帝国艦隊の中でも、とびきりの荒くれ者揃いだったのが、水雷艇部隊です。

彼らには「水雷屋気質」という言葉があったくらいで、この連中は怒り出すと手がつけられない。
だいたい艦長からして気が荒く、
「このばかもんッ」
と怒声を発すればまさに雷のごとくで、階級が上の若い将校が、恐れをなしてマストの上まで逃げたという逸話まであるくらいです。

同時に、過ぎてしまえば春風駘蕩としてあとに何も残さないというのも水雷屋の特徴で、実にさっぱりしている。
豪放磊落で笑いが絶えない。
けれど、怒ると怒髪天を抜くけれど、あとはさっぱりとして何も残さない。
これが水雷屋気質でした。

水雷部隊出身者といえば、このブログでもご紹介した終戦時の内閣総理大臣の鈴木貫太郎もまた水雷屋の出身です。
そして水雷屋といえば、忘れてならないのが、佐藤康夫大佐(戦死後二階級特進して中将)です。

  佐藤康夫海軍中将

佐藤海軍中将は、もともと神奈川県の牧野村で代々医師の家系で、幕末、徳川さんが江戸城を空け渡して駿河(静岡)に移ったとき、一緒に静岡に移ろうとしたのですが、着いたときには、もはや町が満杯で、住めるところがない。
そこでやむなく、母方の祖父を頼って江戸に戻り、小学校にあがる直前まで小石川で過ごしたあと、住まいを得て静岡に引っ越しています。
このため小学校は駿河城址二の丸あとの学校で、お堀を隔てた向こう側に静岡連隊の練兵場がありました。

そこでは毎日勇ましい訓練が行われていました。
その姿が実にかっこよくて、練兵をみて育った佐藤少年は、いつか軍人になろうと決意したそうです。
静岡中学(いまの静岡県立静岡高校)に進学した佐藤は、そこで猛勉強をして、海軍兵学校に入学しました。

兵学校時代の佐藤中将に、おもしろい逸話があります。
佐藤中将は、成績はパッとしないのですが、柔道がとてつもなく強かったのだそうです。
太めの短躯で、まるでクマが歩くように、のっしのっしと歩いたのですが、運動会では棒倒しが大好きで、真っ先駆けて突進し、これは同期生から本気で恐れられるほどで、おかげでついたあだ名が「ブルドック」です。

ところが海軍士官候補生でありながら、水泳はからっきしだめで、こちらはまるでブルドックが溺れているようにしか見えなかったそうです。
体が太いのだからよく浮きそうなものだけれど、ぜんぜんダメで、海軍にいながら、陸では向かうところ敵なしなのだけれど、水にはいると、からっきし泳げない。
佐藤のこういうところが、実にかわいくて、実にみんなに好かれたそうです。

そのくせ頑張り屋で、冬でも毛布を用いずに、シーツ一枚で寝たし、休暇になると鎌倉の円覚寺に行って座禅を組みました。
日ごろから豪放磊落で、大酒のみで、ひとたび血がたぎれば猛烈果敢に突進する。
その一方で、静かな禅を好む。
大酒といえば、佐藤は任官してからも、一行動を終えて泊地に入ると、その夕食時から酒を飲みはじめ、翌日の夕方近くまで、じつに二十四時間近くも、眠りもせずに飲みつづけたなんて逸話も残されています。

任官した佐藤中将は、もっぱら水雷艇を歩み、水雷長、駆逐艦長、駆逐隊司令と進みました。
「水雷ほどいいものはない。
 おれは水雷に入って
 本当に良かったと思っている」
というのが、佐藤中将の口癖だったそうです。

後年、佐藤中将に仕えた海軍兵学校66期生の西野恒郎氏が、当時の佐藤中将について、次のように書いています。
「この時期、私が仕えた司令は
 後にガタルカナル進攻作戦で二階級特進して
 中将になられた佐藤康夫司令でした。
 『俺は若い頃、
  司令官の五藤存知大佐から、
  頭脳雑駁にして勇敢なり』
  と考課表に書かれたよ」
 と大笑する豪傑でした。
 
 静岡育ちの佐藤司令は、宴会では必ず
 『♪仁義すごろく丁半賭けて~』
 と「旅笠道中」を調子外れに歌いだすので、
 いたずらざかりの少尉の私が
 『今日は私が歌います』と言って先に歌いだすと
 満足そうに聞かれていました。

