空海は弘法大師で、真言宗の開祖。そして真言密教を唱えて高野山を開いた人物。
最澄は伝教大師で、天台宗の開祖。そして法華経を中心に据えて比叡山を開いた人物です。

ちなみに本稿では、空海、最澄と呼びますが、こうした呼称を用いることは、信仰者からは反感を買いやすく(本当に宗教関係は実は書くのがたいへんです)、本来なら弘法大師様、伝教大師様等と呼ばなければならないのだろうと思います。
けれどここでは一般の教科書の記述に従って、歴史上の人物として空海、最澄の名を用いさせていただきます。

この二人の人物をわかりやすく説明すると、空海は、まさにどこまでも広がる空と海で、仏教の教えを一般の衆生(民衆のこと)にとにもかくにも拡散していこうとした人物といえます。
これに対して最澄は、仏教的に最も澄んだ人を育てようと比叡山を開いた人物ということができるかもしれません。

何事につけ大事を成すには、2つの方向が必要になるというのが、日本の古くからの考え方です。
子を成すには男と女の二人が必要です。
国を統治するためには、伝統的権威の長としての京の都と、政治の中心地としての江戸が必要です。
人を育てるには、やさしさだけでなく、厳しさも必要です。
世の中を変えるには、古いものと新しいものの両方が必要です。
つまり双方向が対立するのではなく、調和するときに、はじめて大事を為すことができる。それが日本の根底にある思想です。

けれど、これをひとりの人間が全部行うことは難しい。
だから、2つの系統に別れて、これを行います。
常に二本立て。
だから日本(二本)と言います。

空海と最澄が説いた教えは、それぞれ真言密教と天台の教えです。
それらは、インド仏教ともチャイナ仏教とも異なるものといわれています。
なぜならインド仏教が輪廻転生を繰り返すことで成仏に至るとし(だから身分制があります)、チャイナ仏教が完全階層型仏教であるのに対し、空海、最澄の教えは、それぞれ即身成仏であり、一切衆生皆成仏であるからです。
つまり、どこまでも民衆救済が基礎にあります。
そのような教えは、インド仏教にも、チャイナ仏教にも、あることはあっても、あまり重要視されない。
そこを最大の大事としたという意味において、諸国の仏教と最澄空海の仏教は異なるといえるわけです。

いまなぜ最澄と空海を取り上げるのかといえば、この二人が衆生救済を説いたというだけなく、我が国で崩壊寸前となった仏教を救い、現代にいたる日本人の精神性の柱となっていることによります。

どういうことかというと、この両者が活躍した時代は、奈良の都から京の都に遷都が行われた時代であったのですが、実はこのとき、国の政治は、仏教排除の方向に向かおうとしていたのです。
原因は弓削道鏡(ゆげのどうきょう)による宇佐八幡神宅事件です。

これ以前に奈良の大仏を寄進された聖武天皇の治世のとき、それまで貴族の間でしか信仰が認められていなかった仏教が、行基(ぎょうき)という僧侶によって、一般の民衆に拡散されたのです。
聖武天皇は、この行基の行動をお認めになり、これによって我が国の仏教は堂々と一般への拡散が可能になったのですが、これによって多くの信者を集めた仏教界は、政治的にも経済的にも強い力を持つようになり、その頂点となったのが、弓削道鏡という僧侶であったわけです。
そしてその道鏡が行おうとしたことが、皇位の簒奪(さんだつ)でした。

この目論見は、ギリギリのところで和気清麻呂によって阻止され、後継ぎのいなかった称徳天皇の後を継いで、天智天皇の第7皇子の子である志貴皇子(しきのみこ)の子(つまり天智天皇の孫)が62歳で光仁天皇として御即位されたときに、弓削道鏡は中央から地方に飛ばされて権力を失いました。

皇位簒奪事件は、道鏡ひとりの野心とはいえ、道鏡は仏教界を代表する人物であったわけです。
その道鏡が、ありえない野心を持ち、中央を追放されたということは、そのまま仏教界の信用と信頼を失わせるものとなりました。

