近年、光と闇の対立とか、善と悪の対立などといった言葉が流行っています。
闇の時代が終わり、これから光の時代になる、といった具合です。
しかし、本当でしょうか。

そもそも二項対立論では、決して明かされることがない事実があります。
それは、どこまでが闇で、どこまでが光なのか。
あるいは、どこまでが善で、どこからが悪なのかという線引です。

なるほど、誰がどうみても悪いものというのはあります。絶対悪と呼んでもいい。
あるいは、光り輝くものもあります。絶対光とでもいうのかもしれません。

けれど、ではどこまでが光の世界で、どこからが闇の世界なのかとなると、その境界線は曖昧です。
明快に線引することなど、誰にもできることではありませんし、おそらくそれは神様であっても難しいのではないかと思います。
なぜならこのような二項対立論というのは、物事を直線的な一次元で、しかもそれを極端にしか見ていないからです。

一本の直線があり、その片端が光か善、その片端に闇や悪があるとします。
中間点が「0ポイント」で。光や善が「+」、闇や悪が「ー」とします。
しかし、その「0ポイント」がどこにあるかは誰にもわからない。
それどころか、二項対立論や善悪二元論では、その「0ポイント」を示すこと自体、できない、のです。

そもそも善から悪までの直線が、どこまでどの程度伸びているか自体がわからないことです。
そうであれば、中間点となる「0ポイント」の位置など決めようがありません。
つまり二項対立論や善悪二元論は、単に極端なものをあげているにすぎないということになります。
ということは、それは「詭弁(きべん)だ」ということです。

実際には、物事には「分布」があります。
悪から善へ、闇から光へ。その直線となる「x軸」に、分布を示す「y軸」が加わることで、中央値や平均値が定まります。
そして平均値がわかれば、分布の状態が、多くの場合、正規分布に従うことになります。

光闇も善悪も分布なら、中央値あたりにいる人たちが最も多人数です。
極端な光や、極端な闇、あるいは極端な善、極端な悪は、ごく少数です。

テストの偏差値と同じです。
偏差値50のあたりの生徒さんたちは、勉強ができるともいえるし、できないともいえる。そしてそんな子が、数の上では一番多くなります。
逆に偏差値20以下や、80以上になると、その構成比は全体のわずか0.13%です。比率で言ったら740人にひとりの割合でしか発生しません。
偏差値90になると、0.00317%、31500に1人の割合です。
さらに偏差値99になると、その構成割合は 0.00000479183%です。

何十万、何百万にひとりの割合にしかいないし、あるいは何十万、何百万の中には、必ず極右や極左が存在することになります。
そうした、ごく一握りの人たちの意見に振り回されて、多くの人々の豊かで安全で安心できる暮らしが反故にされるなど、もってのほかです。
さらにそうした極の人たちによって、多くの人々が二元論的に立て分けられることは、どうみてもおかしなことです。

もっというと、この世は、二次元の平面の世界ではなく、平面に高さを加えた三次元世界です。
三次元になると、分布に高さが加わりますから、中央の山に四辺が生まれます。
これはたとえば、光の側にいるけれど性格の悪いやつ、悪の側にいるけれど性格の良いやつ、みたいなものが実際には存在してくるわけです。
そして立体図形の分布(トップの図)は、どこで切るかによって、平面図形にしたときの分布図が変わってきます。
つまり、平面図形での分布だけでは、明らかに物事を捉えるには不十分だということがわかります。

実際の世の中には、これに時間軸(t軸)が加わります。
時間は、明治以降、西洋文明に侵されて、いまでは多くの日本人が、
「時間は過去から未来に向かって流れていくものである」と考えています。
けれど、日本語を考えたらわかります。
未来は「これからやって来る」のです。
過去は「過ぎ去った昔」です。

つまり、日本語の概念では、時間は「未来から過去に向かって流れている」のです。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」です。

時間は川に例えられますが、川の水は、上流から下流に向かって流れます。
同様に、時間も、未来という川上から、過去という川下に向かって流れます。

ですから、現在というポイントにいて、どのような未来を受け止めるかは、その人やその集団が、どのような未来を求めるかによって変わります。
つまり、「いまこの瞬間の」選択によって、やってくる未来が変わるのです。

過去は、「過ぎ去った」のですから、いつまで拘っていても仕方がありません。
だから「水に流して」、より良い未来を受け止めることができるように、いまこの瞬間を明るく誠実に生きるのです。
明るい未来にしたいなら、いまこの瞬間から明るくなることです。
そうやって連続する明るさのところに、明るい未来がやってくるというのが、日本人の古くからの思想です。
やってくる未来は、意思を持って選ぶことができるのです。

十七条憲法の言葉です。第10条です。

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彼是則我非    彼を是(ぜ)し 我を非(ひ)し
我是則彼非    我を是し 彼を非す    
我必非聖     我は必ず 聖(きよ)からず
彼必非愚     彼は必ず 愚(おろ)からず。
共是凡夫耳    共に是れ 凡(なみ)の耳(みみ)
是非之理能可定  是(こ)れ理(すじ)を 定むに非(あら)ず
相共賢愚     相共(あいとも)に 賢愚なり。
如鐶无端     鐶(たまき)の如く 端(はし)もなし。

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上では善悪二元論や二項対立論を直線上に置いて説明しましたが、聖徳太子はこれを「環(わ)」のようなものだと説かれています。
だから、
 彼を是し 我を非し
 我を是し 彼を非す
 鐶(たまき)の如く 端(はし)もなし
と述べています。

ではどうしたら良いのかというと、同条は続けて以下のように述べています。

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是以   これもちて
彼人雖瞋 彼人(ひと)に瞋(いか)ると 雖(いえども)と
還恐我失 我が失(あやまち)を 恐れて環(まわ)り
我獨雖得 我ひとり 得たりといえど
従衆同擧 衆に従い 同じく挙(あ)げよ。
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自分が正しいと思って、異なる意見を持つ人に対して瞋(いか)りの感情が起きたとしても、
まずは、自分が間違っているのかもしれないと思い、
自分だけがわかっていると思っていたとしても、皆の意見に賛同しなさい、
といった意味になります。

ここにある「瞋(いかり)」という字は、仏教用語の三毒のひとつの瞋恚(しんい)を意味します。
瞋恚というのは、怒りや憎しみの感情のことです。
自分の心にかなわない対象への憎悪、と言ったほうがわかりやすいかもしれません。

自分が正しいと思うあまり、相手を人を憎悪する。
けれど、正しいか正しくないかは、環と同じで端がないことなのだから、まずは皆の意見を尊重して行きなさい、といった内容です。

もっとも、少数意見や嘘や欺瞞でしかないのに、あたかもそれが多数意見であるかのように装う痴れ者も世の中にはいるわけです。
当然のことながら、そこはしっかりと見極めて行かなければなりません。

二項対立状態になったら心がけること。
それは、
意見が対立したら、本当に正しい答えは、その真中にある、ということではないかと思います。

そこに答えがあるし、そうやってより正しい答えを求めていくところに、創意が生まれ、工夫が生まれる。
そういうことを大切にしたきたのが、日本的思考であり行動です。

※この記事は2023年4月のねずブロ記事の再掲です。

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