「教経殿、
 あまり罪を作りなさるな。
 そんなことをしても
 相手は立派な敵だろうか」

桜の季節になると、白、ピンク、紅の三色の花をいっぱいにつけている木があります。
遠目には、まるで桜の花のようで、ピンク色の河津桜と、薄桃色の染井吉野がまるで並んで咲いているようにみえます。とてもきれいです。
けれどよく見ると、一本の木です。

実はこれ、桜ではなく、「源平桃(げんぺいもも)」という花桃の木です。
名前の「源平桃」は、白=源氏、紅(赤)=平家が入り乱れて戦った「源平合戦」に例えられたものなのだそうです。
おもしろいもので、この花、咲き方は土壌やその年の気候によって、同じ木でも、白やピンクの花のつきかたが毎年違います。

よく桃の木はChina原産といわれますが、このようになんでもかんでもChina生まれとするのは、おかしなことです。
桃は温帯に広く分布する植物で、桃自体に国境があるわけではないからです。
さらにいえば、大昔は日本列島は大陸と陸続きです。
その時代に、いまの黄海も朝鮮半島もありません。
いま大陸棚となっているところが地上に露出し、琉球諸島も列島となっていて、そのまま日本列島と接続していました。
その琉球諸島と、せり出した大陸棚との間の海のことを「曙海(あけぼのかい)」とか「ひる湖」といいます。

縄文時代の遺跡には貝塚がありますが、貝塚があるということは、人々が海沿いに住んでいたということですが、内海を持つこのエリアは、波も静かで、人々が住むのにたいへん良い環境であったといわれています。

ちなみにこの時代、ベーリング海峡は陸続きです。
つまりユーラシア大陸と北米大陸は陸続きです。
陸続きだから、私達と同じ祖先を持つ人達が北米から南平大陸にいるのですが、おもしろいのはそれだけではなくて、ベーリング海峡がふさがっていたということは、北極海からの冷たい海水が南下していなかったということにもなります。

するとどうなるかというと、黒潮の暖流が、そのまま日本列島を北上して、ベーリング海峡から北米大陸の西側を経由して赤道にまで戻るようになります。
海面がいまよりもずっと低かった時代というのは、地球全体としては氷河期であり、たいへんに寒かった時代なのですが、琉球から日本列島にかけてのエリアは、黒潮によってたいへん温暖で住みやすい環境にあったろうといわれています。

氷河期が終わると、地球全体が暖かくなって曙海が徐々に広がり、北東亜平野の海岸線が北西に後退していきました。
こうして大陸と日本列島は切り離されました。
つまり、人々もまた、切り離されたのです。

よく「海を渡ってやってきた縄文人たち」とか、「日本人は大陸から朝鮮半島を経由してやってきた」などという人がいます。
けれど、そもそも万年の単位でさかのぼれば、日本列島は大陸と陸続きです。
海を渡るどころか、歩いてやってくることができる。

もっというなら、朝鮮半島もありません。
なにしろまだ半島を形成していなくて、内陸の山岳地帯であったからです。

従って、桃の木も、もともとは温暖な北東亜平野から日本にかけて広く分布していたものが、海面上昇によって陸地が後から分断されたにすぎないわけで、こうした地形学を無視して、なんでもかんでもChina渡来だというのは大きな間違いです。

なかには「桃の木は江戸時代の初め頃に日本に渡来した」などと書いているサイトもあります。
笑える話です。
江戸時代どころか、1300年前に書かれた古事記に、桃の木はちゃんと登場しています。
もうすこし、しっかりと勉強していただきたいものです。

桃は万国共通で虫がつきやすくて、育てにくい品種です。
これを、虫がつきにくいようにして、さらに花の観賞用の桃や、果実採取用の桃へと様々に品種改良したのが、江戸時代の日本です。
いま日本中に植えられている桃は、どれも江戸時代に品種改良された桃の種類です。

冒頭の写真にある源平桃も、こうして江戸時代に改良されて誕生した観賞用の桃ノ木です。
「花桃」といいます。
花は美しく、桜よりも長持ちし、毎年赤や白の花の咲き方が異なり、年ごとに新たな楽しみを与え、見る人を癒してくれる、すばらしい品種です。

