仕事から帰って風呂に入り、風呂からあがって冷蔵庫を開き、中から缶ビールを1本取り出して、プシュッと音をたてながら缶を開け、ビールをひとくちのみながら、「ああ、今日も疲れたなあ」とため息をつく。
いつもと変わらない日常。
いつもと変わらないほろ苦いビールの味。
そんな小さな日常がどれだけ幸せなことか。
私たちはあらためて考えてみる必要があると思います。

ひとたび災害が発生すれば、あるいはいつ空襲警報が鳴るかわからない戦時にあれば、あるいは家族の誰かが疫病に罹患すれば、あるいはいま大陸にあるような飛蝗(ひこう)《イナゴの大群》に襲われれば、あるいは飢饉に襲われれば、そんな小さな日常は、ものの見事に吹っ飛んでしまうからです。

希望する大学に合格するとか、好きな人と結ばれるとか、マイホームを建てるとか、昇進するとか、人生にはそれぞれに大きなイベントがあります。
大きな幸せと言っても良いかもしれない。
けれど、なんてことのない日常、「疲れたなあ」とため息をつける、そんなありふれた日常こそが、私たちが護らなければならない、そして国が護らなければならない最大の使命です。

毎日を、愚痴や文句を言いながらでも、普通に生きることができる。
そんな普通の日常を送ることができる、そんな小さな幸せこそが、実は一番大切なことなのです。

万葉集には、そんな小さな幸せの歌が数多く掲載されています。
なんでもない日常を詠んだ歌です。
フラレたり、片思いに胸を焦がしたり、なかなか出世できなくて愚痴を言ってみたり。
今年は暖冬で、もう梅が咲いていますが、そんな梅の花を眺めて、あんまりにも綺麗だから「ワシの家にも来て咲いておくれ」とワガママを言っている歌などもありします。

「だから万葉集はくだらない」と笑いものにしようとされる方もおいでになります。
けれど気づいていただきたいのです。
万葉集が編纂された意図は、そういう、いっけんするとツマラナイと思われるかもしれないごく普通の日常こそを極限にまで大切にしていこうとされてきた、歴代天皇や貴族、あるいは地方の豪族たち、夫や兄や、母や娘の思いの歌を綴った歌集が、万葉集なのです。

これを勅撰で編纂した。
このことの意味することは重大です。

それはつまり、我が国の朝廷が、あるいは天皇が、極限までたいせつにしようとされてきたことが、まさにそういう小さな幸せ、なんてことはない日常の小さな愛を国のタカラとして大切にしていこうとしてきたことであることを示すからです。

繰り返しますが、ひとたび戦禍を含めて災害が起これば、そんなあたりまえの日常は、またたく間に吹っ飛びます。
さらに日本は天然の災害の宝庫といえる国です。
地震、台風、干ばつ、洪水、土砂災害に火山の噴火に大津波、火災や流行病もあるし、いまだと交通事故のような人災もあります。
そしてかなしいことに、災害は必ず起こることです。

必ず起きるとわかっているなら、そして過去に悲惨な目に現実に遭った経験を持つなら、あるいは身近な誰かがそういう経験をしたというのなら、同じような被災が仮に再び起こったとしても、絶対に大丈夫なように、日頃から備えを万全にしておこうとする。
これこそが日本の政府の最大課題です。

それは、何もない日常からは、不要のことに見えます。
目先の利益が優先するからです。
そういう目先の利益だけが優先で、そのためには何をやっても良いとする国柄を持つ国もあります。

けれど災害の多発する日本では、そのような生き方はできないのです。
なぜなら、大きな災害が、必ず起きるとわかっているからです。

もちろん、目先の利益優先で、そのためには何をやっても良いとする国柄を持つ国や民族にも、天然の災害はあります。
たとえば疫病や飛蝗(ひこう)《イナゴの大群》や、砂嵐などがそれです。
そうした国や民族が、現実に災害があるのに、そのことを一顧だにしないのは、歴史が途切れているからです。

王朝の交替の都度、人口が3分の1、4分の1に減ったり、あるいは王朝は続いたものの、それが単なる収奪王朝であって、民衆が貧困のどん底に置かれ続けたような国や民族では、それまでの経験の蓄積が活かされないのです。
なぜなら民衆が貧しくなりすぎて、無教養となり、活かそうとする民度が育たないのです。

このことは、すべての人が、生まれたての赤ちゃんのときは、知識経験ゼロで生まれてくることと同じです。
そして自分が生きてきた範囲でしか、知識経験を持たなければ、人も民族も国も、同じ失敗、同じ過ちをただ繰り返すだけになります。