そして光仁天皇の子の桓武天皇が皇位を継いだとき、都が山城国に移されたのです。
それが京の都です。

奈良の都は、その設計段階から、皇居の周りを仏教の寺院が囲む形態で築かれています。
けれど、京の都は、皇居の周りはぐるりと神社が囲み、仏教寺院は端の方に寄せられています(後年、大きな寺院が京都の中央部に築かれるようになりましたが、これはずっとあとの時代のことです)。
つまり、京の都への遷都は、そのまま朝廷の、仏教界との離別に近い様相があったわけです。

ところがこの時代に、朝廷もまた、未曾有の災難に見舞われます。
それが「薬子(くすこ)の変」です。
皇太子殿下が、藤原薬子を寵愛したまでは、普通の話ですが、この薬子の兄の藤原仲成という官位の低い、酔っぱらいが、姉を通じて皇太子殿下、後には天皇を動かして、朝廷の政治を壟断するのです。
つまりこれによって、朝廷の権威さえも地に落ちようとした。

そのような時代背景のときに、ひたすら衆生救済を唱え、真面目に修行や学問に取り組んでいたのが、空海であり最澄でした。
両者は多くの人々からたいへんな尊敬と敬意を集めていました。
そして時代が混迷の時代、つまり何が正しいのかわからないという時代になったとき、時代の人々が最後にたどり着いたのが、空海と最澄という清明な仏教者の存在であったわけです。

この二名の存在によって、日本仏教は、平安時代を通じて国教のように大切に扱われるようになり、それが現代に続き、社会に強い影響を与えている鎌倉仏教へと進んでいくことになるわけです。

現代も、まさに混迷の時代です。
そして混迷の時代において、何が必要なのか。
これからの日本が、いまの日本にとって必要なことは何かという問題への答えがここにあります。

つまり、何があろうと変わらぬ真実を大切にしながら、新しい日本の建設をしていく。
これを369(ミロク)の世と言います。
3と6と9は、足しても、引いても、掛けても、割っても3と6と9だけが繰り返します。
つまり、人類が万年の平和と繁栄を得る。
これは、万年続いた縄文文化の復活です。

最澄、空海の説いた仏教の根幹にあるものは、「衆生の幸せこそ国の幸せであり世界の幸せ」という思想です。
そしてこの教えは、そのまま古事記にある「隠身」の教えでもあります。
古事記では、その冒頭で、創生の神々が、生まれるとすぐに「隠身」されたと書いています。

これを「身を隠しましき」と読み下すのは、間違いです。
「身に隠しましき」と読み下します。
天之御中主神以下7代の神々は、お成りになられるとすぐにすべてを身に隠された。
これは神々は、胎内にすべてを隠されたという意味です。
つまりこの世界は、7代の神々によって7重に胎内に置かれているのです。

言い方を変えると、我々は、神々の胎児だということです。
胎児の体(身)は、幾億もの細胞によって成り立っています。
その細胞の一つ一つは、新陳代謝によって、日々、生まれては死んでいきます。
つまりそれら細胞のひとつひとつが、私達人間です。

そしてすべての細胞が集まって、神々の胎児なのだと古事記は書いているのです。
すべての細胞が元気であれば、胎児もまた元気にすくすくと育ちます。
一部の細胞が自分だけの欲望によって他の細胞から栄養分を吸い取るなら、それはがん細胞です。
胎児の体ががん細胞によって蝕まれれば、胎児は死にます。
胎児が死ねば、母体である神々もまた死んでしまうかもしれない。
それが、神々と我々人類との関係なのだと古事記は書いています。

このことを言い換えれば、「衆生の幸せこそ国の幸せであり世界の幸せ」です。
古事記も、最澄空海も、だから同じことを説いています。
ということは、最澄空海のもたらした仏教は、最澄空海によってあらためて日本化したということもできようかと思います。

日本は4万年という途方も無い昔から、古くて長い文明を築いてきた国です。
その知恵は、万国に平和と繁栄と、持続化社会をもたらすものです。

※冒頭にも書きましたが、宗教や信仰が絡むと、固有名詞の呼び方からその解釈の深浅まで、深く研究されている方々からお叱りを受けることが多々あります。あくまでも上に述べましたことは、私の私見であり、それぞれの宗派の持つ公的見解ではないことを申し上げておきます。あくまで文責は筆者である私個人に属します。

※この記事は2022年2月のねずブロ記事のリニューアルです。

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