アイデンティティ(英:Identity)とは「国民精神」のことを言います。
これを学者の先生は「自我同一性」とか訳していますが、これでは意味がちっともわからない。
日本人が日本人であるための根幹が国民精神だし、社員であれば、その会社の社員としての根幹が、その会社の社員としてのアイデンティティです。
コミュニティであれば、そのコミュニティを成立させている根幹となる精神、それがアイデンティティです。

「旧石器・新石器」という時代区分がありますが、旧石器時代というのは、人類が自然石をそのまま道具に使っていた時代、新石器時代は硬い石を人類が加工して用いるようになった時代です。
そして人類が、いわゆる文明を形成しはじめたのが、その新石器時代と言われています。

どういうことかというと、旧石器時代の人類は、多くても40〜50人くらいの集団しか形成していなかったのです。
そのくらいの集団ですと、生まれたときから一緒にいるわけですから、言語など用いなくても「あ〜あ〜、う〜う〜」、「ウッホ、ウッホ」といった発声と身振りだけで、だいたいの意思疎通ができてしまうのです。

ところが人類が石を加工するようになると、石は硬いですから、専業の石加工職人が必要になる。
そういう人を村で養うためには、食料を確保する人、調理する人といった村落内での社会的分業が必要になります。
そのためには、人類の集団は、最低でも150人以上の集団を形成する必要があり、この規模になると、もはや言語も「あ〜う〜」では意思の疎通ができなくなります。
そこで、言語が発達するわけです。

さらに言語によって、自分たちがどうしてそこで集団を形成しているのかを理由付けるための「神話」が形成されていきます。
つまり、神話というのは、もともと「自分たちの集団を維持するために」何千年、何万年という途方もなく長い期間にわたって語り継がれてきた、あるいはそれだけの長期間生き残った、もっというなら何千年、何万年の間にあらゆる面から叩かれ検討されて、ある種の意味における「完璧さ」を手に入れた物語が、神話ということになります。

いまでも、たとえば保守の大同団結は、半世紀も前からずっと言われていることだし、社会的リーダーとしての三島由紀夫先生を失い、中川昭一先生を失い、安倍晋三先生を失ない、あるいは平山赳夫先生や石原慎太郎先生といった優秀な人材があってさえ、それらを叩くことしか能がなかった戦後日本が、どうしてまとまれないのかといえば、日本人が集団としての神話や歴史、そして神話や歴史を学ぶことよって得られるべき日本人としての日本的精神、ひとことにするなら国民精神を失っていることによります。

問題点を「問題だ」と指摘したり、危機感を持つことは大切なことです。
危機意識は、問題を認識すれば、当然、湧き上がってくるものです。
そこにアイデンティティは必要ありません。

けれど、この状態というのは、ひとりひとりがただ危機感を持っているだけの状態です。
ちなみに、こうしてあおられた人々に武器を渡すと、諸外国のように暴動が起きます。
あるいは若者たちをあおると、かつてのゲバ棒を手にした全学連や、チャイナの文化大革命のように、若者たちによる集団暴力が起きます。
集団暴力にアイデンティティは必要ありません。
ただ、若者たちをあおれば良いのです。

つまり神話の形成と、人類の集団生活、そして言語の発達、社会的分業の始まりは、まさに新石器時代になってから生じたものと考えられるわけで、このことが、新石器時代が人類の文明において重要な役割を果たしたと言われる理由になっています。
そしてこの神話が、いわゆる歴史時代になると、国や民族の「歴史」となります。

さて、このような視点で西洋の神話を見ると、西洋ではアダムがリンゴを食べたことで、神から労苦を与えられたということになっています。
つまり男に生まれれば労苦が待っているというのですから、逆にいえば、労苦から逃れることが神に近づくことになる、といった概念が生まれます。
働く人は、下級の人々であり、働かない男がより上等であると言う概念になるのです。

ですから最近、上級な人々は自然の野菜や果物を食べ、下級人類はコオロギを食べろといった、あり得ないような不条理も、彼らの神話の解釈で言うなら、それは当然の帰結となるわけです。

ところが日本では、労苦そのものをよろこびに変えて生きることが奨励されます。
なにしろ日本では、最高神であられる天照大御神ご自身が自ら田んぼを持ち稲作労働をされておいでになられるのです。
しかも孫のニニギが天孫降臨するときには、その稲穂を渡して「これを育てて暮らしなさい」とまで詔(みことのり)されています。
と言うことは、我が国では労働はそのままご神意にかなう生き方を選択したことになります。
そして労働をする人たちが、まさに国の宝となります。

明治以降の日本は、政府が主体となって西洋の文化文明を取り入れて行きました。
それでも戦前戦中までは、神話も歴史も学習しましたから、日本人としての国家的コミュニティは維持されていたのです。
ところが戦後は神話も歴史も否定されたことにより、私たち日本人は、日本人としての国家的コミュニティを形成する根幹を見失うことになりました。
このため、若者たちの多くは日本が嫌いになり、外国に住むことに憧れ、外国での暮らしや文化を採り入れることが、かっこいいことといった世相が生まれました。

日本が元気が良いうちは、それでもなんとかなってきたといえようかと思います。
けれど、まる30年間も所得が上がらず、グローバリズムに世界中の庶民が怒り始めたいま、日本人もまた、否応なしに目覚めなければならないときに来ているといえます。

ただ、その目覚めが、単に怒りの伸長だけであった場合、おそらく平和を愛する日本社会には受け入れられません。
やはりそこには、日本人としてのアイデンティティとなる、神話や歴史という、日本人が日本を大切にしなければならない根幹となるものの共有化が、実は不可欠となるのです。

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