これを繰り返さないために、代々積み重ねられた智慧(ちえ)があります。
人は、自分が直接経験していなくても、書や教えによって、自分が経験した以上の智慧を得ることができます。
ここが、人と動物の違いです。

日本は幸い2680年前から126代の天皇の治世が続く国であり、その間の文化文明、そして代々積み重ねられた智慧を失わずにくることができた国柄を持ちます。
しかもその天皇には、初代神武天皇以前の時代の記憶としての神語(かむかたり)があります。
神語が、どれくらい昔の経験まで明らかにしているかには諸説ありますが、筆者は3万8千年前には、すでにその蓄積が始まっていたと考えています。
これは明らかに世界最古です。
そこまでいかなくても、我が国が世界一長い歴史を積み上げ、それまでの様々な経験が、現代にまで続いていることは、世界中の誰もが否定できない事実です。

戦後は、そうした古くからの日本の智慧を、常に失わせる方向に物事が動いてきました。
新米はおいしいけれど、実は食べるものではなく、古々米から食べる。
新米と古米は大事にとっておいて、いざというときの災害に備える。
感染症対策のため、家でも出先でも、手洗いと口をゆすぐことを習慣にする。
そのためにきれいな水を確保できるように日頃からみんなで気をつける。
田んぼの水、小川の水は、およそ30年かけて、透明で美しい地下水になります。
それは私たちにとっての生活用水です。
そうとわかっているなら、水を汚さない。
田にも川にも、ゴミを捨てない・・・本来これらはあたりまえのことです。

世界の諸国は、できてまだ100年にも満たない新興国であっても、自国の文化を大切にしています。
できる限り、その国に蓄積された知識経験を活かし、自分たちにとって住みよい国を築こうと努力しています。
けれど日本は、2600年以上の歴史を持ち、そのあいだに蓄積された智慧を持っていながら、それらの経験を戦後はただ「古い」というひとことで、すべて捨てきた。それが戦後の日本です。

わかりやすいのがメディアです。
大きな災害が起きるたび、「たいへんだ、たいへんだ」と八兵衛よろしく騒ぎ立てます。
蓄積がない、というより、「いまだけ、金だけ、自分だけ」で、結果として歴史における智慧の蓄積を否定しているから、そういうことになります。

だから日本は、戦後に生まれた新興国からさえも、蔑まれる国になっています。
その結果が、30年続く不況だし、30年賃金が横ばいないし下降線という結果です。

こんなことで良いのでしょうか。
それで我々の子や孫たちの未来を護れるのでしょうか。

人の世界では、小さなことが大きなこと、といわれます。
そんな小さな愛を持つ人が、この日本列島にいま1億2600万人います。
1億2600万個の愛です。
それこそが大きな愛です。
これを象徴するのが
「一燈照隅、萬灯照国」
という言葉です。

「愛」という字の音読みは「アイ」です。
訓読みは「めでる、いとし、おもひ」です。
たとえ小さな愛であっても、
「愛(いと)しく愛(め)でるような気持ちで愛(おも)ふ」こと。
そういうことを大切にしていくこと。
それこそが日本人にとっての愛であり、日本のもとからある国柄であり、その国柄を大切にしていくところに、日本の国家万年の大計があります。

 ***

余計なことをひとつ書きます。
ある方が、私の書いたブログ記事の件で、意見が異なったのでしょう。
「それは違う」という内容のコメントを下さいました。
拙ブログは、コメントに返事を書かないことにしています。
このことが、その方のお気に障ったらしく、
「ねずの野郎は、俺がせっかくコメントで教えてやったのに、無視しやがった。あいつはロクな奴じゃねえ」と、いろいろなところで私への苦情を述べられるようになられました。

私はわたしの考えを拙ブログで述べています。
その方は、その方の考えをコメントで述べられています。
「それで良い」のです。
その方のコメントは大切に記憶させていただき、いつの日か、私の考えが間違っていたと確認できたら、そのときは書き直した記事を再掲します。

けれど3点ほど、申し上げたいと思います。
第一に、何が正しいかは「神のみぞ知る」です。
第二に、人に言われたからと反射的に考えを変えるくらいなら、最初から自分の意見など述べる必要も書く必要もありません。
第三に、余計なことかもしれませんが、意見が違うからと人の名誉を損ねれば、それをした人は結果として自分の名誉を損ねることになります。
なぜならおっしゃることは、
「ワシの言うことを聞かない奴はロクな奴じゃねえ」と述べているのに等しいからです。
その方のことは、よく存じ上げていますが、私はその方を名指しで非難したことは、これまで一度もありません。
なぜなら、たとえどんな正当性があったとしても、人の名誉を奪うことはそれ自体が悪だと思うからです。

※この記事は2020年2月のねずブロ記事のリニューアルです。

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