 あるとき司令は、
 『航海士、君は俺が何故この歌を歌うか知っているか』
 と突然聞いてきました。

 『知りません』と答えると、
 『何時か米国と戦争が始まる。
  今度の戦争は無傷ではすまない。
  戦争がはじまったら
  俺は駆逐艦を率いて、
  やるかやられるか
  敵艦に向かって突っ込み
  魚雷を打ち込む、
  博徒が丁半かけるようにな』
 と決意に満ちた表情で言われました。

 先輩佐藤司令は、酒席の間にも
 戦いへの準備をしていたのです。」

太っちょで、丸々とした童顔。
佐藤は、何ごとも「信を相手の腹中におく」という人柄で、まさに戦国武将の風格が感じられた人だったそうです。
戦闘の最中、至近距離で敵弾が飛んでくると、緊張のあまり大小便をチビル奴も出るのですが、佐藤司令の顔を見ると、常にかすかな笑みを浮かべて敵の陣地を見据えて微動だにしない。
佐藤司令の姿を目にするだけで、乗員は勇気百倍だったそうです。

そんな佐藤司令の日ごろの楽しみはタバコで、毎日二百本入りのチェリーの大函を買ってくる。
それで足らない日もあったそうで、佐藤司令の右手はヤニで黄色くなっていたそうです。
加えて、大飯食いで、甘いお菓子も大好き。
そこに置いてあれば、どんな菓子でもぼりぼり平らげてしまったそうです。

肥満体で、大酒のみで、大のタバコ好きで、大飯食いで、甘党。
どう考えても不養生を絵に描いたような毎日ですが、佐藤の健康はまるで「巌」で、血圧も糖尿もまったく心配がない。
内臓も頑丈で、あるといえば足の水虫くらいで、これには軍医長殿も舌をまいたといいます。

のちにガダルカナルの補給や撤収で全軍が苦労した頃、制空権を奪われた危険極まりないガ島往復任務で、これを三回もやると、たいていの士官は眼がくぼみ、頬が尖って異相となり、体重も激減して、血尿が出て、ひどいときは神経衰弱になったりしたのですが、佐藤司令はガ島往復を12回もやって顔色ひとつ変わらない。
むしろ以前より太り、これには誰もが驚いたそうです。

佐藤司令は、上海事変、China事変といく度も戦いましたが、大東亜戦争だけでも、何と27回もの激しい海戦に参加しています。

昭和17年2月27日のスラバヤ沖海戦のときの出来事です。
米英蘭巡洋艦5、駆逐艦9の大艦隊と、西村祥治少将率いる駆逐艦6隻との間で艦隊戦が行われました。
14対6の戦いです。
どうみても日本側に勝ち目がないような戦いでした。

両軍が、1万7000メートルに迫る。
まず「神通」が砲撃を開始します。
米英蘭艦隊も撃ち返してきます。
米英の艦隊は、各艦の砲撃効果識別のために、砲弾に染料を使用していましたから、轟音とともに、巨大な赤や青や黄の水柱があちこちに立ちます。

西村少将の第四水雷戦隊はさらに突っ込んで、今度は魚雷を立てつづけに撃つけれど、これがなかなかあたらない。
しばらく激しい砲雷撃戦がつづいたが、そのうち「羽黒」の一弾が英巡エクゼターに命中しました。
さらに魚雷がオランダ駆逐艦にも命中する。
轟沈です。

大混乱に陥った米英蘭の艦隊は、全軍退避を始めました。
追撃する日本艦隊。
当時の駆逐艦は、距離7500メートルまで接近して、魚雷を発射して反転するというのが海戦のセオリーです。
あんまり近づきすぎると、敵弾の餌食になるからです。

ところが佐藤康夫司令が指揮する第九駆逐隊の「朝雲」と「峯雲」は、7500メートルを超えてさらに全速で突っ込んで行きます。
敵弾がすさまじい勢いで、艦の両舷で炸裂し、轟音とともに水しぶきをあげます。
「朝雲」の艦橋では、水雷長が気が気でありません。
「司令、もう撃ちましょう」という。
佐藤司令は前方をぐっと睨んだまま、
「まだ、まだッ」と答える。

こんな言い合いが二、三度くり返されたそうです。
それでも佐藤司令は発射を許可しない。
たまりかねた岩橋透艦長が、
「司令、他の隊は反転しました。
 当隊も反転したらいかがでしょうか」
と進言すると、佐藤司令は、
「艦長ッ、うしろなど見るなッ、前へ!」
ものすごい剣幕です。
あまりの気迫に、岩橋艦長は思わず首をすくめてしまう。

