「漢方」という言葉は、江戸中期に「蘭方医」が流行ったことから、それに対応する言葉として「漢方医」と呼ばれるようになったことに由来します。
もともとは、単に「医術」です。

江戸中期に生まれた「蘭方」という言葉は、「蘭学」といって、オランダの書物によって得られた知識がもとになっていはいますが、内容は、西洋医学そのものをオランダ語を通じて学んでいたということであって、内容は、西洋医学全般を指します。
「漢方」は、いわばアルファベットを使う「蘭学」に対応して漢字圈を意味する語で、要するに我が国に古来からある医術に、Chinaから東南アジア、インド、中東に至る、いわゆる東洋圈で育まれた様々な医術を加えながら育まれてきたものです。
Chinaの医術を指すわけではないのです。

むしろChina産の薬品は、だいたいにおいて「能書きはすごいけれど、中身はろくなものがない」というのが江戸時代の常識です。
有名なところでは、律令時代に当時の唐から輸入されていた破格の高額栄養剤がありましたが、後にわかったことは、これは水銀そのもので、むしろイタイイタイ病などを引き起こし、体を損ね、寿命を縮めます。
しかしそのようないかがわしいものが、不老長寿の妙薬とされて、なんと我が国のご皇室でも用いられていたのです。
結果、この時代の素晴らしい歴代天皇が、皆、短命になってしまっています。
要するにろくなものではない、それは今も昔も変わらない。

そのような次第で、日本の医術は、本気で患者の病気を治そうとしましたから、治療のためには、遠くインドや中東にまで、薬品、薬剤を求めています。
たとえば日本では「ライ病」と呼ばれたハンセン病対策として江戸時代初期には「大風子油(だいふうしゆ)」という薬草が用いられていましたが、これはインド原産で、日本はインドから、これを輸入していました。

古いところでは田道間守(たじまもり・古事記では多遅摩毛理)がいます。
この人は、1世紀初頭に、垂仁天皇(すいにんてんのう)の命で常世国(とこよのくに)まで行って「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」を持ち帰っています。

「登岐士玖能迦玖能木実」というのは、橘(たちばな)のことで、橘はミカン科ミカン属の常緑木です。
つまり田道間守は、みかんの木を持ち帰ったわけで、そのみかんの原産地はインドの東北部と言われています。
常世の国がどこにあるのかには諸説ありますが、そんな次第から、田道間守が行った先はインドであったといわれています。

病気の人をなんとかして助けたいと思うのは、いまもむかしも変わりません。
ですから海洋国である日本では、古来、インド、インドネシア、タイ、ビルマ、ベトナム、フィリピン、台湾、China、モンゴルなど、東洋の各地で開発されたり用いられたりしていた様々な医療方法を吸収し、それらに日本にもとからある医療法を加えて、工夫を重ねながら、日本独自の医術を発展させてきたのです。

日本は歴史の古い国だけに、こうして蓄積された医術の治癒力もすごくて、幕末に日本にやってきたフランス大使のレオン・ロッシュは、たいへんな腰痛持ちで、西洋のどの医者にかかっても、まったく治癒しなかったものが、日本の医師である浅田宗伯(あさだそうはく)が、たった一週間で、飲み薬だけでまたたく間に治してしまっています。

驚いたロッシュは、宗伯に薬の内容を詳しく聞き、その内容をフランス語に翻訳して、本国に報告しました。
その報告がフランスの新聞に掲載され、これを知ったフランス皇帝のナポレオンは、浅田宗伯に、時計2個、絨毯(じゅうたん)3巻を贈っています。
ちなみにこの浅田宗伯が商品化したのが「浅田飴」で、これはいまも多くの人に愛用されています。

江戸時代の中期までは、蘭方も漢方も、等しく医療活動ができたのですが、蘭方の腑分け(人体の解剖)実験などが行われるようになると、これが大きな社会問題となります。
たとえ刑死した無頼漢の遺体といえども、死んだら仏様というのが、日本人の考え方です。

このため、幕府は「蘭方は外科のみとする」というお布令を出します。
要するに内科など、外科以外のすべての治療は、昔ながらの漢方医療しか認めないとしたのです。

このため多くの蘭方医たちは、なんとかこのお布令を撤回してもらおうと、いろいろな苦労をするわけですが、それが時代が変わり、明治にはいると、欧化政策の中で、蘭方医の社会的な地位が大きく向上しました。
とりわけ、はじめ種痘所として江戸・お玉が池に開設された医療所が、その後東京帝国大学医学部となるに及んで、蘭方医は、西洋医学として目覚ましく発展していくわけです。

