好きな映画って、何度観ても、良い映画ですね(笑)。
そんな中でいちばん好きな映画をあげろと言われたら、迷うことなく挙げさせていただきたいのが、
木下恵介監督の『野菊の如き君なりき』です。
昭和三十年(1955年)の作品で、映画がまだ白黒だった時代の映画です。
15歳の少年・斎藤政夫と2歳年上の従姉・戸村民子の淡い恋を描いた作品で、小学校以来、これまでに何度この映画を見返したことか。
映画の原作は伊藤左千夫の小説『野菊の墓』で、こちらは明治三十九年(1906年)に雑誌「ホトトギス」に発表されました。当時、この小説を夏目漱石が絶賛したのだそうです。
小説の方は、読んだのが(たぶん)小学校5年生か6年生のときで、当時、月刊の『小学◯年生』の付録に、文庫本が付いてきていて、その文庫本で読んだのが最初だったように思います。
ちなみに、いま思い出したのですが、この頃、爺さんが毎月自分の小遣いでこの月刊誌を孫の筆者にバイクで届けてくれていました。
離れて暮らしていた爺ちゃんでしたが、孫のことをおもってのことだったんですね。
この歳になって、はじめて気が付きました。
ありがたいことです。
小説は、最初に読んだときに大泣きに泣かされて、その後、これまでに何度も読み返させていただきましたが、その都度泣かされて(笑)、映画を観てまた、繰り返し何度も泣かされました。
そんな小説と映画、両方に共通の会話があります。
会話のなかで二人は、畑仕事に行く途中、道端に咲いている野菊を見つけます。
**********
「まア綺麗な野菊、
政夫さん、私に半分おくれッたら。
私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。
民さんも野菊が好き?」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。
野菊の花を見ると
身振いの出るほど好もしいの。
どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き。
道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。
二人は歩きだす。
「政夫さん、私野菊の様だってどうしてですか」
「さアどうしてということはないけど、
民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって?」
「僕大好きさ」
*********
映画でも、この通りに描写されています。
下にYoutubeを貼りましたので、お時間のあるときにでも、ご覧いただければと思います。
この会話のなかで、民子は、
政夫さんは野菊が好きだと言った。
政夫さんは自分のことを野菊のようだと言った。
ということは、
政夫さんは自分のことを好きだと言ってくれている。
と、思考が働いています。
だから民子は、頬を赤らめながら、うつむいて黙ってしまうのです。
大好きな政夫さんが、自分のことを好きだと言ってくれたと思ったからです。
女性の方なら、以上の意味は説明するまでもないことと思います。
ところが男にはこれがわからないのです。
政夫の頭のなかでは、
「野菊が好き」ということと、
「民子は野菊のようだ」ということは、それぞれ独立しています。
つまりこの二つは結びついていません。
もちろん政夫は民子のことが好きなのだけれど、だからといって「民子さんが好き」と、この場で告白しているわけではないのです。
政夫の頭の中では、民子のこと好きと思う気持ちと、野菊が可愛い花で好きだということ、民子のイメージが野菊のようであるということは、それぞれまったく別々なものとして認識されているのです。
民子のことは好きだけれど、「好きだ」と告白することは恥ずかしくて言えないし、自分では、まさかそんな気持ちを民子に「悟られた」と気づいてもいません。
このことは、男性と女性の脳の仕組みの違いに依るのだそうです。
男性の脳は、コンピューターに例えれば分類処理式で、ひとつひとつのことを分類し、整理し、識別し、区別していこうとする特徴があります。
これに対して女性の脳は、並列型分散処理式で、同時に複数の事象や言葉をつなげることで、様々なことをいちどきに合成し、感じ取ることができます。
ですから小説のこの場面を読む読者も、
女性なら、政夫の告白と受け止めますから、ここはドキドキのシーンになります。
ところが男性なら、ただ野菊が好き、民子は野菊みたいな女性という2点は、別々な情報として頭の中で処理されますから、この段階では、サッパリ意味がわからないのです。
かくいう筆者も、この小説は大好きで、小学校のときに初めて読み、そのあとたしか中学高校のときにも、あるいは社会人になってからのまだ若い頃にも、この小説は何度も繰り返し読んでいるのですが、このシーンの持つ意味がわかるようになったのは、やっと五十歳も半ばを過ぎてからのことでした(笑)。
小説では、このあと、しばらく黙ってしまった民子に、政夫は次のように言います。
