江戸時代にも現金送金はありました。
どうやって送金するかというと、金飛脚(かねびきゃく)と呼ばれる専門の飛脚さんがいて、街道をエッホエッホと走って全国にお金の配送をしていました。

金飛脚は、普通の飛脚さんと違い、腰に一本、長脇差を穿(は)きました。
護身のためですが、江戸時代265年を通じて、この金飛脚が道中に襲われたという記録は1件もありません。
これはすごいことです。

その金飛脚に、どうやって現金輸送を依頼したのかというと、これは先日お亡くなりになった加瀬英明先生から教えていただいたことですが、たとえば江戸から地方に送金するときには、江戸の日本橋(いま日本橋三越のあたり)に、送金するお金を持参します。

ご存知のように日本橋は、東海道、日光街道、甲州街道、奥州街道、中山道の五街道の出発点であり、また全国から江戸にやってくる人たちの到達点で、それこそよそ者たちが日々入れ代わり立ち代わりやってくるところです。
しかも現代の新宿や渋谷の歩行者天国みたいに往来の華やかなところです。

そんな日本橋のすぐ脇に、竹で編んだ平たいザルがいくつも置いてある場所がありました。
ちょっと山奥の方の温泉などに行くと、脱衣場に三段くらいの棚があって、その棚に竹で編んだザルが於いてあるところがあります。
もちろん鍵など付いていません。
実は、それと同じような施設が、日本橋のたもとにあったのです。
それが現金送金所でした。

ザルには全国の各藩の名前を書いた紙が貼ってあって、送金を依頼したい人は、現金を送りたい先の藩の名前が書いてあるザルの中に、風呂敷にくるんだ現金に宛先を書いた紙を貼って、ただ「置く」だけでした。
見張りも、立会人もいません。

送金手数料は、各地ごとにいくらいくらと書かれた箱が脇に設置してありました。
いまでも郊外に行くと見かけることができる、農産物の無人販売所の仕組みと同じです。
送金を依頼する人は、指定の金額を箱に入れるだけで、そこにも見張りも立会人もいません。

当時250万の人口を持ち、世界最大の都市であった江戸です。
その江戸から全国への送金となれば、おそらくそこには、合計すれば何千両といった大金が、毎日そこにただ置かれていました。
一定の時間になると、どこからともなく金飛脚の人がやってきて、自分の担当する行き先のザルから金をくるんだ包を箱に入れ、そのままエッホエッホを駆け出して行きました。

そんな現金送金所が、やはり江戸265年間を通じて、泥棒被害に遭ったことが、ただの一度もなかったのが江戸時代です。

近年に日本にやってくる外国人が、日本の自動販売機が人通りのないところに設置してあっても襲われないことに驚くと言います。
しかし日本人なら、その自動販売機を壊して中からカネを盗もうなど、おそらくそんな知恵自体がわいてこないし、思いもしないものです。
これが日本人です。

そういえば、同じく加瀬先生から教えていただいたのですが、江戸時代の享保(きょうほう)年間の話があります。
享保年間といえば、テレビの時代劇の「暴れん坊将軍」で有名な将軍吉宗の治世です。
享保年間は、ちょうど20年続いたのですが、その20年間に江戸の小伝馬町の牢屋に収監された犯罪者の数は、いったい何人だったでしょうか。

答えは「0人」です。
それはお奉行所が仕事をしないでサボっていたからではありません。
奉行所が一生懸命仕事をして、犯罪の予防に勤めたから、牢屋に入れられるような犯罪を犯す者自体がいなかったのです。

「人のものを盗むな」、「人の悪口を言うな」などは、日本人にとっては、ごくあたりまえの常識です。
すくなくとも昭和30年代くらいまでは、一般的社会風潮として、日本社会に色濃く残っていたように思います。

うちの実家は市内の街中にありましたが、クルマ好きで自営業を営む父が、家族全員を連れて泊りがけで社員旅行に出かけるときも、家の玄関に鍵などかけなかったし、そもそもその鍵というもの自体が、玄関についていませんでした。

それが昭和40年代になって、なんと我が家にも一人前に泥棒が入りました。
警察官がやってきて「家の玄関に鍵をかけない方が悪い」などといわれ、そこで初めて「家の鍵」などという立派なもの(笑)を取り付けることになりました。

もっとも鍵を持ち歩くという習慣がなかったから、家族の誰もが困らないようにと、鍵は玄関のかもいの上にいつも置きっぱなしでした。
子供でも手が届くところですから、大人が見れば、目の高さよりもちょっとだけ高いくらいの所に鍵が置かれていたわけで、いま思えば、「あれはいったい何だったのだろうか」と、思わず笑えてきます。

