日清戦争の開戦が迫った頃、帝国海軍は新鋭艦で編成した主力艦隊と、老巧艦などで編成した沿岸警備艦隊の2つの艦隊を持っていました。
この二つを当時軍令部にいた山本権兵衛(当時大佐)が、すこしでも戦力の増強を図ろうと統合してできたのが聯合艦隊(れんごうかんたい)です。

その聯合艦隊の初代連合艦隊司令長官が今日お話しする薩摩出身の伊東祐亨(いとうゆうこう)です。
伊東祐亨は、天保14(1843)年、鹿児島城下清水馬場町の生まれですが、少年時代には「飯焦がし(めしこがし)」というあだ名で呼ばれたそうです。
これは伊東が町を歩くと、付近の若い女性たちが伊藤に見惚れて、ついつい炊いている飯を焦がしてしまう、というところからきたのだそうです。
伊東祐亨はそれだけ「良い男」だったわけです。

ちなみにこの時代の「良い男」というのは、単に背が高いとか、顔立ちが良いとか、高学歴、高収入という、いまどきの「イケメン」とはまったく異なります。
素行がよく、学問もでき、腕も立ち、思いやりがあって、内面から発する凛とした清々しさがあり、それでいて決して高慢にならず、常に謙虚で堂々としている男子が「飯焦がし」とされたのです。

さて、少年時代に和漢の書に通じ、書も極めた伊東は、薩摩藩の開成所に学ぶようになりました。
この開成所というのは、黒船来航で刺激を受けた薩摩藩が、英語学校として薩摩に築いた学校で、藩内からとびきりの英才が集められた学校です。
そのとびきりの英才のなかのひとりが、若き日の伊東祐亨だったわけです。

文久3(1863)年、伊東が20歳のとき、薩摩藩を震撼させた薩英戦争が起こりました。
実はこのとき、藩公、島津久光の発案で、大山巌、西郷従道、伊東祐亨、樺山資紀、黒田清隆、仁礼景範らが選ばれ、敵、英国艦に乗り込んで、これを奪いとろうという決死隊が組織されています。

これがまたおもしろいのですが、なんとスイカ売りに化けて小舟で敵・英国艦に近づき、敵が油断したところを軍艦に乗り込んで奪取する、という計略です。
なぜ伊東が選ばれたかというと、彼は英語ができる。
相手が英国人なので、スイカ売りの口上も、英語でなきゃならんだろう、というわけです。

伊東らは、予定通り小船にスイカや野菜や鶏を満載して敵艦に近付きました。
そして英語で遠くから「スイカはいらんかね~」とやったわけです。
ところが一般の庶民が、この時代に「英語」でスイカ売りなど、するわけがありません。
不審に思った英国艦に、ぎゃくに集中砲火を浴びせられ、あわてて逃げかえっています。

いまにして思えばかなり無茶な作戦ですが、とにかくなんとしてもあの強力な大英帝国戦艦を奪取してしまおう、という豪胆さは、すごいものです。
そしてこのときの体験が、実はその後の伊東の人生に大きな影響を与えました。
まさに昨日の記事のブリコラージュそのものです。

当時の日本がもっていた大砲は、オリンピック競技の砲丸投げの弾のような鉄の塊りを、大砲の「先っちょ」から詰めて、ズドンと撃つという、250年も前の戦国時代のままのものでした。
ところが英国艦隊の砲は、火薬も玉も、後ろから詰めてズドンと放つ。
しかも砲弾は炸裂弾(火薬が仕込んであって爆発する弾)です。
そんな大砲が船にたくさん積んであって、ズドン、ズドンと撃ってくる。
砲弾が着弾したところで、大爆発が起こるわけです。
しかも船は、見たこともないような、鉄でできた巨大戦艦です。