名前も良いです。
単に紅白桃としてもたいへんおめでたいのに、それをあえて「源平桃」と名付けています。
遠い昔、源氏と平家が戦ったその時代の名残を、桃という、邪気を打ち払うとされる桃の木にとどめる。
実に心憎い名前の付け方です。

そういえば、この源平桃の咲く4月は、壇ノ浦の戦いがあった月です。
壇ノ浦の戦いは、旧暦ですと寿永4年3月24日、西暦ですと1185年4月25日に、山口県下関の沖合で行われた戦いです。

治承4(1180)年に源頼朝が平家打倒の兵をあげ、以来5年、屋島の戦いで敗退した平家一門が、長門国引島(山口県下関市)まで後退していたところを、源義経率いる源氏が襲いかかったのです。

源氏と平家は、いろいろに対比されますが、戦い方の手法も、正反対です。
平家の軍団は、もともと職業軍人たちで、ひとりひとりの兵は、日頃から訓練を受けていて強く、戦い方は弓矢を用いて離れて討つというものでした。
これは特に水上戦で有効な戦い方です。
大量の矢を射かけ、敵を粉砕するのです。

対する源氏は、もともと自分の土地を守りたい地主さんたちの集合体です。
馬を多用した陸上で、個人の技を磨いています。

実は、こうした戦闘形態の違いは、近代戦の銃器を用いた陸戦にも似ています。
艦砲射撃やら空爆やらで、あめあられとばかり砲弾を撃ち込む米軍と、肉薄して接近戦で敵を粉砕するという日本との違いです。
平家が前者、源氏が後者に近いといえるかもしれません。
そうなると、もし平家が滅んでいなければ、先の大戦における日本の戦い方も、また違うものになっていたかもしれません。

さらにいうと、源平合戦で、源氏に味方した武将たちのほとんどが平氏の一門、平家に味方した武将たちのほとんどが源氏の一門でした。
ということはつまり、兵士たちの技能がどのようなものであっても(戦いは頭脳で行われるものですから)、そこから、将の考えひとつで、ぜんぜん違う戦い方になるということを、私たちは学ぶことができます。
現代日本人がどれだけ優秀であっても、国政のリーダーがアホなら、国は滅ぶのです。
このことは企業も同じです。

さて、だいぶ春めいてきた元暦二年三月二十四日、平家一門は、関門海峡の壇ノ浦に、無数の船を浮かべていました。静かに夜が明ける。
午前8時、無数の源氏の船が平家の船に襲いかかりました。

源氏は潮の流れと逆側から攻めてきます。
ですから、船の中で一定の人数は常に櫓を漕ぎます。
平家は、潮の流れに乗っていますから、櫓は、船を停止させるために漕ぎます。
こうしておいて平家は、やってくる源氏に盛んに矢を射かける。
要するに「来るな〜!近づくな〜!」というわけです。

潮の流れに逆らって迫る源氏は、平氏の射る矢の前に、なかなか平家陣営に近づくことができません。
船を散開させながら平家に迫ろうとする源氏、密集体型でこれを防ぐ平家。
戦いは正午になっても、まだ決着がつきません。

源氏は、ここで奇抜な戦法に討って出ます。
義経が、平家の船の「漕ぎ手を射よ」と命じたのです。

堂々とした戦いを好む坂東武者にとって、武士でもない船の漕ぎ手を射るなどという卑怯な真似は、本来なら出来ない相談です。
ところが開戦から4時間、源氏の武士達も、ここまでくると卑怯だのと言っていられません。

そこで義経の命に従い、平家の船の漕ぎ手を狙って弓を射ました。
もしかすると義経は、名誉を重んじ卑怯を嫌う部下たちが、ついにそこまでの決断をさせるためにこそ、あえて流れに逆らっての攻撃を朝から行っていたのかもかもしれません。