もっとも泥棒さんのほうも、家内に侵入したは良いけれど、盗むものが何もなくて(本当に家の中には何もなかった)、盗まれたのは壁にかけてあった木製の般若のお面だけでした。

犯人は捕まりました。
近所に越してきた生粋の日本人ではない方の家の中学生の子でした。

明治以降、日本の治安は極端に悪化しました。
ひとつは幕末に、いわゆる志士と称する暴れ者たちが、あちこちで斬り合いをしたり、商家を襲って無理やりカネを出させたりということが残念なことですが)ありました。

その後に国を二分する戊辰戦争がありました。
大きな戦いがあると、そのあとに生き残る若者たちが、極端な行動に走ります。
これは万国共通で、結局のところ
「仲間たちが戦場でみんな死んだのに、どうして自分だけが生き残ったのか」と自暴自棄になり、極端な行動に走る若者が出てしまうのです。
近いところでも、先の大戦のあと、日本にはいわゆる愚連隊と称する人たちが暴れました。

ただ、そうはいっても日本人には、どこか「盗みはすれども非道はせず」と名文句で有名な歌舞伎の日本駄右衛門のように、どこか、まっとうに生きようとする力が必ず働きます。

人は時代の影響を受けますから、時代ごとに我が国にも人心が乱れた時代はありましたが、そんな極端に乱れた時代でも、世界標準からみたら、日本は世界で最も治安が良く、民度の高い国であったのです。

戦後の日本では、子供の教育に、メディアの報道やドラマに、これでもかというくらい、日本の昔がひどい社会であったかのような宣伝工作が行われました。
一説によれば、戦後、そんな日本解体、日本人の精神性破壊のために投下された資金は、全部合わせると100兆円を下らないとも言われています。
それでもなお、多くの日本人は、世界的にみて、もっとも民度が高いし、民度の高い国柄を持っています。

けれどそれも、いまや限界ギリギリ。
このままいけば、日本人のもともと高かった民度も、欧米並みに堕ちていくことになるでしょう。

昨今、日本に多くの外国人がやってくるようになりました。
それは、日本が三〇年間経済成長をストップさせたことで、日本人の所得も世界から見たらはるかに低いし、物価も安くて、外国人から見たら日本に旅行しやすくなった・・・という理由もあります。
けれど、安いだけなら、日本以外にもっと物価の安い国があります。

そんな外国人たちが、では日本のどういうところに観光に行っているかというと、日本の歴史的遺産といえる神社や仏閣、庭園、お城、そしてアーケード商店街などです。
つまり彼らの多くは、日本人の持つ文化性を目指してやってくるのです。

日本人の志向も変化してきています。
半世紀前まで多くの日本人はニューヨークの摩天楼のような現代的な都市や都会的なオフィス街などに憧れを持ちました。
大都会とか東京と聞くだけで、なんだかドキドキ・ワクワクする、そんな気風が確かにあったように思います。
早い話、だからドラマもアニメも、都会をイメージさせるような作品が多かったように思います。

ところが昨今の日本では、アニメ映画の「すずめの戸締まり」や「君の名は。」といった作品に象徴されるように、どちらかというと地方都市や神社やお寺といったところが、作品のイメージとなっています。
あるいは「鬼滅の刃」にあるのは、大正時代の日本の風景です。

外国人の東京観光で人が集まるのは、新宿の高層ビル街ではありません。
浅草の雷門です。
そしてそんな東京よりも、京都は外国人にとってのまさに憧れになっています。

日本のもつ世界に誇れる歴史や文化、伝統といったものが、外国人にも受け入れられるようになってきています。
そして日本人もまた、若者たちを中心に、そうした日本のもつ歴史文化伝統に目覚める人が増えています。
目覚めていないのは日本の政治です。

昭和天皇の終戦のご詔勅です。

「もしそれ情の激するところ、
 みだりに事端を滋(しげ)くし、
 或(あるい)は同胞排儕(はいせい)
 互(たがい)に時局を乱(みだし)、
 為(ため)に大道(たいどう)を誤り、
 信義を世界に失(うしな)うが如(ごと)きは、
 朕最(もっと)も之これを戒(いまし)む。

 宜(よろし)く挙国(きょこく)一家(いっか)
 子孫相伝(あいつた)へ、
 確(かた)く神州(しんしゅう)の不滅を信じ、
 任(にん)重くして道遠きを念(おも)い、
 総力を将来の建設に傾け、

 道義を篤(あつく)し、
 志操(しそう)を鞏(かたく)し、
 誓(ちか)って国体の精華(せいか)を発揚(はつよう)し、
 世界の進運(しんうん)に後(おくれ)ざらむことを期すべし」

※この記事は2023年4月のねずブロ記事の再掲です。

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