祝詞(のりと)にも出てくる、「竺紫の日向の橘小門の阿波岐原」のお話をします。
『古事記』に出てくる言葉です。
黄泉の国から帰ってきたイザナギ大神が、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘小門(たちばなのおど)の阿波岐(あはき)原で、禊祓(みそぎはらひ)をされたというお話のところです。
読み下し文ですと、次の文になります。
是以(これをもち)て伊耶那岐大神は、
「吾(あ)は、伊那志許米上志許米岐(いなしこめ、しこめき)(此九字以音)、穢(きたな)き国に到りて在(あ)り祁理(けり)(此二字以音)。
故(ゆへ)に、吾(あ)は身の禊(みそぎ)せむ」と詔(の)らして、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘小門(たちばなのおど)の阿波岐(あはき)(此三字以音)原(はら)にて、禊祓(みそぎはらひ)せむ」
この段は、祝詞の中に必ず出てくる言葉でもあり、神道では、とても大切にされているところです。
「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘小門(たちばなのおど)の阿波岐(あはき)原で禊祓(みそぎはらひ)しましき〜」という言葉は、神社の祝詞でお聞きになられたことのある方も多いかと思います。
これを読んだり聞いたりして、単に「ああ、九州の海岸で禊祓いをしたのか」と読むと大きな勘違いをします。
そもそも黄泉の国に行かれたから、そこで穢れを拾ってきたのです。
「しこめ、しこめき、きたなき」は、「醜くくて汚い」という意味ですが、「みにくい」は「見えにくい」という意味にもかかります。
「しこめ、しこめき」は、「凝目(しこめ」にもなるからです。
つまり、汚い穢れというのは、目に見える汚れだけではなくて、見えない、自分ではわからない汚れがあるのです。
それを「つくしのひむかのたちばなのおど」でみそぎし、はらうのです。
「みそぎ」は、普通「禊」と書きますが、「身を削(そ)ぐ」という意味でもあります。
身を削(けず)るのです。
体を刃物で削ったら、痛いですが、それくらいしっかりと穢れを削いでいくのです。
それが「つくしのひむかのたちばなのおど」で行われます。
古事記は、もともと稗田阿礼が大和言葉で暗誦していたものを文書に書き残したものだ、ということは、皆様ご存知と思います。
つまり、もともと口伝だったのです。
すると次のような意味が兼ねられていることが見えてきます。
この段の原文は、
「到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐(此三字以音)原而禊祓也」です。
これを七五読みすると、次のようになります。
到坐 いたります 5文字 ここに至って
竺紫日向之 つくしひむかの 7文字 心を尽くして日に向かい
橘小門之 たちおどの 5文字 立って声をあげ
阿波岐原而 あはぎはらにて 7文字 吾(あ)は、ぎ(岐・すべてを)、腹から
禊祓也 みそぎはらはむ 7文字 身を削ぎ(けがれ)を祓うのだ
日に向かいというのは、我が国の最高神は太陽ですから、太陽に向かってという意味と、日=霊(ひ)ですから、みずからの霊(ひ)に向かって、という2つの意味が掛けられます。
そしてこの後、様々な神々が成られるのですが、どのように書かれているかというと、
投げ棄つ杖から→衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)
投げ棄つ帯から→道之長乳歯神(みちのながちちはかみ)
投げ棄つ袋から→時量師神(ときはかしのかみ)
投げ棄つ衣から→和豆良比能宇斯能神(わづらひのうしのかみ)
投げ棄つ褌から→道俣神(みちまたのかみ)
投げ棄つ冠から→飽咋之宇斯能神(あきぐひのうしのかみ)
投げ棄つ左手の手纒(たまき)から
→奧疎神(おきざかるのかみ)
→奧津那芸佐毘古神(おきつなぎさひこのかみ)
→奧津甲斐弁羅神(おきつかひえらのかみ)
投げ棄つ右手の手纒(たまき)から
→辺疎神(へざかるのかみ)
→辺津那芸佐毘古神(へつなぎさびこのかみ)
→辺津甲斐弁羅神(へつかひべらのかみ)
とあります。
手に持っている物、着ている衣類、左右の手にしている物を、まずはすべて投げ捨てています。
そしてこのあと、瀬、つまり動きの中で背負った穢れから神が成り、また水に潜って禊するときに、
底津綿上津見神(そこつわたつみのかみ)
濯(すす)ぐときに
中津綿上津見神(なかつわたつみのかみ)
水の上から
上津綿上津見神(うわつわたつみのかみ)
などが生まれています。
どういうことかというと、まずこの段ではイザナギのことは「大神」と書かれています。
「大神」とは偉大な神、という意味です。
その偉大な神が、手に持っている物、身につけている物一切を手放し、
また水の中、つまり心の深層意識、中層意識、表層意識の中にある穢れの一切を祓い、手放しているということが書かれているわけです。
そしてこうして一切合財を手放したときに、天照大御神を筆頭とする偉大な三貴神がお生まれなっています。
我々は凡人であり、偉大な神とは程遠い存在ですが、