平家は、狭い海峡に無数の船を密集させて浮かべています。
そこに源氏が、漕ぎ手を狙って矢を射かけました。
船の漕ぎ手を失った平家の船は、縦になったり横になったり、回ったりして、平家船団の陣形を乱します。
平家の船団は、密集していただけに、かえって混乱に陥いってしまう。

まさに潮目が変わったのです。
潮の流れというのは、一見したところあまりピンとこないものだけれど、まるで川の流れのように勢いの強いものです。
まして狭い海峡の中となれば、なおのことです。

勢いに乗った源氏は、平家の船に源氏の船を突撃させる。
平家側は、ここまで約4時間、矢を射っぱなしだったのです。
残りの矢は乏しい。
それを見込んでの源氏の突進です。

船が近づき接近戦になれば、もともと接近戦が得意な源氏武者の持ち味が発揮されます。
離れて矢を射かける戦い方に慣れた平氏は、刀一本、槍一本で船に次々と飛び移って来る坂東武者の前にひとたまりもない。
平家の船は次々と奪われ、ついに平家一門の総大将、平知盛の座乗する船にまで、源氏の手が迫ります。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で有名な平家物語では、このあたりから、まるで錦絵を見るような色彩豊かな描写をしています。

迫り来る敵を前にした平教経(たいらの のりつね)。
彼は、そのときすでに、部下ともども、矢を射尽くしていました。
そこに源氏の兵が潮に乗って迫って来る。

平教経は、今日を最後と肚に決めます。
そのときの平教経の服装は、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、唐綾縅(からあやおどし)の鎧です。
そして厳物作りの大太刀を腰にして、白木の柄の大長刀(おおなぎなた)の鞘をはずすと、次々と敵をなぎ倒していきます。

その壮絶な戦いぶりに、総大将の平知盛(たいらのとももり)は、教経に使者をつかわし、
「教経殿、
 あまり罪を作りなさるな。
 そんなことをしても
 相手は立派な敵だろうか」
とたしなめるのです。

ここは、とても大事なところです。
戦いの最中に平知盛は、雑兵を殺すことが武将として立派な戦いでしょうか?と問うているのです。
雑兵というのは、日頃はお百姓さんです。
ということは、源氏だ、平家だと言う前に、彼らは大御宝なのです。
武門の家柄なのだから、戦いはやむを得ない。
けれど、雑兵となっている民、百姓は、たとえそれが敵であったとしても、すこしでも守ってやり、命をながらえてやるのが、武将の勤めだ、と言っているわけです。

もうすこしわかりやすく例えると、ボクシングの試合は、リングの上で選手が技を競って戦います。
ゴングの合間には、その選手のコーチや付き人たちが、一斉に選手のもとに集まって、選手の汗を拭いたり、傷口にワセリンを塗ったり、パンツを緩めて呼吸を助けたりします。
戦う人の周囲には、その戦う人の面倒をみる複数のスタッフが必要なのです。
そうした選手でもない、周囲のスタッフをやっつけることはいかがなものか、と知盛は問うているわけです。
ですから知盛の意見は、しごくまっとうな意見なのです。

けれども、このとき眼の前に繰り広げられているのは、試合ではなく、本物の戦いです。
雑兵とはいえ、刃を持って歯向かってくるなら、それは打ち払わなければならない。
ところが、それでも武士は武士、雑兵は雑兵なのです。
武士は大義のために戦うことを職業としますが、雑兵達は、その武士たちが守るべき大御宝であって、これを敵とみなして争ってはいけないと知盛は述べているわけです。
しかし当時の貴族や武士にとって、このことは命を賭けるほどに大事な原点であったのです。

平知盛のひとことに、ハッと気がついた教経(のりつね)は、
「さては大将軍と組み合えというのだな」と心得、長刀の柄を短く持つと源氏の船に乗り移り乗り移りして、「義経殿はいずこにあるか」と大声をあげます。