二艦は、並列して走る単縦陣です。
東方へ逃走する米英蘭艦隊に、距離4000メートルになった。
海上4000メートルというのは、感覚的には25メートルプールの向こう側の人を撃つ感覚です。
もう目の鼻の先です。

その頃には、追撃してくるのが日本側のたった二隻の駆逐艦であることに、敵艦隊も気づきます。
敵は反転攻勢に出る。
多勢に無勢なんてもんじゃありません。
反転攻勢に出られたら、袋叩きです。

そのとき佐藤司令が
「発射はじめッ」と号令しました。
満を持した「朝雲」と「峯雲」が、いっせいに魚雷を発射します。

日ごろの訓練の賜物です。
この距離では、日本軍水雷艇の魚雷攻撃は、まさに百発百中です。
放った魚雷は、英国の旗艦マーブルヘッドに命中。
轟音とともにマーブルヘッドは、なんとわずか7分で沈没してしまう。

これを見た英国駆逐艦「エンカウンター」と「エレクトラ」が捨て身の反撃に出てきます。
なんと距離3000メートルです。
この距離で双方は砲撃戦になりました。
ところが「朝雲」と「峯雲」は、なおも全速力で近づいてくる。
近づきながら砲撃をしてくる。
そのおそろしさに、「エンカウンター」が反転離脱します。
「エレクトラ」が単艦になる。
その「エレクトラ」の缶室に砲弾が命中する。

けれど敵艦も、ただ黙ってやられているわけではありません。
「エレクトラ」は航行不能となりながらも砲撃を行い、その一発が「朝雲」の機械室に命中します。
「朝雲」は電源故障を起こし電源が止まってしまう。
電源が停まると、主砲が動きません。

佐藤司令がすぐさま命令します。
「砲は人力で操作ッ、
 砲撃を続行せよッ」
落ちた電源の修復に必死になっていた砲撃隊は、佐藤の命令で、まるで目を覚ましたように人力による砲撃を開始しました。
「朝雲」の照準砲撃が再開されます。

さらに「峯雲」が、一撃必中の砲撃を加える。
そして、ついに「エレクトラ」も撃沈してしまいます。

この戦闘は3時間に及ぶものでした。
敵に大損害を与えた佐藤は、午後8時になって、悠々と現場を引き上げます。
にくいばかりの豪胆さです。

全軍司令であった高木惣吉少将は、当時を振り返って次のように述べています。
「この突撃戦のとき、
 巡洋艦は1万7千メートルくらい。
 駆逐艦もせいぜい8千~1万メートルくらいから
 酸素魚雷を発射していたのです。
 ところが佐藤司令だけは、
 第九駆逐隊をひきいて、
 勇敢に敵に向かって突進してゆく。
 艦長が敵の集中射撃を心配すると彼は、
 『艦長、戦場ではうしろなんか見るな』
 とたしなめ、
 友隊の射程距離の半分の
 四千メートルに迫って魚雷を発射し、
 悠々と引き上げてきました。
 敵の被害の大半は、
 この佐藤司令の働きによるものです。」

ちなみに、この戦いによって、英重巡洋艦「エクゼター」と「エンカウンター(1,350トン)が轟沈し、この両艦の艦長を含む約450人の英海軍将兵が漂流の身となったとき、日本の駆逐艦「雷(いかづち)」の工藤俊作艦長がその全員を救助しています。
そのときのお話が、
≪エクゼターとエンカウンター・・・日本の武士道精神≫です。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-532.html
よろしかったら、是非、ご一読を。

佐藤司令の駆逐艦隊は、戦局厳しいガダルカナル島への輸送作戦の任務に就きました。
佐藤司令は、日誌に次のように記しています。
「難局に
 男冥加と突入す
 なるもならぬも
 神に任せて」

制空権を奪われ、まる裸で輸送任務を負うのです。
輸送船は非武装です。
国際法上は、攻撃禁止となっている。
だから日本側が米英艦隊の輸送船を攻撃したという記録は、誤射を除いてほとんどありません。

ところが、日本の輸送船は、武装していない船だけに、米英から格好の標的にされました。
やむをえず日本は、戦闘船である駆逐艦で輸送任務を行うようになったのです。
敵軍がうようよいる中でのガ島への輸送作戦です。