偉大な神ですら、すべてを手放されて、禊、祓いされているのです。
我々凡人もまた、何事かを成し遂げようとするときには、欲をかいて何でも欲しがるのではなく、何もかもを手放すことによって、はじめて、何事かを為し得る、そういうことがここに書かれているのではないかと思います。
西洋の文化では、逆です。
欲深い者が、大金を手にして、あらゆるものを手に入れて贅沢三昧な暮らしをします。
別な言い方をするなら、それは拝金主義ですが、その拝金主義によって、自分だけの贅沢を手に入れ、人々を支配することが、人生の成功であるとされます。
このことはチャイナも同じです。
日本の発想は逆です。
あらゆる欲望から解き放たれて、何もかも手放していく中に、仲間となる神々が誕生し、そして偉大な事業を為し得るのだとしているわけです。
「何もかも手放したら、何もできなくなるではないか」と思われるかもしれません。
けれど、手放したものたちは、それぞれが神となり、仲間となっていくのです。
そしてそれら神々、人の世界なら友人たちと、一緒になって、みんなで力を合わせて、偉大な事業を成していく。
人の幸せは、自分だけがいい思いをすることにあるのではなく、
みんなの笑顔と幸せがあるとき、自分もまた幸せを得ることができる。
そういう教えが、日本の神話です。
古事記の解釈は、様々なものがあります。
古いものですから、どの解釈が正しいとか、間違っているとかいうことはありません。
そして、どこまでも深堀りしていくことができるのが、古事記のおもしろさでもあります。
けれど、
「竺紫の日向の橘小門の阿波岐原にて禊祓せむ」
というこのひと言が、祝詞(のりと)の祓詞(はらえことば)にも登場するということは、単にイザナギ大神が禊ぎ祓いした場所を示しているからというだけではないということを意味していると思います。
たとえば天津祝詞(あまつのりと)は、次のような構文になっています。
たかあまのはらにかむづまります
高天原に神留坐す
かむろぎかむろみのみこともちて
神漏岐神漏美の命以ちて
すめみおやかむいざなぎのおほかみ
皇親神伊邪那岐の大神
つくしひむかのたちばなのどのあわぎはらに
筑紫日向の橘の小門の阿波岐原に
みそぎはらいたまうときにあれませるはらえどのおおかみたち
禊祓ひ給ふ時に生坐せる祓戸の大神等
もろもろまがごとつみけがれを
諸々禍事罪穢を祓へ給ひ清め給ふと
はらいたまえきよめたまうとまうすことのよしを
申す事の由を・・・(続く)
つまり
「禊祓うときに生られた大神たちに、
禍事罪穢を
祓ってください、清めてください」
という構文になっています。
けれどこのことは、いわゆる他力本願で祓ってくださいとお願いするのではなく、その深奥にあるのは、自らの欲望その他の穢れを自分で払い落とす決意と実行を、神々の前に誓うということにある、と、このように読めるわけです。
現代の世界を観ると、ほんのひとにぎりの大金持ちたちが世界中の情報を操作し、世界中の人々を騙し、世界中の人々の平穏な暮らしを邪魔し、破壊することで、自分の利益を極大にすることが行われています。
いわゆる拝金教で、金儲けがすべてとばかり、七度生まれ変わってもまだ使い切れないほどのお金を持っていながら、なお、金を儲けようとしています。
世界のわずか0.1%の人が、世界の富の半分を手にしているとも言われています。
しかし大金持ちも、煎じ詰めれば「ただの人」です。
我々庶民もまた、間違いなく「人」です。
金があろうがなかろうが、人であることに変わりはなく、人である以上、そもそも対等な存在です。
そして、世界中の誰もが、自分を主役とする人生を生きています。
世界中、どこにも、生きている人間に、モブキャラなんていないのです。
縄文以来の日本の文化は、小さな集団の中で「みんなの幸せが自分の幸せ」という思考を大切にしてきた文化です。
そこにあるのは、全部、幼い頃から見知った人たちです。
そういう人たちのために行動する、幸せを提供する。
ここにこそ、日本の文化の原点があります。
だから、すべてを手放し、欲望から解き放たれて自由になる。
これが、禊(みそぎ)です。
けれど、自分ひとりで禊をして、それなりに清くなったつもりでいても、人というものはどこか穢れを持つものです。
だから神々のお力をお借りして、祓(はら)いをします。
古事記の言葉、そして祝詞の言葉は、そういう意味の言葉です。
西洋の文化は、何でも手に入ようとする文化です。
富、権力、贅沢な食事、旨い酒、女性など、あらゆるものを手に入れ独占しようとします。
最近流行の勝ち組、負け組といった言葉も、そうした文化に由来します。
けれど日本の文化は、その真逆です。
イザナギの大神がそうされたように、私たちもまた、自分の持つ様々なモノや欲望や執着の一切を手放します。
これは実に理にかなっていることだと思います。
なぜなら、世の中は平均の法則が必ず働くからです。
作用があれば、かならず反作用があるのです。
ということは、すべてを手放すことで、私たちはいちばん大切な、そして貴重なものを手に入れることができる。
それがひとりではなかなか難しいことだから、神々のお力をお借りして、手放していく。
それが祓いであり、祓詞なのであろうと思います。
※この記事は2022年4月のねずブロ記事のリニューアルです。