すこし日にちが経ってしまいましたが、3月16日は、硫黄島の戦いで栗林忠道兵団長が、決別電報を打電した日です。
涙なくして読めない、その電文の全文をご紹介します。
日本男児であれば、一度は読むべき電文であると思います。

はじめに、いつものようにねず式で現代語訳します。
そのあとに原文を掲載します。
なお、原文の漢字は新字体に直しています。

 ***

硫黄島総指揮官栗林忠道中将の決別電報

(硫黄島の)戦局はついに最後の瀬戸際となりました。
敵がやってくるとわかって以来、
指揮下にある将兵の敢闘は、
まことに鬼神さえも哭(な)かしむるものでした。

想像を越えた物量的優勢で行われる陸海空の攻撃に対し、
あたかも徒手空拳同様の装備でありながら
よくここまで健闘を続けたことは、
私のいささかのよろこびとするところです。

しかし、あくなき敵の猛攻に味方は相次いで倒れ、
ご期待に反して
この要地を敵手に委ねる状況になったことは
慚愧(ざんき)に堪えません。
いくえにもお詫びを申し上げます。

いまや、矢弾(やだま)尽き、水涸(か)れました。
これから残った全員で最後の反撃を行ないます。
いま、あらためて皇恩を思い、
骨を粉にし、身を砕(くだ)きます。
ここに一切の悔いはありません。 

硫黄島は、これを奪還しない限り、
皇土は永遠に危険にさらされるとこを思い、
この先は、魂魄となっても誓って、
皇軍の捲土重来(けんどちょうらい)の魁(さきがけ)となります。

ここに最後のときにあたり、
重ねて真心を披歴するとともに、
ひたすら皇国の必勝と安泰とを祈念いたしつつ、
永久(とわ)の国へのお別れを申し上げます。

なお、父島・母島等については、
同地にある麾下の将兵らはいかなる敵の攻撃であっても、
これを断固粉砕することを確信しますので、
なにとぞよろしくお願い申し上げます。

最後になりますが歌を詠みました。
ご笑覧いただき、なにとぞご添削いただければと思います。

国のため 重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき
仇討たで 野辺には朽ちじ吾はまた 七度生れて矛を執らむそ
醜草の 島に蔓(たづ)るその時の 皇国の行手一途に思ふ

 *****

この電文は、昭和20年3月17日に硫黄島から大本営に宛て打電されました。
翌17日、大本営は特旨によって、栗林中将を陸軍大将に昇進させました。
ときに栗林大将、53歳。
これは日本陸軍始まって以来、最年少での昇格になります。

同日、栗林大将は、残存部隊に次の指令を行いました。

 1 戦局は最後の局面となった。
 2 兵団は本日夜、総攻撃を決行し、敵を撃砕せんとする。
 3 各部隊は、本日24時をもって各方面の敵を攻撃せよ。
   最後の一兵となってもあくまで決死敢闘すべし。
 4 予は常に君たちの先頭にある。

ところがこの日は敵の警戒が厳しく、結局26日に至って、栗林大将は約400名の部下たちとともに、米軍の野営地への夜襲突撃を敢行し、全員、還らぬ人となりました。

硫黄島の戦いは、島に立て籠もる日本軍2万2,786名です。
2月19日に戦いの火蓋が切って落とされ、全員玉砕した3月26日まで、35日間の戦いでした。
そしてこの島での戦いは、日本側の死傷者よりも、米軍のそれが上回った唯一の戦いとなりました。

電文にありますように、米軍は圧倒的な火力をもって、陸海空から猛攻撃を加えました。
栗林大将以下の硫黄島守備隊は、それを予期して島中に地下道をめぐらせていました。
硫黄島は岩石の島です。
その岩を、地中深く、手作業で掘り進めたのです。
小さな島に、その坑道の全長は28kmにも及びました。

掘った地中の通路は、硫黄島の火山から噴出される硫黄ガスが立ち込め、坑道内は30℃から50℃の地熱で、湿気も多く、まるで蒸し風呂のような状態にありました。
地下には風も吹きません。
そんな酷暑の中にあって、爆風を耐えしのぎ、スキを見つけては敵軍の上陸部隊を叩き続けました。

硫黄島にある摺鉢山(すりばちやま)のてっぺんには、もともと日章旗が掲げられていましたが、島に上陸した米軍によって、その日章旗は降ろされ、代わって星条旗が掲げられました。
我軍は、その星条旗を三度まで引きずり降ろし、日章旗を掲げています。
汚れた布を日章旗に仕立て、真ん中の日の丸を血で染めたのでしょう。
三度目の日章旗は、白地は黄ばみ、日の丸の赤茶色であったそうです。

敵が猛然と降らせる重爆撃や、塹壕の入り口から放たれる火炎放射器の炎熱を、暗い地下道の中で35日間も耐え続け、そして散華されたのは、他の誰でもない、私たちと血の繋がった若者たちです。