実際には、薩英戦争では英国艦隊のこの新式大砲は、自爆が多くてほとんど使い物になりませんでした。
おかげで陸上から発射する薩摩側の大砲の方が、はるかに着弾が正確で、英国艦隊に多大な被害を与えました。
けれど、技術は向上していくものです。
海軍と炸裂弾の凄みに未来を感じた伊東は、幕府の海軍操練所の生徒に応募しました。

この幕府の海軍操練所というのは、勝海舟が神戸に開いたものです。
伊東が入塾した頃の塾頭が坂本竜馬です。
竜馬は、船の操艦と万国公法を教えてくれました。
勝海舟は「国」という概念を教えてくれました。

勝海舟は、徳川幕府の直参旗本でありながら、すでに徳川幕藩体制という枠組みを一歩出て「日本国」という概念を明確に持った人であったことから、伊東に「藩ではなく、日本国こそが「公」であり、幕府や藩は「私」なのだ」と説きました。
これが後年の伊東の基本的な思考となっていきます。
後年、西南戦争が起きた時、伊東は西郷を心から慕いながらも、日本国海軍に残留しました。
伊東は「私」より「公」を優先する決断をしたのです。

明治元(1868)年、海軍局に所属となった伊東は、明治4(1871)年には28歳の若さで「第一丁卯」の艦長に就任しました。
そして「春日」「扶桑」「浪速」などの艦長を歴任し、最も豊富な艦長経験者として、海軍内で圧倒的な存在感を示すようになりました。
そして明治27(1894)年、51歳になっていた伊東は、日本とChina(清国)との関係が冷え込む中で、初代連合艦隊司令長官に就任したわけです。

ちなみに日清戦争では、開戦前の同年7月25日に、豊島沖海戦が起きています。
このとき、先に挑発し、大砲を撃ってきたのは清国軍艦でした。
巨大戦艦を誇る清国海軍が、小船の日本海軍を馬鹿にして砲撃してきたのです。
ところが日本海軍は、これを徹底的に打ち破ってしまいました。
これが日本海軍が対外戦ではじめて勝利した海戦です。

8月1日、明治大帝から宣戦布告の詔勅が発せられ、6日後、連合艦隊が組成されました。

ここで大事なポイントは、日本が宣戦布告したから日清戦争になったわけではない、という点です。
清国側から攻撃を受けて、日本はやむなく豊島沖海戦を戦いました。
そして事実上の戦争状態になったということで、なるほど宣戦布告をしていますが、それでも戦闘行為をすぐにするのではなくて、あくまで話し合いによる解決の糸口を探し続けていました。

けれど、日本を軽く見る清国は、何度も何度も日本に対して挑発行為を繰り返しました。
そしてやむなく、清国の主力艦隊である北洋艦隊と、連合艦隊が、ついに衝突に到ったのが9月16日だったわけです。
つまり宣戦布告から、一ヶ月半の後であったのです。
日本が国として、いかに戦争を回避しようと努力していたかがわかります。

衝突のとき、清国の北洋艦隊は、戦艦2、巡洋艦10を含む合計16隻の大艦隊でした。
対する日本海軍連合艦隊は、巡洋艦からなる10隻です。
イメージからすれば、16台の大型の砂利(じゃり)トラックの軍団に、たった10台の軽自動車と原付バイクで挑むようなものです。

互いに敵の存在を知った両艦隊は、戦闘隊形をとりました。
北洋艦隊は、横一直線に並んだ鶴翼の陣です。
対する日本海軍は単縦陣です。
ちょっとイメージしてみると、滑走路のような広いところで、横一列に並んだ16台の大型トラックに、5台の軽自動車と5台のバイクが縦一列で大決戦を挑んだようなものです。

当時の軍艦というのは、後年の軍艦と異なり、砲が舷側(船の横)についています。
つまり、北洋艦隊は、片側の全砲門を開いて、日本海軍を待ち受けたわけです。
そして最終的には、数の少ない日本艦隊を取り囲み、最強の砲火である十字砲火を浴びせようとしたわけです。