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「民さんはさっき何を考えてあんなに脇見もしないで歩いていたの」
「わたし何も考えていやしません」
「民さんはそりゃ嘘だよ。
何か考えごとでもしなくてあんな風をする訣(わけ)はないさ。
どんなことを考えていたのか知らないけれど、
隠さないだってよいじゃないか」
「政夫さん、済まない。
私さっきほんとに考事かんがえごとしていました。
私つくづく考えて情なくなったの。
わたしはどうして政夫さんよか年が多いんでしょう。
私は十七だと言うんだもの、ほんとに情なくなるわ……」
「民さんは何のこと言うんだろう。
先に生れたから年が多い、
十七年育ったから十七になったのじゃないか。
十七だから何で情ないのですか。
僕だって、さ来年になれば十七歳さ。
民さんはほんとに妙なことを云う人だ」
*******
民子の頭の中では、
自分は政夫さんが好き。
政夫さんも自分のことが好き。
私も政夫さんが好き。
だから、二人は結ばれたい。
けれど私のほうが歳が多い。
どうしよう・・・・、
とこうなっているわけです。
一方、政夫の方はというと、民子のことが好きではあるけれど、野菊が好きと言っただけで、民子に好きだと告ったわけではない。
だから政夫は、先回りして思考が進んでしまった民子の思考についていけず、
ただ額面通りに、
「十七年育ったから十七になったのじゃないか。
十七だから何で情ないのですか。
僕だって、さ来年になれば十七歳さ。
民さんはほんとに妙なことを云う人だ」
となっています。
多くの男性の読者も、同じ読み方になります。
でも、政夫が民子を好きであることは、それはそれで事実なのです。
好きだから、こうして一緒に歩いています。
けれどまさかまさか、自分が好きだという気持ちを、ちょっとした会話から民子に悟られたとは気がついていないのです。 映画で民子を演じた有田紀子さん
実は我が国の文学作品は、このような男女の思考の微妙なすれ違いを題材にした作品がたいへん多いことが特徴です。
そのなかで最古の作品といえるのが古事記で、そこにはイザナキ、イザナミの思いのすれ違いや、トヨタマヒメとヤマサチヒコの想いすれ違いなどが描かれています。
世界最古の女流文学である『源氏物語』も、こうした男と女の微妙な意識差が描かれ、それが人々の大きな共感を呼んでいます。
共感があるから、千年以上にわたって作品が生きているのです。
こういう心のヒダのすれ違いは、とてもやっかいだし面倒なものです。
けれど、やっかいだからこそ、千年たっても、そこに共感があるわけです。
ところがこうした心のヒダのすれ違いのようなものは、西洋の文学には、ほとんど描かれることがありません。
イプセンの『人形の家』にしても、トルストイの『アンナ・カレーニナ』にしても、ハーベイの『テス』にしても、あるいは『シンデレラ』のような童話であっても、女性の気持ちと、男性の脳の働きからくる微妙な心のヒダのすれ違いが小説のテーマになることはありません。
シェイクスピアの『ロメオとジュリエット』にしても、二人が愛し合っていたのはわかるけれど、愛し合いながらも、互いの心のスレ違いに葛藤する男女というのは、そこにはありません。
題材は常に、
「物理的に結ばれるか否か」
であり、思慕は描かれても、心のすれ違いは、テーマとして扱われません。
要するに、女性の気持ちになど関係なく、『人形の家』のように、
「手に入れたはずの女性がが家を飛び出してしまった。なんでだろう」
みたいなものが世界最高峰の西洋古典文学作品と讃えられているわけです。
これが東洋に至ると、女性の気持ちが描かれるということ自体が皆無になります。
楊貴妃にしても、虞美人にしても、本人の意思や思いにまったく関係なく、ただ美人であって、武将に愛されているだけの存在です。
女性が男性の意に反せば、彼らはその女性を殺して食べてしまっていたのですから、さもありなんといえるかもしれません。
要するに西洋においても、東洋においても、やや強引な言い方をするならば、女性は男性にとって、単に略奪の対象でしかなかったといえるわけです。
それがたまたま女性の側に、その男性を思慕する気持ちがあれば、シンデレラのストーリーになって「ロマンス」と呼ばれることになるわけです。
シンデレラは、たまたま男女とも独身で、互いに相手を思う気持ちがあったから、ロマンスです。
けれど王子様は、シンデレラを得るために国中の女あさりをしています。
もし、探しているのが王子ではなく、妻子あるヒヒジジイの王様であったり、シンデレラが、たまたまお城でダンスパーティーがあるというから美しい衣装を着て踊ってみたかっただけで、他に愛する彼氏か、夫や子があったなら、あのガラスの靴探しは、とんでもない迷惑ストーカー行為です。
歴史を振り返れば、西洋でもチャイナでも、現実には、そうした迷惑行為となる女漁りが現実だったわけで、このとき、シンデレラが、王子を拒めば、シンデレラは魔女として火炙りになり、チャイナなら本人は食べられ、一族は皆殺しにされてきました。