その勇気ある戦いのおかげで、日本はギリギリ、終戦後も国家の解体を免れました。
それは、戦って命を失ったあとも護国の鬼神となって国を守ってくださった英霊のおかげであると思います。
英霊に、あらためて感謝の意を捧げ、黙祷をしたいと思います。

最後に一点、付け加えたいと思います。
日本は、これからも米国と仲良くやっていくべきだと思います。
同じように、ロシアとも仲良くするし、チャイナやコリアとも仲良くする。
これが何を意味しているのかというと、どの国とも、日本は等距離で接するべきである、ということです。
対米べったりという姿勢は、日米両国にとって無益です。
主体性を持つ者同士が仲良くすることで、はじめて生産的なお付き合いができるのです。

米国大統領選挙後、さまざまな議論が飛び交っていますが、権力闘争においては、より悪質な者が勝利するというこれまでの世界の構図は、基本的に変わっていません。
ということは中共より米国は、なまじ宗教的良心があるだけ、戦いに不利だということです。
このままでは、米国は崩壊し、中共はその崩壊した米国から甘い汁を吸い続けることになることでしょう。

そして大統領選にはじめるその過程の中で、世界は権力闘争、覇権闘争では人類社会が幸せをえることはできない、ということに世界が気付き始めるものと思います。

今回記述した硫黄島の戦いは、先の大戦末期の激しい戦いです。
しかし、硫黄等を含め、島嶼防衛に当たった帝国陸軍はたったの27万人です。
これを米軍は、110万人の軍兵と、豊富な火力でようやく、攻め落としました。
けれど終戦時点で、我が国にはまだ600万の陸軍が温存されていました。

いろいろ議論はあると思います。
しかし、ベトナム戦争がそうであったように、もし日本が本土決戦を選択していたら、果たして戦況はどうなったかわかりません。
日本が大戦を一方的に終結させたのは、当時、新型爆弾と呼ばれた核爆弾の撃ち合いになることをおそれたからにほかなりません。

日本の歴史を振り返ると、たとえ戦いに破れたとしても、そのことをあとから振り返ってみると、神々のみえざる手、つまり何らかの神々の御意思がそこに働いていたことに気付かされます。
たとえば、源平合戦は日本を二分する激しい戦いとなり、源氏が勝利しましたが、この戦いがあったればこそ、50年後の元寇を日本は耐え抜くことができました。

戦国時代は国が荒れましたが、ところがその戦国時代に日本の武士たちが東南アジア諸国に行ったことで、日本は欧米列強から一目置かれるようになり、日本への植民地侵略を最小限に抑えることができたし、また東亜諸国が白人国にならずに済んでいます。

私は、大東亜の戦いは、世界の人類が一部の人間の支配によって民衆が収奪され続けるという「権力の世界」から、世界の人類が権威のもとに、ともに助け合い、利益を分かち合うことができる「権威によって民衆がおほみたからとされる」時代へと変わる、人類100年戦争の緒戦であったとみています。

76年前の英霊たちの長く苦しい戦いは、これからいよいよ世界を大きく前進させる、大きな意義を持つものとして、これから世界で再評価されるように、きっとなるものと思います。

<原文>
戦局最後ノ関頭(かんとう)ニ直面セリ
敵来攻以来麾下将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭シムルモノアリ
特ニ想像ヲ越エタル物量的優勢ヲ以テスル陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ
宛然(えんぜん)徒手空拳ヲ以テ克ク健闘ヲ続ケタルハ
小職自ラ聊カ(りょうりょく)の悦ビトスル所ナリ
然レドモ飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ
為ニ御期待ニ反シ此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ
小職ノ誠ニ恐懼(きょうく)ニ堪ヘザル所ニシテ幾重ニモ御詫申上グ
今ヤ弾丸尽キ水涸レ全員反撃シ最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方リ
熟々(つくづく)皇恩ヲ思ヒ粉骨砕身モ亦悔イズ 
特ニ本島ヲ奪還セザル限リ皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ
縱(たと)ヒ魂魄(こんぱく)トナルモ
誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス 
茲ニ最後ノ関頭ニ立チ重ネテ衷情ヲ披歴スルト共ニ
只管(ひたすら)皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ
永ヘニ御別レ申上グ
尚父島母島等ニ就テハ同地麾下将兵如何ナル敵ノ攻撃ヲモ
断乎破砕シ得ルヲ確信スルモ何卒宜シク御願申上グ
終リニ左記駄作御笑覧ニ供ス何卒玉斧(ぎょくふ)ヲ乞フ

   左 記

国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
仇討たで野邊には朽ちじ吾は又 七度生れて矛を執らむぞ
醜草の島に蔓(たづ)るその時の 皇国の行手一途に思ふ

※この記事は2017年3月のねずブロ記事の再掲です。

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