一方、旧来の漢方医たちがどうなったかというと、蘭方医が「西洋医学」なら、自分たちは「東洋医学」だと主張を始めました。
このとき、英語の「Orient(オリエント)」の翻訳語として「東洋」という熟語が考案されていたことも影響しました。

そして日本は、日清、日露の戦いに勝利し、アジアの一等国となりました。
するとChinaから、たくさんの留学生が日本に学びにやってきて、医療についても日本で学びました。
とりわけ日本における「東洋医学」は、学問的に体系化されていたため、たいへんに学び易く、またChinaに持ち帰って広め易いということで、Chinaではまたたく間に、その体系化された「東洋医学」が広まりました。

その結果、いまではすっかり「東洋医学」といえば、世界中であたかもChina発のように宣伝されるようになったのですが、「東洋」とか「医学」とか、漢字二文字以上の組み合わせで熟語を作るのは、日本語の特徴です。
Chinaの漢字文化は、一文字一意が原則です。
二文字以上の熟語を用いません。
つまり、熟語で構成されている「東洋医学」という言葉は、実は、まるまる日本語だし、その内容も、実は日本で体系化された学問であったというわけです。

念のため申し上げますが、漢方薬日本起源説を唱えているのではありません。
医術というのは、度重なる膨大な試行錯誤の中から、本当に長い年月のなかで育まれるものです。
このことは、現代医学も同じです。

世界中のあらゆる国のあらゆる民族のあらゆる村が、それぞれ独自の民間療法としての医療を蓄積していて、それらが互いに刺激しあうことによって、よりよい医療が育まれてきたのです。
日本の素晴らしいところは、患者を直したいという愛によって、どこで生まれたとか、どこが発祥だとかという政治的こだわりではなく、どこまでも患者第一に、世界中の医術を採り入れてきたことにあるのだと思います。

上の円グラフは、現代の日本で調達されている生薬(漢方薬)の輸入元です。
ご覧いただいてわかりますように、83%がChina産です。
ところが、毎度のことですが、China産品は、あまり信頼性がありません。

ひとつは例えば甘草を注文しても、届いた品物には、ただの雑草が相当量混じっていたりといった極端なものがありますが、その薬草自体の信頼性が低いのです。
どういうことかというと、植物は土壌の影響を受けて育ちます。
ですから土壌が荒れたり、土質が変われば、内容成分が変わってしまいます。
このためChina産の薬草は、品質が一定しないのです。

その一定しないChina産の生薬を、日本は年間1万7千トンも輸入しています。
金額にしておよそ2000億円の輸入量です。

そんなことから、2010年以降、厚生労働省を中心に、生薬の国内栽培促進策が打ち出されています。
日本のバイオ技術を駆使して、2025年までに、生薬自給率を50%まで引きあげようという動きです。

けれど、こうした動きは、本来、農林水産省がもっと力を入れるべき分野であるということができます。
全国の農地で、いま休田となっているところで、高品質な薬草の栽培が行われるようになれば、それだけ国内産の付加価値の高い農業が可能となるのかもしれません。

先日、花粉症を漢方薬で完全治癒させたという人に会いました。
素晴らしいことだと思います。
東洋医学の促進が、そのまま高付加価値型農業に通じるのなら、それはとても良いことなのではないでしょうか。

誰がどう考えても、それらは良いことだし、すべきことです。
ところがその「あたりまえに、すべきこと」が戦後の我が国では全然進まず、逆に付加価値の高い生薬はチャイナからのもっぱらの輸入、農地は休耕地になり、農業そのものが政治的に推奨されず、日本の食糧自給率は、すでに9%になっているといわれています。
先日このことを申し上げましたら、「いや食糧自給は80%を越えている」とおっしゃられた方がおいでになりました。
けれど、日本の農業は、すでに農薬頼みになっています。
そしてその農薬は、輸入品です。
つまり、輸入が途絶えたら、その時点で日本の農業は壊滅します。

そもそも・・・たとえば米一俵(60kg)を日本で生産するためには、コストが1万5000円かかります。
これを政府が買い取る際の値段が1万円です。
誰がどう見ても、これでは農家が赤字です。
ところがその政府は、米国からはお米を3万円で買っているのです。
日本政府は、いったいどこの国の政府なのでしょう。

私達はあらためて、戦後日本という国家(State)を、抜本的に考え直していかなければならないのではないでしょうか。

※この記事は2018年3月のねずブロ記事のリニューアルです。

ブログも
お見逃しなく

登録メールアドレス宛に
ブログ更新の
お知らせをお送りさせて
いただきます

スパムはしません!詳細については、プライバシーポリシーをご覧ください。