何年か前から、断捨離(だんしゃり)が流行り、なんでもかんでも捨てよう、身を縮めようということがもてはやされています。
なにかに願掛けを行う場合も、「酒を辞めます」とか「タバコを辞めます」とか、とにもかくにも、止めるたり、絶ったりすることばかり。

さもありなんと思えるのは、日本経済がこの30年間ずっと横ばいであったこと。
おかげで30年間のグロスのGDPの伸びは、世界212カ国中、第211位。
やった!ブービー賞だ!などと喜んでいる場合ではないのです。
経済成長が下位だった諸国は、どこもみんな内乱状態あって政府がまったく機能しなかった国々です。
そんな諸国よりも、日本の経済成長は低かったのです。
これは笑えない話です。

この30年間、政治は、様々な「改革」をしてきました。
改革によって経済を活性化させるのだと言い続けてきました。
けれど、これが現実の結果です。

日本の大卒の初任給は20万円。
30年前も20万円。
30年前には米国も20万円でした。
けれど、いまの米国は45万円です。

そんな経済が成長しない中にあって、メディアを通じて盛んに
「断捨離しよう」
「何かを我慢しよう」
ということが言われ続けてきました。

経済が成長しないのですから、庶民が自衛のために、それまで普通にしていた贅沢や嗜好を罷めるというのは、それはやむを得ない選択といってしまえばそれまでなのですが、どうにも納得できないのです。

いまから半世紀ほど前になるでしょうか。
月賦百貨店の丸井が、テレビのCMで
「なにかひとつは贅沢を」
というキャッチコピーを流してたいへんな評判になりました。

背広でもドレスでも宝石でも時計でも、コーヒーでも、何かひとつくらいは贅沢をしようではないか、というこのコピーは、国内消費を活性化し、その後の高度成長経済を支える要素のひとつとなったといわれています。

早い話、クルマも同じです。
いまどきのクルマは、20万キロくらい走ってもびくともしないし、ちゃんとメンテしていれば40万キロくらい、普通に走り続けることが可能です。
それだけ性能も耐久性もあがっているからです。

高度成長の頃は、3万キロくらいで買い替えのサイクルに入っていました。
6万キロも乗ったら過走行車といわれ、10万キロ乗ったら、買い替えの下取り価格が出ないといわれたものです。
ですから新車はさかんに買い替えられ、そのことが車の国内消費を支え、メーカーの売上を伸ばし、雇用を生んでいました。
いまでも車関係の従事者は、その家族を含めればおよそ2千万人と言われています。
これは日本の人口の6分の1です。

いまでは、国内のクルマの買い替えのサイクルは、7.1年なのだそうです。
さらに自動車保有世帯の3分の1は、10年以上、同じ車に乗り続けているというデータもあります。
けれど消費者側の買い替えの希望サイクルは3年です。
ここに乖離があります。
その乖離を埋めるのが、政治の役割です。
やればできるのです。
なぜなら、日本は戦後、それをやってきたし実現してきた実績を持つからです。

なんでもそうですが、物事が進まないというのは、
 やる気がない
 やる能力がない
 どちらもない
の3つのときだけです。

日本の経済が30年間横ばいで成長がなかったということについて、日本に、景気を上向かせるだけの能力がなかったということは、まずありません。
昔もいまも、日本人の能力は高いからです。

ということは、日本経済が上向かなかったのは、政治にやる気がなかったか、そもそも政治が行われていない、ということです。
日本経済をよくしない政治なんて、政治の名に値するのでしょうか。
そもそも必要なのでしょうか。

もともと平時においては、政治は必要がないものです。
近隣との紛争や、事件、事故、災害などの非常時の際にのみ、政治に責任が求められます。
平時ならば、むしろ民間の活力が問題です。
そしてその民間の活力を支えるのが、公共のインフラです。

その意味で、電気ガス水道、道路、交通機関、通信などは、公共の機関であることが求められます。
平時・非常時、両方にかけて「みんな」の生活を支えるものだからです。
地方自治体という言葉がありますが、国の政府もまた国民のための自治体なのです。
つまり、国民が運営しているのが政府であり、市民が運営しているのが地方自治体なのです。

民間事業は、人々の暮らしのためのものです。
その人々の暮らしの基礎になるものが、公共機関であり、公共事業です。
その公共事業を、民営化するというのは、単に誰かが金儲けを企んでいるものにすぎません。
もしそのようなことを推進する政治家がいたら、その政治家は、誰かからカネをもらって自分の利益のために政治権力を用いていることになります。
本来であれば、弾正台によって問答無用でたたっ斬らなければならない人物です。
まして、外国人や外国企業に、日本人の生活の根幹になる公共事業を売り渡すなど、言語道断です。

そもそも民間の事業は、平時において人々の暮らしを支えるものです。
地震や津波、噴火などの天然の災害や、戦争などの人災、自殺率や交通事故死や犯罪などの人災など、非常時における対応が公共事業の役割です。

たとえば現状で、携帯電話は、震災などの非常時には、日本の携帯電話は機能しません。
けれど災害は必ずやってくるのです。
そうであれば、災害時に人々が一斉に電話をしても繋がるように社会インフラを整える。
これは平時からみたら、無駄な設備投資です。
民間事業なら、経営効率が求められますから、無駄な投資はできません。
けれど公共事業は、非常時を前提としますから、平時から、非常時への備えのための設備投資をすることになります。
というか、公共事業というのものは、本来、そういうものなのです。

戦後の日本の政策、とりわけこの失われた30年の政策は、つまり、まったく真逆の行動であったのです。
日本は、社会インフラを外国に手渡し、ついには昨今では政治的意思決定さえも、外国に手渡しています。
すべては一部の人たちの金儲けのためです。

しかも、日本の政治は、日本の企業をいっこうに守ろうとしません。
世界が日本車つぶしにEVを推進すると、日本政府も一緒になってEVの推進をしました。
結果、どうなったかといえば、世界の政府は国民の信用を失い、多くの日本人も政府政治を信頼しなくなりました。

さらに国民が生きていくために必要な食に関しても、肥料はおろか、種子まで外国に売り渡す始末です。
そのような政治なら、政治など要らない、と思う国民が増えても致し方ないことです。
結果、投票率も下がる。
つまり政治がすでに国民から見放されているということです。

それをなんとかしようという真面目な人たちもいます。
するとその人たちは、街頭演説さえも、猛烈に邪魔をされることになります。
あきらかに違法なそのような行為があっても、治安を護るべき警察は、まったく動かない。

空いていて見通しの良い道路を時速40キロ制限の道路を60キロで走ったら、ネズミ捕りまでして捕まえる警察が、大音響で妨害行為をする常習犯に対しては、何もしようとしない。

日本は治安の良い国と言われてきましたが、いまや日本の治安は、デンマーク、アイルランド、ニュージーランド、オーストリア、シンガポール、ポルトガル、スロベニアにさえ抜かれ、第9位です。
そりゃそうです。
市民生活が脅かされても、警察は何もしない。

このような社会にあって、断捨離をして捨てなければならないのは、モノではなく、これまの価値観や思想です。
戦後に流行った価値観や思想の一切を、いまはあらためて見直すべきときにきているのです。

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