「清陽」は、こう書いて「清(すみ)陽(あきらか)」と読みます。
「清」は、青く透き通った水の会意文字で、音読みが「セイ・ショウ」で、訓読みが「きよ、すがし、すむ」です。
意味は説明するまでもないと思います。
「陽」は、丘の上に太陽が昇ることを意味する会意兼形声文字で、音読みが「ヨウ」、訓読みは「ひ」の他に「あきら、きよし」などがあります。

日本書紀では、この2つの漢字を組み合わせた「清陽」を「すみてあきらか」と読み下します。
つまり「清らかで、あたたかく、ほがらか」なことです。

日本書紀は冒頭で、
「清陽が薄くたなびいて天となり、
 重く濁ったもの(重濁)が地(つち)になった」
と書いています。
つまり「天」というのは、もともと「清らかで、あたたかく、ほがらか」なのです。

ですから、神々と心を合わせようとするなら、ただ「清らか」なだけでは足りません。
「ほがらか」でなければならないのだ、と日本書紀は書いていることになります。

生きていれば、毎日体(身)は汚れます。
身の汚れは、お風呂に入ればきれいになります。
けれど、同時に身の本体である霊(ひ)も穢れます。

穢れは専門の人に祓っていただくこともありますが、普通は、神社に参拝して祓います。
けれど日本書紀は、
「祓うだけではダメです」
と書いているのです。

なるほど神社に行ってお祓いをしてもらえば、霊(ひ)の穢れは祓うことができます。
けれど同時に、「ほがらか」でなければならないと、日本書紀は書いているのです。

なぜなら、ほがらかであることは明るいことだからです。
だから「清陽(すみてあきらか)」は、きよらかでほがらかで明るいことを意味します。

そして「清陽な国」のことを、「うまし国」と言います。
「うまし」は、一般には「美まし国」を書かれますが、日本書紀は「怜 忄可」と書きます(忄可でひとつの文字)。
「忄可」という字は、心にかなうことを意味する漢字です。
誰もがほがらかに、明るい気持ちで正直に生きることができる国。
それが清陽な国であり、うまし国です。

それは、一部の特権階級の人にだけに与えられたものではありません。
このことをしろしめすために、神々はときどき、台風や地震などの災害を人々に与え、人間界の上下など、塵に等しいことを人々に思いださせてくださいます。
お金持ちでも貧乏人でも、天災は等しくやってくるのです。

日本は神武天皇を初代天皇として出発した国です。
その神武天皇の建国の詔(みことのり)を読むと、ひとつのことが明らかになります。
それは、人々がお米を備蓄し、災害にあったときお米を地域を越えて融通しあうことで、みんながひとつ屋根の下で暮らす家族のようになって生きていこうとするものです。
その食料の融通を公正に行うために、築かれたのが「みやこ」です。

「み」は、たいせつな
「や」は、屋根のある
「こ」は、米蔵のことを言います。

災害の多発する日本列島の中で、生き抜く智慧が日本建国の原点にあります。
そうすることで、我々の祖先たちは、我が国を「清陽(すみあきあらか)な、うまし国」にしてきたのです。

だから、「日本を取り戻す」というのは、怒ってばかりいる日本にすることではないのです。
明るく、前向きな気持で、ほがらかな国にしていくことが大切なのです。

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