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我々戦後世代の日本人は、老若男女を問わず、およそ全員が「多数決型民主主義は正しい」と思っています。
その一方で多くの人が英国の元首相のチャーチルが言った「民主主義は最悪の政治だ。これまで試みられてきた民主主義以外のすべての政治体制を除けばだが」という言葉も知っています。
この言葉は逆説的に「民主主義こそが最良の政治」と言ったものであり、民主主義は「最善ではないが他にそれ以上の良いシステムがない」と認識していると思います。

筆者も民主主義は大切なものと思います。
もともと日本は、ニニギノミコトの降臨の際に、天照大御神から「高天原と同じ統治をせよ」と詔を受けて始まった国です。
高天原は天上界の国です。
住民は全員、八百万の神々です。
つまり日本では、民衆を神として崇め、大切にする決意が国の始まりになっています。
古代の人たちは、本気でこれを信じ、日本を極楽浄土のような、あるいは天国のような国にしようと努力を重ねました。
神話から描いた記紀の編纂もそのひとつですし、民衆が高い教養と文化を持した万葉集の編纂もまた、民衆の高い教養を示すものです。

このことは、たいへんよく考えられていて、民衆を八百万の神々と規程するなら、民衆の一人ひとりが高い民度を持つ必要があります。
民度を高くするためには、民衆が高い道徳心を持ち、それを生活習慣にまで落とし込み、さらに社会全体に教育システムが整っていなければなりません。
そして、食料が十分にあり、人を騙したり脅したりしなくても、ちゃんと働けば誰でも豊かな暮らしを手に入れることができるというシステムが必要です。
また政治の上に立つ人たちは、政治権力を持つ分、それとおなじくらい政治責任を持つという意識が必要になります。
他にもたくさんありますが、古代の人たちは、そうしたひとつひとつをしっかりと実現することで、世界中の人たちから、日本をして扶桑の国とか、蓬莱山とまで呼ばせるに到るのです。

さらに、動画やブログでもご紹介しましたが、モンゴルの大帝国が誕生するまで、世界地図は「東が上」に描かれるのが常識でした。
世界のてっぺんには神の国、パラダイスがあるとされ、そこは神仙でなければたどり着くことができない国であるとされたのです。
その国は、いうまでもなく日本のことです。

しかし、日本がいくら天国のような国であっても、それだけでは人々の幸せは実現できません。
日々様々な難問が降りかかり、それをひとつひとつクリアしていく。
ゲームと同じと言ったらいいすぎかもしれませんが、眼の前にある壁をひとつひとつ乗り越えていくというチャレンジは、そのまま人の成長であり、もっといえば、ものすごく苦しくてたいへんなことだけれど、ある意味、しあわせなことであるということができます。

つまり、日本には古代より「究極の民主主義」が実現されていた、ということになります。

その民主主義における意思決定のプロセスとして、現代の多くの国々で採用されているのが「多数決」です。
そしてまた多くの現代日本人が、この多数決という方法もまた、民主主義と同じで「完璧ではないけれど最良のシステム」だと思いこんでいます。

けれど、実際のところ、民主主義と多数決は、異なるものです。
多数決は、勝者と敗者を明確に区分けします。
これは真ん中に縦軸を一本置いて、その左右を「賛成派、反対派」と二分して戦わせ、勝者が次の権力を握るというシステムといえます。
そして多数決の場合、過半数を取った側が勝者(支配者)となり、敗者は一切の発言権がなくなります。ということは、敗者は勝者の奴隷となるということになります。

するとゼロサムゲームが起こります。
たとえば、100人の人たちがいて、多数決で意思決定をします。
このとき51:49で、51が多数となって勝利し、49の人は捨てられます。
その後の意思決定は、51人だけで行われることになります。
ところがこの51人のなかで、また論争が起こり、多数決が行われます。
すると26:25で、25人は権力を失います。
勝った26人でまた意見の対立が起こり、14対13で14だけが生き残ります。
14人の中でまた対立が起こり、8:6で8人が生き残ります。
こうして、8人が5人になり、3人になり、2人となり、最後は相打ちとなって、全員が政治権力を失います。

つまり、多数決というのは、民主主義における根幹であるかのように見せられているだけで、その実態は、多数決を後ろで動かしているひとにぎりの資本家だけが生き残るというシステムなのです。

そしてこれを推進するために、賛成派、反対派というように、それぞれの極論ばかりが強調されます。
そしてどうにもならない二項対立がそこにあるかのように演出されます。

けれど少し考えたら誰にでもわかることですが、世の中というのは、絶対賛成派と絶対反対派の2つにひとつしかないわけではありません。
現実には八百万の神々のほとんど全部が、どっちつかずでいるのです。

そこで我が国では、重要事項を皆で決めようとするときには、
1 まずはみんなで議論し、上下を問わず意見を出し合う
2 絶対賛成、絶対反対の人は、意思がはっきりしているので、部屋から出ていってもらう。
3 部屋にのこった圧倒的多数のどっちつかずの人たちでしっかりと話し合う。
4 意思が決定したら、絶対反対であっても、一緒に気持ちよく仕事をしなければならない。
といったシステムが行われていました。
このシステムは、中央政治も、村落内も、同じです。

とりわけ中央政治では「詔(みことのり)を受けては必ず従え」(十七条憲法)」とされ、協議の結果が天皇の詔となったときには、反対意見の人であったとしても、必ず従わなければならないとされました。
このことは大名家や商店、あるいは村落においても同じで、決定事項がトップ(名主)から示達されたときは、みんなで従うことが常識とされました。

意思決定のプロセスにおいては、みんなが納得するまでしっかりと話し合う。
話し合った結果は、みんなで守り実行するということが、社会の常識であったのです。

ひるがえって西洋化した現代を見ると、そもそも意思決定自体が日米合同会議とか日本の民衆の利益とはまったく異なるところで行われ、また法の通りに執行すべき行政府が事実上の立法府となっていたり、そもそも意思決定をすべき機構の立法府も含めて、日本から技術やカネを奪いたい外国人等のスパイが多数入り込んでいます。
またひとたび意思決定が行われても、いつまでもどこまでも「反対」の声がくすぶり続け、それどころか反対の声の方に、むしろ分があったりしています。

ここまで壊れると、抜本的な立て直しが必要となるのですが、その立て直しの根幹となるべき国民精神そのものが崩壊しているという有り様になっています。

このため「日本がつぶれる」を連呼される方も多くおいでになりますが、一方で、いまだに日本は世界三位の経済大国であり、戦後79年にわたり、ひとつも戦争をすることのない、平和を愛する国でいます。
もちろんそれが「茹でガエル状態」でもあるのですが、平和で、そこそこ豊かだからこそ、しっかりと明日の日本を築くことが必要であると思います。
そのためには、社会人教育が不可欠です。
なぜなら、普通の日本人が変われば、日本は変わることができるからです。

そして教育は、怒りを持つためのものではありません。
もちろんそれも必要ですが、それ以上に、明るく健康的で前向きで、私達日本人の共同体、つまり国益に適う教育である必要があります。

教育が「希望」を生むのです。

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