ただでさえ小型の駆逐艦は、積荷を艦一杯に積むと、重量がかさんで、軽快な戦闘行動がとれない。
船が重たければ、敵が来たら逃げ切れないし、戦闘中の乗員の艦内通行にも支障が出ます。
ですからすこしでも船を軽くするため、積荷を減らすように何かと文句を言う艦もあったそうです。
ところが佐藤司令は出撃前、
「おい、もっと積むものはないか」
と逆に催促をしてまで、めいっぱい積荷を積みこみました。

当時、船が深夜にガ島に着いて、積荷を降ろしていると、かならず敵機が襲来しました。
すると佐藤司令は、まっ先に司令の乗艦の探照灯をつけるように命じたそうです。
真っ暗闇の中で、煌々(こうこう)とライトを点けるのです。
敵爆撃機に、まさに撃ってくださいと、いわんばかりです。
当然、敵機が群がり寄ってきます。
これを友軍の他艦とともに、狙いすましてはたき落とす。
敵が逃げてく。

肉を切らせて骨を断つといいますが、射撃場の標的になるようなものです。
普通の神経でできるようなことではありません。
まさに、佐藤司令ならではの豪胆な作戦です。

昭和17年11月、第三次ソロモソ海戦を戦い、2回も感状を受けた佐藤は、休暇を得て静岡の自宅に帰ります。
彼には、年老いた母と、妻と4人の子供がいました。
ほんの数日の家族との団欒でした。
そしてこの休暇が、佐藤と家族との永久(とわ)の別れになりました。

昭和17年8月、大本営はガダルカナル島奪回作戦を命じます。
しかし、すでに制空権を失った日本側に、ガ島での勝機はなく、
「糧食は9月13、14日で食い尽くし、
 一粒の米もなく、
 全員絶食の状態で5~6日行軍し、
 檳榔(びんろう、ヤシの一種)樹の若芽が唯一の食糧であった」
という、状況でした。

これについて、たまに大本営はまったく補給を無視した無謀な作戦をやったなどというおバカな歴史家がいますが、とんでもないことです。
輸送船を襲われたのです。
それでも当時の海軍は、命がけで輸送任務を遂行しました。
そしてそのために、多くの船と将兵が犠牲になりました。
ガ島輸送作戦が、我が国「駆逐艦の墓場」とさえ言われたのは、そのためです。

ガ島に上陸した日本軍の兵隊さんたちは、結果、2万を超す将兵が餓死することになりました。
けれど、ひとつ気づいていただきたいのです。
食料輸送がなかったから、彼らは飢えて死んだのです。
しかしガダルカナルは熱帯の島です。
食料の宝庫ともいえる島なのです。
つまり現地のものを食べれば、飢えて死ぬことなどなかったのです。
ところが実際には、餓死しました。
これがどういうことかというと、現地の食べ物は、現地の人々のものであって、我々日本人は、それらを勝手に採って食べてはいけないと考え、行動したということです。

ガ島からごくわずかに生還された方々が、戦友の死を悼むのは当然です。
まして餓死です。
悔しくて悲しくて、どうにもならない気持ちに駆られるのはあたりまえのことです。
けれどそれを聞いた一般の人が、軍が無謀な戦いをしたからだと、無茶な結論に誘導することは、いかがなものかと思います。
その前に、自分たちは戦いのために来たのであって、現地の人達に、たとえバナナ一本たりとも盗んだり食べたりして迷惑をかけることがあってはならないということを、当然のこととして結果、飢えて死んでいった先輩たちの武士の心得をこそ、私達は学ぶべきだと思います。

さて、話を戻します。
昭和18年2月1日から7日間、ガ島撤収作戦が行われました。
このときガ島から救助できた将兵は、わずかに約1万3千名です。

敵機の襲撃をうけながら、幾度となく決死の撤収作戦に従事した佐藤司令は、そのつど剛胆にして細心な指揮によって撤収作戦を成功させました。
陸軍から、最後の一兵が乗船し終わりました、と報告をうけたときも、なお佐藤司令は陸上をいつまでも確かめることをやめなかったといいます。

ガ島での困難な輸送、撤退作戦のほとんどに参加した佐藤は、昭和18(1943)年2月末、東部ニューギニアの要衝ラエに対する増援作戦「八一号作戦」の護衛任務につきます。
この作戦は、当初から成算の見込みは、まず無い、とされた任務でした。
不成功に終わるということは、全滅する、ということです。