残念なことに教経は、義経の顔を知りません。
そこで鎧甲(よろいかぶと)の立派な武者を、義経かと探し回るわけです。

ところが義経は、まるで鬼神のように奮戦する教経の姿に、これは敵(かな)わないと恐怖を持ちます。
他方、部下の手前、露骨に逃げるわけにもいかない。
そこで教経の正面に立つように見せかけながら、あちこち行き違って、教経と組まないようにします。

ところが、はずみで義経は、ばったりと教経に見つかってしまう。
教経は「それっ」とばかりに義経に飛びかかります。

義経は、あわてて長刀を小脇に挟むと、二丈ほど後ろの味方の船にひら〜り、ひら〜りと飛び移って逃げるわけです。
これが有名な「義経の八艘飛び」です。

教経は早業では劣っていたのか、すぐに続いては船から船へと飛び移れない。
そして、今はこれまでと思ったか、その場で太刀や長刀を海に投げ入れ、兜(かぶと)さえも脱ぎ捨てて、胴のみの姿になると、
「われと思はん者どもは、
 寄つて教経に組んで生け捕りにせよ。
 鎌倉へ下つて、
 頼朝に会うて、
 ものひとこと言わんと思ふぞ。
 寄れや、寄れ!」
(われと思う者は、寄って来てこの教経と組みうちして生け捕りにせよ。鎌倉に下って、頼朝に一言文句を言ってやる。我と思う者は、寄って俺を召し捕ってみよ!)とやるわけです。

ところが、丸腰になっても、教経は、猛者です。
さしもの坂東武者も誰も近づけません。
みんな遠巻きにして、見ているだけです。

そこに安芸太郎実光(あきたろうさねみつ)が、名乗りをあげます。
安芸太郎は、土佐の住人で、なんと三十人力の大男です。
そして太郎に少しも劣らない堂々たる体格の家来が一人と、同じく大柄な弟の次郎を連れています。

太郎は、
「いかに猛ましますとも、
 我ら三人取りついたらんに、
 たとえ十丈の鬼なりとも、
 などか従へざるべきや」
(いかに教経が勇猛であろうと、我ら三人が組みつけば、たとえ身の丈十丈の鬼であっても屈服させられないことがあろうか)

と主従3人で小舟にうち乗り、教経に相対します。
そして刀を抜いて、いっせいに打ちかかる。
ところが教経は、少しもあわてず、真っ先に進んできた安芸太郎の家来を、かるくいなして海に蹴り込むと、続いて寄ってきた安芸太郎を左腕の脇に挟みこみ、さらに弟の次郎を右腕の脇にかき挟み、ひと締めぎゅっと締め上げると、
「いざ、うれ、さらばおれら、死出の山の供せよ」
(さあ、おのれら、それでは死出の山へ供をしろ)

と言って、海にさっと飛び込んで自害するわけです。
まさに勇者の名にふさわしい最後を遂げたのです。
このとき教経、26歳。

このあたりの描写は、吉川英治の新・平家物語よりも、むしろ琵琶法師の語る原文の平家物語の方が、情感たっぷりに描かれていて、素敵です。
激しい戦闘の中にも、愛や勇気、女たちの涙の物語などが盛り込まれている。

こうして壇ノ浦の戦いで、平家は滅びました。
平家物語は、壇ノ浦の戦いで命を救われた建礼門院を、後白河法皇が大原にお訪ねになり、昔日の日々を語り合う場面で、語りおさめとなります。

琵琶法師の語る平家物語は、実に色彩が豊かで、まさにそれは総天然色フルカラーの世界。
その講演が、一話2時間くらいで、12話で完結です。
二時間分の話し言葉というのは、だいたい1万字ですから、法師の語る平家物語は、全部でだいたい12万字、つまり、いまならちょうど本一册分くらいの分量です。
それだけの文学作品が、なんと13世紀頃にできあがっていたというのですから、これまた日本というのはすごい国です。

日本は文明文化が途切れることなく発展したきた歴史を持つ国です。
いまを盛りと咲いている源平桃を眺めながら、あらためて「日本を取り戻す!」と誓いを新たにしたいと思います。

お読みいただき、ありがとうございました。

※この記事は2019年4月のねずブロ記事のリニューアルです。

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