これに対して、伊東が指揮する連合艦隊は、まさに薩摩示現流そのものです。
敵に向かって一直線に突き進み、一刀のもとに敵を斬る。

12時50分。
横陣をとる北洋艦隊の旗艦「定遠」の30.5cm砲が火をふきました。
両軍の距離は、このとき6千メートルです。

「定遠」は鋼鉄で装甲した巨大戦艦です。
所持する砲もバカでかい。
バカでかいから、弾を遠くまで飛ばすことができるし、弾が当たれば敵艦に大きな損傷を与えます。

これに対し、日本海軍の艦は小型艦で、持っている砲も小型です。
速射は利くけれど、弾は近くまで行かなければ届かない。

一直線に単縦陣で距離を詰める日本艦隊。
これを近づく前に沈めようと、巨大な砲を全艦から打ちまくる清国・北洋艦隊。

日本艦隊の船は、小型です。
回避行動をとれば、敵弾を避けることができますが、それですと敵艦隊への肉薄に時間がかかりすぎます。
ですから日本艦隊は、単縦陣のまま、猛然と北洋艦隊群に突進しました。
全艦被弾しました。
それでも日本艦隊は、一直線のまま、どんどん距離を詰めていきました。
そして距離が詰まったところで、小型砲の速射を開始しました。

北洋艦隊は、連合艦隊の6倍以上被弾し、「超勇」「致遠」「経遠」など5隻が沈没、6隻が中大破、2隻が座礁して動けなくなりました。
日本側は、旗艦「松島」など4隻が中破しただけで、沈没、大破、座礁ともなし。

こうして黄海海戦は、日本艦隊の圧倒的大勝利に終わりました。

この戦闘の最中のことです。
伊東の乗る旗艦「松島」は、戦い早々に左舷に砲弾が命中しました。
一瞬にして28人が絶命、68人が負傷してしまいました。

伊東は即座に艦橋(ブリッジ)から現場に向かいました。
そこに重傷を負って瀕死の状態の水兵が、全身の力をふりしぼって、伊東長官の足元に這い寄ってきました。
そして伊東に手を差しのばし、
「長官、ご無事でありましたか」と言いました。

伊東は、血まみれになったその手をしっかり握り、
「伊東はこの通り大丈夫じゃ、
 安心せよ」
と彼の心配に答えました。
そしてその場で足を2度、3度と踏み鳴らしました。

水兵は
「長官がご無事なら
 戦いは勝ちです。
 万歳!!」
と言いながら、伊東の腕の中で息絶えました。
伊東は目を潤ませながら、その手をしばらく離すことができずにいました。

激戦の最中に、連合艦隊司令長官が、被弾して多くのけが人が出たその現場に、直接自分の足で、検分に出かけているのです。
そういう伊東の、末端の部下を案じる姿勢、それに答えようと、死力を振り絞って司令長官を気遣う水兵。
その水兵は、自分が瀕死の重傷を負っているのに、伊東の身を案じているのです。
日頃から伊東が、どのように部下と接していたのかが、わかろうというものです。

たとえば、いまどきの学校で、何か大きな事故や災害があったときに、死を前にした生徒や教師が、
「校長さえご無事なら本校は安泰です、万歳!」と叫んで息絶えるでしょうか。
あるいは、会社が不慮の災難に襲われた時、「社長さえ(部長さえ)ご無事なら、我が社は安泰です!」と叫んで息絶えるでしょうか。
そうでないなら、私たちは、教育や会社組織のあり方を、もしかしたら抜本的に考え直さなければならないところまできているといえるかもしれません。

日本はもともと「家族国家」です。
日本国民みんなが、ひとつ屋根の下で暮らし、生きる家族となろうとした国です。
そして、様々な国内の組織もまた、それぞれが家族でした。
当時の伊東連合艦隊司令長官のもとに一致団結した日本海軍は、まさに日本海軍という名の大家族だったのです。
だから「長官さえご無事なら」という言葉は、そのまま「オヤジさえ無事なら、一家は安泰なんだ!万歳!万歳!」という声であったのです。