このような社会構造のなかで、男女の微妙な心のすれ違いなど、文学作品のテーマにさえ、なりようがありません。
ということは、我が国の冒頭にご紹介したような微妙な心のすれ違いが、多くの日本人にとって、
「ああ、そうだよなあ。たしかにそんなことあるよね〜」
といった人々の共感になることは、それは、日本が築いてきた社会が、とても平和であったということと、男女ともに互いの気持ちを大切にすることを重んじる社会環境があったからだということになります。
政治的テロや暴力とは対局の世界がここにあります。
ひとむかしまえまでは、日本文学は、妙にねちっこくて嫌だといわれたものです。
けれど、社会環境を考えた時、この違いははなはだ大きなものです。
気持ちなど関係なく蹂躙されることがあたりまえな社会と、
ひとりひとりの気持ちを大切にした社会。
そこから生まれる文学は、
前者は「ロマンスへの共感」となるし、
後者は「すれ違いへの共感」となるのです。
なぜ日本では、心こそ大事という文化が育まれたのでしょうか、
その最大の理由は、日本が天然の災害の宝庫である国土を持つことにあったといえるかもしれません。
なぜなら日本では、災害は必ずやってくる。
忘れた頃にもやってくる。
そのときのために、非常事態を先読みして、事前に手を打っていかなければならない。
いまどきのメディアにひしめく近隣国からの渡来人のように、災害が起きてから「たいへんだ、たいへんだ」とバカ騒ぎするだけでは、日本列島で血をつないでいくことはできないのです。
そしてそのために、国家最高権威としての天皇によって、すべての民衆が「おほみたから」とされました。
国や行政は、その「おほみたから」が、いついかなるときにあっても、たとえ天然の災害にあったとしても、必ず安心して生き延びることができるように、日頃から準備をすることが最大の使命となっていったのです。
日本人のお役所に対する信頼意識も、そうした背景から育まれました。
もっとも近年では、そうした信頼されるべきお役所が、むしろ信頼を損ねる側の存在になってしまっているのは、残念なことです。
国というのは、人々の共同体です。
その国の形が、ひとりひとりを大切にすることを出発点とし、それが国柄にまで育まれると、その国に育った民衆もまた、相互に人を大切にするようになっていきます。
自分も「おほみたから」なら、周囲の人達も「おほみたから」なのです。
だから国や郷里や家族や友を大切にし、男であれば女を、女であれば男をたいせつにするという国柄、文化が育くまれていくのです。
ところが、そもそも男と女は、冒頭の民子と政夫の会話みたいなもので、頭の構造が違います。
だからそこに葛藤があり、葛藤があるから小説の題材になり、人々の共感が生まれるのです。
人々は、そんな葛藤の中で、持って生まれた魂を鍛え、訓練し、自分の魂をより高度なものに成長させる。
それが魂がこの世に生かされている理由としてきたのが、日本の国柄であり国民性です。
『野菊の如き君なりき』は、いま、youtubeでご覧いただくことができます。 野菊の如き君なりき (1955年) - 木下惠介 https://www.youtube.com/embed/qa1UHXch1VU
また小説『野菊の墓』は、青空文庫で無料で読むことができます。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000058/files/647_20406.html
あとひとつ、付け加えます。
松田聖子さんの大ヒット曲に『渚のバルコニー』という曲があります。
♪渚のバルコニーで待ってて
夜明けの海が見たいの
そして秘密
といった歌詞なのですが、男性脳では、
渚に近いところのバルコニーで待っててね
(ああ、あの場所ね)
夜明けの海が見たいの。
(そうなんだ)
そして秘密
(わはは、女子は秘密が好きだなあ)
という具合に、それぞれが別々に脳内で処理されます。
ところが!!
渚に近いところのバルコニーで待ってて
夜明けの海が見たいの。
(ということは、バルコニーのあるベットで夜明けまで一緒にいたいと言っているのだ)
そして秘密
(ということは、***をしたぁい♡と誘っているのだ。しかも)
バカね、呼んでも無駄よ
水着持ってない
(と、裸を想像させている・・!!
うわぁ!すごい意味深な歌詞だったんだ!!)
と、気付いたのが60歳を過ぎてから(笑)
この曲が生まれたのが1982年(昭和57年)ですから、40年近くもの間、何度となくこの曲を聴いていながら、まったく意味がわかっていませんでした。
と、おそらくいまこれをお読みの男性の読者の皆様の多くも、もしかしたら、言われてはじめて「そうだったんだ!」とお気づきになられた方も多いのではないかと思います。
・・・て、そんなことないのかな(笑)
※ この記事は2015年11月のねずブロ記事のリニューアルです。