佐藤司令はラバウル出撃の前の晩、海兵の一期下で同じ分隊であった特務艦「野島」艦長松本亀太郎大佐と酒を酌み交わしました。
そのとき佐藤司令は、
「今度の作戦は危ないかもしれん。
 だがな松本、
 貴様の艦がやられたときには
 すぐに飛んでいって
 救助してやるから安心しろ」

作戦は、米軍機による一方的な爆撃によって、輸送船団、護衛部隊ともに壊滅的な損害を被るものとなりました。
すでに無抵抗となった輸送船団に、敵機は、さらに再来襲をかけました。
もはやそれは戦闘と呼べるものではありません。
屠殺です。

第三水雷戦隊司令官木村昌福少将は、3月3日10時30分、残存艦艇に一時退避命令を下しました。
このとき佐藤司令は、後方の第八駆逐隊の旗艦「朝潮」に座乗していました。
「朝潮」はまだ無傷でした。
佐藤司令は、約束を守る男です。
作戦前に松本大佐と交わした、
「どちらかがやられたときは
 必ず救援に駆けつける」
という約束を守り、
「我、野島艦長との約束有り。
 野島救援に向かう」
との信号を発します。
木村少将も男です。
「佐藤ならこれをきっと成功させてくれる」と、祈るような思いでこれを許可します。

「朝潮」は、他艦が避退に移る中、単艦で「野島」救助に向かいました。
ようやく「野島」を見つけました。
近くには、すでに航行不能となった「荒潮」も漂流していました。
佐藤司令は「朝潮」を駆って、松本大佐を含めた両艦の生存者を全員救助し、付近にいた輸送船を連れて避退に移りました。

ところが、この直後、B-17爆撃機16機、A-20攻撃機12機、B-25爆撃機10機、ブリストル・ボーファイター5機、P-38戦闘機11機、合計54機の敵機が来襲しました。

この攻撃で、すでに無力化していた駆逐艦、非武装の輸送船「神愛丸」「太明丸」「帝洋丸」「野島」が被弾沈没します。
被弾し航行不能となっていた「大井川丸」、駆逐艦「荒潮」「時津風」も撃沈しました。
これが「ダンピールの悲劇」とも呼ばれる「ビスマルク海海戦」です。
海戦というより、屠殺そのものだった。

米英濠の飛行機部隊は、無抵抗の救命ボートの乗員にまで、反復継続して機銃攻撃を加えました。
このとき反撃力を持っていたのは、佐藤司令の乗船する「朝潮」だけです。
「朝潮」は猛烈に反撃を行いました。
けれど敵機に袋叩きにされました。
ついに航行不能になりました。

艦長の吉井中佐も、救助した「荒潮」の久保木艦長以下多数の将兵が「朝潮」船内で戦死していました。
やむなく「朝潮」に、総員退艦命令が下された。
この時、この時点でまだ生存していた松本大佐が退艦しようとしたところ、佐藤司令はまだ無事で、松本大佐を見つけて
「早く退艦しろよ」
と、にっこり笑ったそうです。

松本大佐が、「司令こそ早く退艦してください」というと、
司令は笑いながら、
「いや、俺はもう疲れたよ。
 このへんでゆっくり休ませてもらうさ。
 さあ、貴様は早く退艦したまえ。」

そう言って、沈みつつある「朝潮」の前甲板に、背中を向けてどっかりと座り込みました。
松本大佐は、このとき佐藤司令の覚悟を悟ったそうです。
松本大佐の滂沱と涙をこぼしながら、佐藤司令の背中に敬礼をすると、意を決して海に飛び込んで艦から離れました。

しばらく泳いでから「朝潮」を振り返りました。
沈みつつある「朝潮」が見えました。
その前甲板で、悠然と手足を組みながら、大空を見上げてタバコを吸う、佐藤司令の姿が見えました。

佐藤の駆逐隊司令としての海戦参加回数は27回。
ガダルカナル島への輸送作戦参加が12回。
挙げた武勲は数知れず、その挺身精神とその適切な状況判断能力に定評のあった歴戦の水雷屋、佐藤康夫司令は、こうして戦死されました。
48歳でした。
佐藤司令は、生前の軍功に報いる形で戦死後二階級特進して海軍中将に任ぜられました。

※この記事は2010年7月のねずブロ記事のリニューアルです。

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