たとえは悪いけれど、昔はヤクザの世界でも「○○一家」と名乗ったものです。
ヤクザの世界は世間の縮図といいますが、そのくらいかつての日本人にとって、自分の所属する軍も組織も商店も学校も、すべては家族そのものだったのです。

それは、伊東の側から見れば、何千人いようが、部下の水兵たちは、ひとりひとりが伊東の家族であり、子供たちでもあった、ということです。
だからこそ、伊東は「松島」が被弾したとき、いの一番に被弾した部下たちのもとに飛んだのだし、伊東の姿を見つけた水兵も、全身血まみれになりながらも、伊東の傍まで寄ってきています。

そして家族を守るために、家族の一員として戦うのだから、他にも敵弾で腹部が裂けて内臓がはみ出す重傷を負いながらも、戦い続けるからと、治療室に運ばれるのを拒否して息絶えた兵士や、紅蓮の炎で全身黒こげになりながらも、消火につとめ、鎮火を見て、息絶えた兵士など、伊東の腕の中で息絶えた兵士同様、彼らのひとりひとりが、持ち場持ち場で、必死になって戦っています。
日本は、もともとは、そういう国だったし、いまも人々の心の奥底にある感情は、まったく変わっていません。

ところが清国北洋艦隊の状況はというと、これはいまの洋風の組織と同じです。
上司は部下を命令によって「支配」し、部下は上司に「支配」されている関係です。

黄海海戦で、北洋艦隊の艦隊責任者である丁汝昌(ていじょしょ)提督は、座乗する旗艦「定遠」に200発近い命中弾を受け、甲板が穴だらけとなり、提督自身も顔や手足に大火傷を負い、左足も負傷しました。
海戦の最中には、一直線に並んでぐんぐん近づいてくる日本・連合艦隊に、水兵だけでなく、一部の艦長までが怖じ気づいて、敵前逃亡を図る始末となりました。

生き残った船は、なんとか本拠地である威海衛(中国山東半島北東部)に逃げこんだけれど、港の入口は、すでに日本艦隊に囲まれていました。
丁汝昌提督は、港の入口をふさぐ日本海軍に挑み、脱出作戦を展開しようとするのだけれど、これに応じようとする艦さえ、いませんでした。
なぜかというと、水兵たちが逆切れして、艦長らを剣で脅しあげ、出港させないように仕向けていたのです。

伊東は、丁汝昌に、見事な達筆で、降伏をすすめる文書を送りました。
もともと開戦前に二人は2度ほど会っていて、これは万国共通なのだけれど、どうも海の男たちというのは、すぐに打ち解けあうものです。

伊東は、老朽化した清国を立て直さんとするとき、必ずや清国は、丁提督を必要とするから、しばらく日本に亡命して、その時まで待ってはどうか。亡命に関しては、日本武士の名誉心に誓って、これを請け合う、と手紙にしたためました。

丁汝昌提督も海の男です。
書信を読んで深く感動した彼は、書信を受けた十数日後、ついに降伏を決意し、丁汝昌提督は、自らの祖国よりも、伊東を信頼する返信をしたためました。
そこには、
「兵士と人民を許して、
 彼らをその郷里に
 帰らせてもらいたい」
と書いてありました。

伊東はその条件を受け入れる旨の書簡を書いたあと、使者にこう質問しました。
「丁閣下にはお変わりありませんか」
そして、体調のすぐれない丁を慰めるため、ブドウ酒とシャンペン、それと干し柿を贈りました。

