「朕嘉厥 尊朝愛国 売己顕忠」は、読み下しますと
「朕は朝(みかど)を尊(とうと)び
国を愛(おも)ひ
己(おのれ)を売りて
忠(まめなるこころ)を
顕(あらわ)すことを
嘉(よみ)とす」
となります。
このとき持統天皇は、一般人である大伴部博麻に従七位下の位を与え、絹織物十反、真綿十屯(一・六八キログラム)、布三十反、稲千束、水田四町の報酬を、さらに課税を父族、母族、妻族まで免じられました。
そして今日にいたるまで、天皇が一般人の個人に与えた勅語は、これが最初で最後です。
注目すべきは「愛」という字を書いて「おもふ」と読んでいることです。
中国漢字としての愛は、上の冠の部分が頭をめぐらせることの象形で、その下に心と久のような字が付いて、心を惹かれて思わず足を向けてしまうことを意味する象形文字です。
そこから漢字圏の国々では、身勝手な「愛は奪うもの」といった思考が生まれています。
ところが古代の日本人は、大和言葉の「おもふ」をこの漢字に当てています。
他に訓読みとしては「いとし、めでる」があります。
つまり、
「いとしく
めでるような気持ちで
相手をおもふこと」
を、私達の祖先は「愛」という漢字にあてたのです。
とてもやさしさのある、まさに日本的な感覚だと思います。
さらに「愛国」という言葉は近年ではあたかも先の大戦時の戦時用語であるかのように言われていますが、無教養もはなはだしいことです。
さて、この時代の趨勢(すうせい)について、ざっくりと眺めてみたいと思います。
6世紀の半(なか)ばまで日本は大陸を意識する必要はありませんでした。
大陸が戦乱に明け暮れていたので、放っておいたほうがよかったからです。
ところが581年に隋の大帝国が成立しました。
これはまずいと600年に行ったのが第一回遣隋使の派遣です。
さらに607年に第二回の遣隋使を派遣しました。
このときの国書が、有名な
「日出づる処の天子、
書を日没する処の天子に致す。
恙無(つつがな)きや」です。
これは隋の大帝国の皇帝を、日本はまったく対等に扱ったということです。
失礼千万怒った隋の皇帝に対し、日本は翌608年にあらためて第三回遣隋使を派遣し、
「東の天皇、
敬(つつし)みて
西の皇帝に白(もう)す」
と、再度、堂々と対等感を打ち出して国書を持参しています。
そして、我が国が「天皇」という語を対外的に用いたのは、これが最初の出来事です。
日本という国号の初出は西暦七〇一年(大宝元年)になります。この年「大宝律令」が制定され、その中の詔書の様式を定めた詔書式条に、海外諸国へ出す文書の様式として
「明神御宇日本天皇詔旨(あらひとかみと あめのしたしらす ひのもとの すめらみことのみことのり)」
が定められました。
つまり天皇が六〇八年、日本が七〇一年です。天皇という称号は日本という国の名前よりも古い歴史を持っているのです。
ところが隋が、いまの北朝鮮のあたりにあった高句麗(こうくり)との度重なる戦いで疲弊し、618年に滅んでしまいます。
次に興った唐は、これまた強大な軍事帝国ですが、隋の二の舞は御免だとばかりに高句麗の先にある朝鮮半島の新羅(しらぎ)と手を結びました。
高句麗を挟み撃ちにしようという作戦です。
ところが当時の新羅には、百済(くだら)というライバル国がありました。
新羅にしてみれば自分の国が高句麗と戦っているときに百済に攻め込まれたら元も子もありません。
そこで唐は新羅に大軍を派遣しました。
そして上辺は唐と新羅の連合軍、実質的には唐の軍隊が百済に攻め込みました。
これはベトナム戦争で北ベトナムと米国が戦争をしたようなものです。
こうして660年に百済が滅びました。
当時の百済は、世継ぎの王子を日本に人質に出していました。
つまり日本の属国でした。
百済が滅んだとき、日本にいた百済の王子の豊璋王(ほうしょうおう)は、なんとしても祖国の復興をと、朝廷に願い出ました。
日本は王の要請を聞き入れ、4万7000の百済救援軍を朝鮮半島に送りました。
当時の日本の人口はおよそ400万人です。
いまの1億を越える日本の人口比で言ったら160万人の若者を兵として送り込んだようなものです。
たいへんなことです。
唐と新羅の連合軍は18万の兵力でした。
日本はおよそ4倍の敵と約3年戦い、衆寡敵せず、最後は白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)で敗れ、半島における権益をすべて放棄して、国境を朝鮮海峡に後退させました。
大伴部博麻が人質になって長安に送られたのは、この戦い後のことです。
人質になった大伴部博麻は、唐の都の長安で、唐が祖国日本に攻め込む計画をしていることを知り、自(みずか)らの身を奴隷に売って、その資金で先輩たちに日本に帰って危険を知らせた人です。
これは自分が所属する祖国を「めでるような気持ちでいとしく思ふ心」、つまり国を愛する心からのものです。
大伴部博麻がもたらした「唐が海を渡って日本に攻め込む準備をしている」との報は、我が国にたいへんな緊張をもたらしました。
それまでの日本は、豪族たちのゆるやかな連合体でした。
しかし圧倒的多数を誇る唐の軍勢に打ち勝つためには、日本も唐に負けない統一国家にしなければなりません。
そのために我が国は飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)という法の制定や、行政機構を一箇所に集めた広大な都の建設、国家アイデンティティの統一のための史書の編纂などを行っています。
この時代にできあがったのが古事記・日本書紀です。
面白いのは飛鳥浄御原令です。
当時の法律は律令(りつりょう)といって、刑事法である律(りつ)と、民事法である「令(りょう)」によって構成されました。
世界中、法といえば、人を殺してはいけないとか泥棒をしてはいけないなどの刑事法がまずできるものなのに、我が国では結局「律」は施行されず、「令」だけができあがって公布されています。
これは「律」を作る必要がないほど、我が国は民度が高かったということです。
冒頭の持統天皇は、飛鳥浄御原令の制定によって、我が国の民の戸籍を作成し、また広大な藤原京を造営して、平城京、平安京へと続く我が国の都造りの基礎を築いた天皇です。
その持統天皇の御製が百人一首の二番歌になっています。
春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣干すてふ天の香具山
(はるすきてなつきにけらししろたへの ころもほすてふあまのかくやま )
当時、宮中の洗濯は御所内に引いた小川で行いました。
雪の降る冬は小川が凍り水が冷たいので、洗濯はとてもたいへんな仕事でした。
それが春になれば、すこし楽になります。
夏が来れば、強い日差しに、冷たい水が心地良くなります。
だから思わず一生懸命に洗濯をしてしまって、そしたらほら、こんなにも洗濯物が真っ白になりました。
その洗濯物を夏の日差しのもとで干していたら、まるで白い蝶が舞っているかのように風にそよぎました。
洗濯物を干す手の向こうには、大和三山で一番立派な香久山が見えます。
その香具山を立派だった亡くなった夫の天武天皇に見立てて、
「あなた、私、いまもこうしてがんばっているわよ」
と持統天皇が心の中で夫に話しかけられておいでになる。
これもまた「めでるような気持ちでいとしく思ふ心」の愛の歌なのです。
※この記事は2018年4月のねずブロ記事のリニューアルです。