃機(B-29)で、グアムの日本軍施設の爆撃を開始しました。
予定では6月18日には部隊を上陸させるはずだったのだけれど、日本軍の猛烈な抵抗にあい、上陸開始は、1ヶ月以上も遅れた7月21日です。

その間、1ヶ月以上にわたり、グアムは艦砲射撃と空爆の嵐に遭いました。
美しいサンゴの自然が破壊され、山の形さえも変わってしまっています。

日本守備隊は、米軍の上陸を、水際で食い止めようとしました。
そのために揚陸中の米軍を重火器で激しく攻撃しました。
日本守備隊は、20両のLVT(水陸両用装軌車)を破壊したけれど、弾薬の補給が間に合いません。

島にいた日本軍守備隊の将兵は、18,500名です。
対する米軍は2個師団55,000人+戦艦+航空機による爆撃という圧倒的戦力です。

7月28日 早朝から、上陸した米軍は、戦車数十両で日本軍師団司令部のある本田台を包囲しました。
日本側はこれに対し、対戦車爆弾を抱えて、敵戦車に体当たり攻撃を行いました。
しかし、機銃や火炎放射機に阻まれ、味方の死傷者がつのり、ついに対戦車爆薬さえ尽きてしまいます。

それでも日本の将兵たちは、手榴弾による悲壮な攻撃をしかけました。
戦車に手榴弾は通用しません。
では何をしたのかというと、敵戦車に乗り込み、天井の蓋を開けて、中に手榴弾を放り込んだのです。
完全防備で、しかも周囲を米兵で固める戦車には、近づくことさえ容易なことではありません。
それを近づき、戦車の上に乗り込み、手榴弾を放り込むのです。
あまりにもすさまじい鬼気迫る戦いです。

この悲痛な状況の下、高品彪(たかしなたけし)中将は、全島で3000名以上の生存者があることを考え、戦車の重囲から脱出し北方での再起を決意しました。

 高品彪(たかしなたけし)中将

午後2時、高品師団長は、敵の機関銃弾を受け、壮烈な戦死を遂げられました。
7月29日、日本軍の残存兵力は、陸軍約1000名、陸戦隊約800名、戦車部隊、砲6門、その他約2500名となりました。
この時点で、もはや日本軍には、陸海軍の区別も、第1線と後方の区別もありません。
その中で、まだ戦える者全員が又木山(マタグアック)に集結しました。

全員が負傷兵です。指のない者、腕のない者、足のない者、片眼がつぶれている者もいました。
残された戦いの手段は、敵戦車、敵機関砲に対し、銃剣突撃だけです。銃はあっても弾がありません。

8月9日、早朝から約50両の米戦車が、一斉に最後の日本軍陣地である又木山への攻撃を開始してきました。
8月10日、残った日本兵は、みなで話し合って、翌11日を期して最後の攻撃を敢行することを決めました。
午後8時、小畑英良中将が天皇陛下並びに大本営に対し「己れ身を以て、太平洋の防波堤たらん」との決別の電報を打ちました。

そして、8月11日午後2時35分、 又木山に集結した日本軍残存兵力の約60名が、小畑中将とともに自決されました。
8月13日、米国はグアム全島の占領をラジオで発表しました。

グアムの陥落によって、米軍はグアムに航空基地を設置。日本本土への無差別空爆が始まっています。
そしてこの戦いで、日本の守備隊総員2万810名のうち、1万9,135柱英霊の命が失われました。
しかしそれでも一部の生き残った兵士はゲリラ戦を行って執拗に抵抗を行い続けました。
ナイフしかない、食べ物も、水もない。そんな状況下で、亡くなった将兵の武器や弾薬を集め、ジャングルに隠れながら戦い続けました。

そのなかのひとりに、若き日の横井庄一伍長がいました。
彼は、1972年(昭和47年)まで、グアム島内に潜伏しました。味方が再来するときを信じて、たったひとりでグアムで戦い続けました。
その横井庄一氏の帰国の際の第一声は「帰って参りました…恥ずかしながら、生き永らえて帰って参りました」というものでした。

横井さんは、日本に帰国後、どうして日本は負けたのかの質問に、こう答えられました。
「武器がなかったからです。精神は勝っていた」

グアムは、いまは、アメリカ領土です。
しかしグアムは、米国の「未編入領土(Unincorporated Territory)」とされています。
グアムは、グアム議会の決議より、米国合衆国憲法が優先され、住民は合衆国政府が定めた納税義務を負っているのですが、そうであるにもかかわらず、グアムの人々には、大統領選挙に参加する資格は与えられていません。

要するに「未編入領土」というのは、植民地の言い換えです。
つまり、グアムはいまだに米国の植民地です。
そして全島の3分の2が、米軍基地です。

現在、グアム島の人々の経済は、米軍基地を中心に成り立っています。
けれど本当は、日本に戻りたいのだそうです。
解決の方法ですか?
ただひとつです。
それは日本が米軍基地を買い取って、人も装備もそのままに日本軍基地にすることです。

※この記事は2015年2月の記事のリニューアルです。

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