丁汝昌は、伊東の変わらぬ友情に涙し、
「もはや思い残すことはない」
そう言って北京の方向を拝し、毒をあおって自決しています。

丁提督は、きっと嬉しかったのだろうと思います。
なぜ嬉しかったかのかというと、彼は清国海軍の中にあっても、ただの駒でした。
彼の部下たちも、ただの駒でした。
駒は駒であって、人間ではありません。
ただの道具です。
その道具であることが、ある意味、あたりまえとなっていた清国海軍という組織にあって、伊東は提督を、どこまでも「人」として遇したのです。

「人として扱ってもらえる」
そんなあたりまえのことが、通用しない。
それが上下と支配の社会だったのです。

けれど伊東の応対に、丁提督は、駒や道具としての自分ではなく、ようやく人としての自分を認めてもらえたのです。
だから彼は、思い残すことなく死を選びました。
「士は己を知る者の為に死す」という言葉があります。
史記の刺客伝に出てくる言葉です。
伊東も、丁提督の姿に武士を見ています。

丁提督を失った北洋艦隊は降伏しました。
ところが清国側は丁汝昌以下死者の遺体を、ジャンク船で送ろうとしました。

これを知った伊東は激怒しました。
たとえ敗戦の将とはいえ、国に殉じた提督の遺体をジャンク船ごときで送るとは何事か!

伊東は、没収する予定になっていた運送船「康済号」を没収リストからはずすと、これに遺体を乗せて送るよう、使者である牛将軍に伝えました。
このとき、丁提督を心から尊敬していた牛将軍は、伊東の配慮に感きわまって、その場で泣き崩れたそうです。

伊東は涙ながらに次のように述べています。
「俺が同じような立場になっていたら、
 お前たちはこの俺が
 ボートで送り届けられてもよいのか。
 責任は俺が取る。
 万一お咎めがあったときは、
 俺が死をもって
 お詫びいたすだけのことだ」

丁の遺体を乗せた「康済号」が威海衛から出港する日、連合艦隊の各艦は、半旗を掲げて、一列に整列して見送りました。
伊東は「松島」の甲板に立ち、前をすすむ「康済号」に敬礼を送りました。
その直後「松島」からは弔砲(弔意の礼砲)がはなたれました。
戦う男たちの姿がそこにありました。

けれど北洋艦隊敗北知らせを聞いた清国の光緒帝は、すぐに丁汝昌の財産を没収し、葬儀をも許しませんでした。
立派に戦った提督に対する、伊東が示した武士道と、清国皇帝の姿勢。
このふたつの違いは、実は、日本文化と、China文化の根本的な違いです。
そしてこの事件は、日本が世界から称賛され、日本が世界的な信用を得る出来事となっています。

日清日露との戦勝に勝ち抜いた伊東は、晩年元帥の称号を与えられました。
けれど、伊東は戦いの中で多くの部下を死なせたことを生涯気にかけていました。

伊東の歌です。

 諸共に
 たてし勲(いさを)を
 おのれのみ
 世に誉れある
 名こそつらけれ

戦勝の名聞名利は、明治大帝以下、みんなが力を合わせて戦った結果です。
だから自分が世に誉れる身とされるのは、かえってつらい、と詠んだのです。

大正3(1914)年1月16日、伊東祐亨は、逝去しました。
71歳でした。

国民全体が家族と規定され、互いに助け合うこと、互いに思いやりの心を持つことを国是とするのは、日本が知らす国だからことできたことです。
これを否定すれば、国は「権力者や大金持ちが私腹を肥やすために、利用できる国民の範囲を定めたもの」に成り下がります。
それが世界標準だと言ってしまえばそれまでです。

しかし天然の災害が多発する日本という国土では、一部の権力者、一部の大金持ちたちだけが私腹を肥やし、他の圧倒的多数の国民が貧困に陥る社会では、その権力者やお大金持ちも含めて、人々が生き残ることができない。
そのことを新型コロナウイルスの問題は、あらためて人類社会に問うているように思います。
日本が生まれ変われば、世界が変わる。
いま、その大きなチャンスがやってきています。

※この記事は2011年3月のねずブロ記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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